ふりかえるといるよ(6)

 

 

ナナと一週間会っていなかった。

例の2年生の子との別れ話がこじれて、彼女の兄やら友人やらも登場しての修羅場だった。

責められても、悪いのは100%僕の方だ。

ひたすら謝るしかなかった。

一度、ナナから着信があったが、それどころじゃなかった僕は「また後で」とそそくさと切ってしまった。

 

長い春休みに突入していて、大学に行く必要もなかったから、バイトのシフトを増やした。

 

出勤してきた僕と、帰り支度をしていたSとロッカールームで鉢合わせした。

 

Sは、僕の顔を見ると、ニヤリと口の端をゆがめる。

 

「チャンミン、その顔どうした?女か?」

 

「ああ」

 

別れ話の最中に、逆上した彼女に何発か拳で殴られたのだ。

 

ロッカールームにいた他のバイト学生たちも寄ってきて、僕の顔を覗き見て笑った。

 

「こりゃ、痛いぜ」

「お前、オンナ関係派手だからな、ハハッ」

 

その言葉には無視して制服に着替えていると、Sが話しかけてくる。

 

「ナナちゃん、すげーいい身体してんの」

 

僕の着替える手が止まった。

 

「俺、久しぶりだったからさ、

何度でもイケるわけ。

ヤベーヤベー、

丸一日は部屋から出なかったな」

「あいつに...何したんだよ?」

声がうまく出せない。

しぼりだした声がかすれていた。

「何した、じゃなくて、何回したかって話。

チャンミン、お前の最高記録は何回だ?」

 

息が詰まって、呼吸ができない。

 

血の気が引いて、冷汗が噴き出るのが分かった。

 

「あの子さ、

目がマジで怖いったら。

萎えるじゃん。

あの子の目を塞いでヤったよ、なぁ?」

 

Sは周囲に同意を求める。

 

なぜSだけじゃなく、小太りのこいつも、筋肉バカの不細工も頷いてるんだよ。

 

こいつらは一体、誰の話をしてるんだ?

 

「ヤりまくりのチャンミンの紹介だからさ、

“そういう子”だって、思うだろう?」

 

「まさかの、“初めてちゃん”だったとはなー」

 

「俺らが“開発”してやらないとなー」

 

「なー」

 

ゲラゲラと笑い声。

 

この野郎...。

上半身がカッと熱くなって、気づくとSの胸ぐらをつかんでいた。

 

Sの後ろのロッカーがガシャンと音を立てる。

全身がたぎるように熱かった。

視界が狭い。

「何てことしてくれるんだよ!」

 

「お、落ち着けよ」

 

Sは怯えた目をして、つかみ上げた僕のこぶしを叩く。

 

「放せったら」

 

小太りと筋肉バカが、僕をSから引きはがした。

 

「お前の女じゃないんだろ、ナナちゃんは?」

 

Sは首をさすりながら、へらへらと笑う。

「じゃなきゃ、なにキレてるんだよ」

 

吐き気がした。

 

これまでの自分を、心の奥底から恥じた。

 

何人もの女の子たちをモノにし、泣かせてきた罰が当たった。

その罰は僕じゃなくて、ナナに当たった。

片想いでいるのがやりきれなくて、

心と身体をばらばらにした僕が、

ナナの心と身体を、めちゃくちゃに傷つけてしまった。

僕は大馬鹿野郎だ。

もっと早く、ナナに想いを伝えていればよかった。

断られたとしても、何度もあきらめずに。

いつかは、僕の方をふり向いてくれていたかもしれない。

ナナを振り向かせていれば、こんなことにならなかったのに。

ぞっとするほど怖いくらいのナナの眼差しを、受け止められるのは僕だけなのに。

今のナナは...。

 

苦しんでいるだろう。

傷つけたのは...僕だ。

 

 


 

階段を3段飛ばしで駆け上がり、ナナの部屋のチャイムを鳴らす。

 

ポケットから携帯電話を取り出して、履歴を確認した。

 

最後にナナから着信があったのは4日前だった。

電話をかけてきたナナの話を、しっかりと聞いてあげればよかった。

かけ直すこともせず、放置していた自分を殴りつけてやりたかった。

 

インターフォンから反応がなく、焦った僕はドアを何度か叩く。

​「ナナ!」

 

「ナナ!」

カチリとドアが開いた。

ドアの隙間からのぞくナナの顔を一目見て、ナナにしでかした事の重大さが重く僕にのしかかる。

 

あまりに痛々しくて目をそむけたくなったが、こらえてナナを正面から見つめた。

 

「ナナ...」

 

僕に3㎏痩せろとからかわれたばかりのナナが、それ以上に痩せていた。

「チャンミン...久しぶり」

「あ、ああ」

 

ナナについて部屋に入る。

 

「私、ちょっと調子が悪いから。

横になってていい?」

「あ、ああ、もちろん」

 

ストレートのボブヘアが、今はぺしゃんこにつぶれ、毛先がはねていた。

 

そろそろと歩くナナの背に手を添え、ベッドに横になったナナに布団をかけてやる。

いつも表情豊かなナナが、能面のようで目がうつろだった。

どれくらい泣いていたのだろうか、目が腫れぼったかった。

 

