2.大好きだった(前編)

 

 

息せき切って目指すは、図書館。

 

建物前が小さな公園になっていて、大きな街路灯のたもとにベンチが置かれている。

 

足を組んで私を待つのは、大好きな人。

 

「マイさん」

 

足音に気付いて顔を上げた彼は、汗だくの私を認めると、にっこりと笑った。

 

下がった眉、細めた目、目尻のしわ、大好きな大好きな笑顔。

 

「ごめんね、帰り際に頼まれごとされちゃって」

 

「僕も今来たところです」

 

チャンミンが差し出した左手を握って、共に歩き出す。

 

人通りがほとんどない、等間隔に街路灯が並ぶ歩道を二人で歩く。

 

街路灯のオレンジ色の灯りに照らされる、チャンミンの端正な横顔を見上げる。

 

チャンミンと手を繋いで帰路につく。

 

「お~て~て~、つ~ないで~♪」

 

大きく前後に振って、私は歌う。

 

「の~み~ち~を、ゆ~け~ば~♪」

 

私の手を包み込む、温かい彼の手の平。

 

 

「マイさん、また痩せましたか?」

 

私の歩幅に合わせて歩くチャンミンが、口を開いた。

 

「チャンミンの気のせいよ」

 

前を向いたまま私は答えて、チャンミンの手を握りなおした。

 

「ちゃんと、ご飯食べてますか?」

 

「食べてるよ」

 

チャンミンの方を振り向けない。

 

時おり走り過ぎる車のテールランプ、自動販売機が放つ白い光、曇り空で星は見えない。

 

「手首が小枝みたいです」

 

私の手をすっぽりと覆う、チャンミンの指にギュッと力がこもった。

 

私は何も答えられない。

 

「途中で、美味しいものを買っていきましょう」

 

チャンミンが、腕を前後に振った。

 

チャンミンの腕は長いから、前に後ろにと私は振り回される。

 

「腕が千切れちゃうよ」

 

「千切れないよう、いっぱいご飯を食べようね」

 

「...うん」

 

不服そうにつぶやく。

 

 

チャンミンの手が私を繋ぎとめる。

 

強風が吹けば、私はどこかへ行ってしまいそう。

 

大丈夫。

 

チャンミンの手は離さないから。

 

チャンミンも離さないでしょ?

 

 

「ちゃんと眠れていますか?」

 

しんと落ち着いた口調で、チャンミンが尋ねた。

 

チャンミンが口にするのは、いつも私を案ずる言葉だ。

 

「寝坊するくらい、寝てるよ~」

 

ほんとうのことを言いたくなかった。

 

「嘘ですね。

そんな幽霊みたいな顔をして。

眠れてないんですね」

 

「そんなに心配なら、今夜も泊まっていってね」

 

「いいんですか?」

 

チャンミンの声は弾んでいる。

 

私が誘わなくても、泊まっていくくせに。

 

一緒に暮らそう計画を立てている途中だった。

 

私は前を向いたままだったけど、チャンミンの笑顔がどんなに輝いているか、見なくてもわかっている。

 

チャンミンの笑顔は、私を骨抜きにする。

 

高校生の時から交際していて、あれから10年も経つのにまだ好きで。

 

同い年なのになぜか敬語で、そんな彼の話し方が大好きで。

 

彼と目が合うと、未だに私の胸はときめきでいっぱいになる。

 

チャンミンがいてくれたら、私は無力じゃない。

 

 

 


 

 

「そろそろ帰りますね」

 

後ろから抱きしめていたチャンミンが、身体を起こした。

 

私とチャンミンの間で温められた空気が逃げてしまい、背中が急に寒々とした。

 

「もう?」

 

チャンミンに見捨てられたかのような、すがるような眼をしてしまったのだと思う。

 

チャンミンは、ふっと小さなため息をつく。

 

「そんな顔をしないでください。

仕方ないですね。

マイさんが寝付くまで、帰りませんよ」

 

再び横になったチャンミンは、私の前髪を指ですく。

 

「マイさんは、

僕がいないと、そんなに駄目になっちゃうんですか?」

 

チャンミンの腕の中で、私はこくりと頷いた。

 

ベッドに横たわったままの私の目に、薄暗い室内の様子が映る。

 

テーブルの上には、ほとんど手がつけられず冷え切ってしまった料理が並んでいた。

 

幸せなのに、寂しくて。

 

 

 


 

 

そうね、チャンミンの言う通り、痩せたかもしれない。

 

かなり痩せたかもしれない。

 

チャンミンの言う通り、幽霊のような顔をしているのかもしれない。

 

よく眠れないの。

 

目が冴えて、何度も寝返りをうって、ようやくまどろむのは夜明け頃。

 

玄関ドアから外へ出ると、パチンとスイッチを入れて、「外の顔」を作って出勤しているの。

 

食べたい欲が、眠りたい欲が消えてしまったみたいなの。

 

ご飯が美味しくないの。

 

眠くならないの。

 

私ってば、どうしちゃったんだろう。

 

チャンミン、どうしたらいいんだろう?

