ふりかえるといるよ(3)

 

 

「チャンミン、ナナちゃんってどんな感じ?」

休憩時間が重なって、事務所兼倉庫で遅い昼食をとっていると、Sが切り出した。

「性格はいいよ」

「性格『は』ってどういう意味だよ」

笑うS。

 

「明後日、ナナちゃんと会うんだ」

「らしいね」

「なんだ、知ってるのか」

「ああ」

「ナナちゃんって、可愛いじゃん。

お前たちいつも一緒にいるだろ?

あの子によろめかないのが不思議だよ」

「僕には彼女がいるし、

あいつのことは、女として見ていないよ」

嘘だ。

「前カノと別れて2か月は経ってるからな、デートは久しぶりだ」

 

「ナナのこと、傷つけるなよ」

 

つい言い方がマジになってしまった。

僕の真顔にSは驚いたようだった。

「傷つけるもなにも、まだ付き合うとは決まってないじゃん」

 

「それもそうだな」

 

笑って誤魔化した僕は、甘ったるいだけの缶コーヒーをぐびりと飲みこんだ。

 


 

10日後。

 

後期試験を終えたばかりの僕らは、ファミレスに移動し、その日配布された用紙をテーブルに広げていた。

 

僕らの学部は5年生に進級する際に、いずれかの研究室に所属することになっている。

ナナは危なっかしくも、必要単位をひとつも落とすことなく、無事進級できそうだった。

僕のおかげだ。

試験前は、僕はナナの部屋に泊まり込んで、試験のヤマを張ってやった。

 

「チャンミン...あんたの背中を貸してくれない?」

「は?」

「席は私の前でしょ。

公式を全部、チャンミンの背中に書いておくの。

試験中のあんたは、Tシャツをめくってくれればいいだけ...って、

ったいなぁ!」

ナナはふくれて、僕に叩かれたおでこをこすっている。

 

「カンニングはしない主義じゃなかったのか!」

 

「カンニングでもしなきゃ、突破できない...無理」

 

テーブルに額をこつこつと打ちつけるナナは、物理学が苦手科目だ。

「苦手なくせに、どうして選択したんだよ?」

「チャンミンと同じにしておけば、提出物も試験も楽できるから」

「追試になれば、もう一度試験勉強する羽目になるんだぞ!」としつこく脅して、ナナを机に向かわせた。

よくもまあ考えつくものだと感心するくらい、ナナはあれこれ試験突破法を挙げてきて、その1つ1つを一蹴する僕。

「チャンミン...私の替え玉になって」

 

「は?」

 

「女装してさ、チャミ子になって私の代わりに受けるの」

 

「こんなデカい女がいるわけないだろ?」

 

「ハハハ!

チャンミンの顔なら、美女になれるって」

僕はため息をつく。

「これが解けたら、アイスを奢ってやる」

「やった!

チャンミン、だーい好き」

ナナは、僕の首に腕を回してハグした。

ドキンと心臓がはねて、カッと耳が熱くなるのが分かった。

 

やすやすと女の子を押し倒す僕が、軽いハグ程度で中学生になってしまう。

 

頼むからナナ、僕にくっつかないで。

 

僕は我慢してるんだ。

深夜過ぎ、狭いナナの部屋で顔つき合わせているのだって、キツくなってきてるんだ。

なぁ、ナナ。

 

ナナの言う「大好き」に、恋愛感情が少しでも含まれているのか?

 


 

ナナとの試験勉強は、楽しかった。

 

進級すれば、受講すべき講義も減り、研究室でのゼミや卒論研究でお互い忙しくなる。

 

ナナをなだめすかしながら、試験勉強をする機会も減るんだな。

惚れた腫れたにうつつを抜かす生活から卒業すべき時期を、僕らは迎えようとしていた。

「...で、ナナはどこにするんだ?」

僕の場合、希望研究室はとっくに決まっていた。

 

用紙には、第2希望まで記入する欄がある。

 

第1希望が定員オーバーになった際は、第2希望に回されることもあるらしい。

 

僕の希望するところは、基礎研究寄りで派手な実験をすることは少なく、ひたすら文献を読み漁る地味な研究室だ。

 

応用研究を行うところの人気は高いそうだから、第1希望で決まるだろう。

一方、ナナの用紙は真っ白だった。

 

「おい...、まだ決まってないのか?」

 

「うん...」

 

「提出期限は迫ってるんだぞ?」

 

ナナの料理は手をつけられないまま、冷めていく。

 

「分かってるって...。

...S君と同じとこにしようかな...」

 

「馬鹿!」

僕は声を荒げていた。

 

「いい加減にそういうところ、直せよ!

自分の将来を決める時だろう?