 

 

・・・

 

 

小さなおにぎり1つが、私にとって大盛りカツ丼くらいのボリュームに感じられる。

 

チャンミンは、ちびちびとかじる私を、じーっと見張っている。

 

「はい、よく噛んで。

少しずつでいいですから、飲み込んで」

 

ひと口食べるごとに、お茶を手渡してくれる。

 

「ほら、もうひと口。

あと少しですよ」

 

「うっ...」

 

胃の腑から、せりあがってくる吐き気に耐えられず、トイレへ走る。

 

トイレにうつむき、大きく息を吐く。

 

えずいてもえずいても、ほとんど出ない。

 

当然だ、ほとんど食べていないんだもの。

 

背後に立ったチャンミンは、口元にかかる髪をおさえてくれる。

 

「ごめんなさい。

無理に食べさせた僕が悪かったです」

 

優しく背中をさすってくれる。

 

「苦しいですね。

僕が悪かったです」

 

私の背をさすりながら、チャンミンは何度も謝った。

 

どろどろになった顔をタオルで拭いていると、チャンミンは冷蔵庫からゼリー飲料のパックをとってきて、私に渡す。

 

「これならお腹に入るでしょう?」

 

キャップを開けられずにいると、チャンミンは苦笑まじりのため息をついた。

 

「僕がいない時は、どうするんですか?」

 

キャップをひねる瞬間に、チャンミンの手の甲に浮かんだ血管を見つめながら、私は思う。

 

(全く、その通りなの。

 

どうしたらいいんだろう?)

 

 

そこだけ生気をはなつフィロデンドロンの鉢。

 

チャンミンが、マグカップに水を汲んで、フィロデンドロンの根元に注ぐ。

 

一度では覚えきれない突飛な名前だったから、言い間違えるたびチャンミンは笑っていた。

 

人の手のような形をした大きな葉っぱ。

 

じょうろを買わないといけませんね、と言いながら、買うタイミングを逃していた。

 

鉢植えの植物はね、鉢底から水が出るまでたっぷりやるのよ。

 

かつてした私のアドバイス通りに、生真面目な顔をして丁寧に水やりをするチャンミンを、見つめたのだった。

 

・・・

 

 

ねえ、マイさん。

 

僕はひどい男ですね。

 

僕がいないと駄目な女にしてしまっていますね。

 

安心してください。

 

僕はマイさんから離れませんから。

 

怖い夢を見たら、僕はたちまち目を覚まして、マイさんを抱きしめてあげますから。

 

 

・・・

 

 

ふと、習い事がしたくなった。

 

 

急にそんな考えが、浮かんだ。

 

チャンミンとの待ち合わせ時間より早く到着した日のことだ。

 

ふらりと入った閉館間際の図書館で、目に留まったちらしをパンフレットスタンドから1枚抜きとった。

 

いつものベンチに座って『市民講座のご案内』のちらしに目を通す。

 

料理教室、ダメ、英会話、ダメ、アロマテラピー、ダメ、ヨガ、ダメ。

 

「今日は早いんですね」

 

集中していたから、チャンミンがやってきたことに気付けなかった。

 

チャンミンは、隣に座って私の手元を覗き込む。

 

「習い事ですか、

いいんじゃないですか?」

 

「チャンミンもそう思う?」

 

「マイさんだったら...そうですねぇ...。

初めてのデッサン講座ですかね」

 

チャンミンは私のことなら、何だってお見通しだ。

 

「うん、そうなの。

これなら出来そうだから」

 

 

「いいですね。

いつか僕の顔を描いてくださいねー」

 

 

『いつか』

 

なんて甘やかな、幸福な響きだろう。

 

「何年かかるかなぁ?」

 

「かっこよく描いてくださいねー」

 

 

・・・

 

 

市民会館の一室で、週に一度の市民講座が始まった。

 

スケッチブックとデッサン用の鉛筆、練り消しゴム。

 

これらを入れるバッグも、チャンミンと一緒に選んだ。

 

気合が入っていた。

 

今ここで何か新しいことを始めないと、自分はダメになると切羽詰まっていた。

 