恋愛を差しはさむなよ!」

ナナに対して、腹が立った。

「...チャンミン...」

 

目を見開いて固まるナナに気付いて、僕は一息ついて苛立つ気持ちを落ち着かせる。

 

「ナナ...。

男に合わせるんじゃなくて、自分の意志を大事にしろ。」

 

「そんな風だから、彼らは振り向いてくれないんだ」とは言えない。

 

「だって...」

 

「お前は、何をしたいんだ?」

「わからないの」

ナナはうつむいて、ぽつりとつぶやく。

 

僕はナナが話しやすいよう、頷くだけにとどめた。

 

「私ったら馬鹿だよ。

4年間、一体何をしてきたんだろ。

恋にうつつを抜かしてばかりで、

気付けば、何がしたかったのかも見失ってた」

 

「その通りじゃないか」なんて口が裂けても、ナナに言えない。

 

ナナの4年間とは、恋愛がらみのことで消費するだけのものだったんじゃないかと、呆れたこともあった。

 

けれど、ナナに呆れる僕は何様なんだ。

僕の方こそ、性欲に任せて女の子をとっかえひっかえ数をこなすだけの馬鹿野郎だ。

僕の4年間といえば、ひたすらナナの側に居続けた事実が、全てだ。

 

十分じゃないか。

 

余白にびっしりと手書きの文字が並んだ、執念すら感じられたドイツ語の辞書。

あれを目にした瞬間、「お、こいつやるな!」って興味をもった。

ぞっとするほど怖い目をするくせに、言動はふわふわと危なっかしかった。

 

ちゃんとナナがついてきているか、僕は何度もふりかえった。

 

そんな4年間だった。

「提出まで一週間あるからさ。

いくらでも相談にのるよ」

 

うつむくナナの顔を覗き込んで、僕はナナの頭に手を置いた。

 

「初めからやりたいことが決まっている奴は少数派だと思う。

何かしらやっているうちに、自分に向いてることが分かってくるんだって」

 

ナナの目尻に、涙が今にもこぼれ落ちそうに溜まっていた。

 

指を伸ばして、ナナの涙を拭ってあげたかった。

 

触れかけた指を、僕は引っ込めた。

 

ボートネックのニットの衿から、キャミソールの細い肩紐がのぞいている。

 

今触れたら、ここがファミレスだってことを忘れて、ナナの頬を包んでキスしてしまいそうだった。

 


 

僕の部屋で酒でも飲むかと意見が一致して、僕らはファミレスを出た。

 

アルコール類を大量に買い込んだコンビニの袋が重かった。

 

「...で、どうだったんだ?」

 

ナナがなかなか話題にしないから、しびれを切らした僕の方から尋ねた。

先週のうちに、ナナはSと初デートを済ませていたはずだ。

 

いつ報告するのかと、気になって仕方がなかった。

「んー...」

 

歯切れが悪いナナ。

 

「何かやらかしたのか?」

「全然。

チャンミンの言われるように、おとなしくしていたよ」

 

「楽しかったか?」

僕は立ち止まって、後ろを歩くナナをふり返った。

ナナは僕の問いに応えず、何か言いたそうな目で僕を見つめている。

「どうした?」

 

「...ねえ、チャンミン」

 

「ん?」

 

「何回目のデートで、最後までいくものなの?

ほら、私ってば付き合った経験がないでしょ。

わかんないんだよね」

 

「Sに何かされたのか?」

 

僕は引き返して、ナナの腕をつかんだ。

 

「されてないけど...さ」

 

あごで切りそろえたナナの髪が、冷たい夜風になびいた。

 

「痛いかな」

 

「は?」

「チャンミン、詳しいでしょ?

そっち方面は?」

 

「はあ...」

 

僕は膝に手をついて、深いため息をついた。

 

突然、何を言い出すかと思ったら。

 

「あのな、男の僕に聞いてどうする?

女の友達に聞けよ」

 

「それができないから、チャンミンに聞いてるんだって」

 

「聞けないって、どうして?」

 

「友達の前じゃ、私は『経験済み』ってことになってるんだ」

 

「そんなところで見栄張ってどうするんだよ、馬鹿だなぁ」

 

「チャンミン、お願い!」

「うーん...」

 

身に覚えのあるあれこれを思い出そうとした瞬間、僕はハッとした。

 

そうだった。

 

男女がくっつけば、そういう展開になるのが普通だ。

 

意識が遠のくほどの胸の痛みを感じた。

いつまでも誰のものにならなかったナナに、僕は長い間、安心しきっていた。

「ん?」

コートの袖を引っ張られた。

「チャンミン、

お願いがあるんだけど?」

 

「今度はなんだよ?」

 

「私のバージンをもらってくれないかな?」

 

「え?」

 

僕はフリーズしてしまった。