講習生は20人ほどで、講師も市内で絵画教室を開いているという、優しそうな女性だった。

 

教室をざっと見渡すと、20代から60代まで様々で、夜7時のクラスだということもあり、私のようなスーツ姿の者が半分。

 

長テーブルに2人ずつ席につく。

 

初回の課題は、めいめいが持参したものをデッサンする。

 

勤め帰りだから、通勤バッグに入れられるものは限られている。

 

つぶれないようタッパーに入れたものを取り出していると、「あっ!」という声が。

 

隣席の男性が、ひどく困った顔でティッシュに包んだものを凝視している。

 

その様子を見つめる私に気付くと、彼は肩をすくめて手の中のものを私に見せた。

 

「つぶれてしまいました」

 

ティッシュの中には、無残につぶれたピーマンが。

 

「困りました」

 

他の生徒たちは、バナナだとか、化粧ポーチだとかのデッサンを始めている。

 

「私のものでよければどうぞ。

沢山ありますから」

 

タッパーの中のイチゴをすすめた。

 

「美味しそうですね」

 

「今食べちゃったら、デッサンできませんね」

 

そう言ったら、彼は肩を小さく震わせて笑っていた。

 

清潔そうで、穏やかそうな人だというのが、第一印象だった。

 

きれいな歯並びをしていたし、ペンケースや鉛筆を取り扱う所作が丁寧だった。

 

ティッシュでくるんだだけのピーマンを、バッグに入れたらつぶれちゃうでしょうに。

 

きちんとしていながらも、ほんの少しの隙がこの人の魅力だと思った。

 

誰もが無言で、鉛筆が紙をこする音の中、テーブルの間をぬって講師が、一人一人に的確なアドバイスをする。

 

「しょっぱなから難しいものを選びましたね」

 

「そうなんです。

じゃがいもみたいになってしまいました」

 

イチゴを描くのは難しかった。

 

種を描こうとすればするほど、無数に穴が穿たれた塊になっていく。

 

隣を見ると彼も苦戦していて、私以上に下手くそで、小さく吹き出してしまった。

 

「笑いましたね」

 

彼は素早く両手でスケッチブックを隠したが、彼の両耳が真っ赤になっていて、さらに私は吹き出してしまった。

 

講師のお姉さんは、私と彼を前にお手本を見せてくれる。

 

「種を描こうとするのではなく、種の周囲の盛り上がった部分、

光が当たっているでしょう?」

 

彼が黒く塗りつぶしてしまった箇所を、練り消しゴムで軽くこすり取る。

 

「わぁ...」

 

一気に立体的なイチゴになって、私と彼は顔を見合わせる。

 

「光に注目してくださいね。

光を作れば、おのずと凹んだ部分ができますから。

影になっているからといって、黒く塗りつぶしちゃだめですよ」

 

すとんと納得できて、何度も頷いた。

 

 

講座が終了し教室を出た私は、彼を見てまた吹き出すこととなった。

 

彼は手の平にイチゴをのせたままだった。

 

「これ...食べてもいいですか?」って。

 

 

 

自然な流れで、駅までの道のりを彼と並んで歩くことになった。

 

ぽつりぽつりと、自己紹介に近い会話を交わした。

 

30代だろうか。

 

チェックのシャツに細身のデニムパンツとラフな格好だった。

 

着飾った感じはしないからアパレル系ではなさそう。

 

チャンミンみたいに背が高い人だった。

 

(そうなの。

なんでも、チャンミンが基準なの)

 

 

「僕はこういうものです」

 

別れ際、彼から名刺を渡された。

 

「設計士さん?」

 

「そうです」

 

何か言いたげな彼の表情に気付いて、私も名刺入れを取り出した。

 

「マイさん、ですか」

 

「はい」

 

 

「また来週」

 

「来週の講座で」

 

 

互いに軽く手を振って、駅前で別れた。

 

 

今夜は会えないとチャンミンには伝えてあった。

 

明日、上手く描けたイチゴの絵を、チャンミンに見せてあげよう。

 

 


 

 

デッサン講座の後に、彼とコーヒーを一杯飲むのが習慣になった。

 

ゆったりと落ち着いた物腰と、安心させてくれる低い声。

 

力が入っていた肩のこわばりがとけていった。

 

襟足の髪が、くるんと内巻きになっているのが可愛らしいと思った。

 

一週間が待ち遠しかった。

 

 

 


 

 

チャンミン...。

 

 

ごめんなさい。

 

 

気になる人ができました。

 

 

ごめんなさい。

 

(後編へ続く)

 

 

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