僕は、ナナのベッドの端に腰かけて、かける言葉がみつからず逡巡していた。

「ごめん」

「どうしてチャンミンが謝るの?」

ナナの瞳は、僕を見ているのに、まるで焦点が合っていない。

「Sを紹介したばっかりに...」と言いかけた言葉を飲み込んだ。

もしかしたら、ナナは僕に知られたくないと考えているかもしれない。

 

掛け布団のしわをのばしながら、ナナに話しかけた。

「...ちゃんと、ご飯食べてるか?」

「...食欲がなくって...」

「食べないと、元気がでないぞ」

「お腹を壊したのかな...ハハハ」

「牛乳を温めてきてやろうか?」

「いらない...ちょうどダイエットになるし」

「もっと太った方がいい。

なにか食べたいものはある?買ってくるよ」

「いらない。

でも、ありがとう、チャンミン」

 

ナナの「ありがとう」を聞いた途端、僕の目からボロボロと涙がこぼれ出た。

 

「ナナ、アイス好きだろ?

買ってくるから、待ってて」

泣いている顔を見られたくなくて、僕は立ち上がった。

「行くな!」

布団の中から、ナナの腕が伸びて僕のシャツを引っ張った。

 

「チャンミン...ここにいて」

 

ナナの瞳に、わずかだけれど鋭い光が戻っていた。

 

「いるよ」

裾をつかんだナナの手をとり、その手を両手で包んだ。

柔らかくて、小さな手だった。

まともにナナの手を握ったのは、これが初めてだったかもしれない。

ますます、泣けてきた。

 

自分が情けなかった。

 

「私の不幸話を、聞いてくれる?」

「いいよ」

「私、ひどい顔をしてるでしょ?」

「ナナ...」

「私がね、こんなにボロボロになっちゃったハプニング話なの」

「ああ」

「すっごく悲しい話だから、あとで私を慰めてね」

「もちろん」

 


 

「本当に怖かった。

 

痛かった。

 

男の力には敵わないから。

 

お酒をいっぱい飲まされてたから、あまり覚えてなくてよかった。

 

でもね、

チャンミンが初めての相手でよかった。

 

あんなケダモノが初めてだったら、死にたくなる」

「ナナ...」

あの夜、「ナナを抱いていないこと」は口が裂けても、ナナには言えなかった。

絶対に。

​一生、言うもんか。

「チャンミン...この手」

 

「ん?」

 

「血が出てる...どうしたの?」

「あ...」

指の付け根に血がにじんでいた。

「ボコボコにしてきたんだ」

「誰を?」

 

「ヤツを」

たった1発殴っただけだったから、ボコボコは大げさな表現だったけど。

「...チャンミン...ヤツから聞いたんだ」

 

「だから、ボコボコにしてきた」

 

「顔は?

殴られたの?」

 

「前カノからの怒りの鉄拳」

 

「あらら、バイオレンス・チャンミンだねぇ」

 

微笑んだナナが可愛らしくて、痛々しくて。

僕は立ち上がって、ベッドに上がる。

そして、横向きに寝るナナを後ろから抱きしめた。

ビクリとナナの身体が強ばった。

 

「大丈夫だから、僕は何もしないよ、安心して」

4年間ずっと、好きで好きで。

触れたい欲求を抑えて、プラトニックな関係を守ってきた相手が今、僕の胸の中にいる。

ナナの身体から、力が抜けた。

「チャンミン」

「ん?」

「よかった?」

「なにが?」

「気持ちよかった?

私とヤって、気持ちよかった?」

「ああ」

「ホントに?」

「気持ちよかったよ」

「よかった」

ナナの髪が、僕のあごをくすぐる。

「研究室は決まったか?」

「今その話するの?

決めたよ。

提出してきた」

「どこ?」

 

ナナが挙げた研究室は、一番人気で、かつ実験続きで泊まり込み覚悟のところだった。

 

「大丈夫か?

ハードなところだぞ?」

 

「頑張るから。

私、心を入れかえたんだ。

でも、激戦だろうから、入れないと思う」

「第2希望は?」

ナナが挙げた研究室名を聞いて、僕はため息をつく。

 

「チャンミンと同じ所ならあんたも安心でしょ?」

僕の腕の中で、ナナはくるりと寝返りをうって、僕の方を向いた。

「卒論も手伝ってもらいたいし」

 

「お前なぁ...全然改心してないじゃないか」

 

「私は、こういう人間なの」

「しょうがないなぁ。

僕がバックアップしてやるよ」

ナナの顔はみるみるゆがみ、目尻に涙が溜まってきた。

 

「頑張って一緒に卒業しよう、な?」

「うん」

口に出すなら、今しかないと思った。

「僕の独り言を聞いてほしいんだけど...?」

「何?」

「こんな時に話す内容じゃないのは、分かってる」

涙のせいでつやつやと光ったナナの瞳が、僕を射る。

「ナナは、僕にとって...大事な友達だ。

一緒にいて楽だし、面白いし...」

胸の鼓動が早い。

 

「...そんなことが言いたいんじゃなくて...」

ふぅっと一息つく。

「僕は、ナナが好きなんだ。

信じられないと思うだろうけど、

ナナのことが、ずっと好きだったんだよ。

気付かなかっただろ?」

耳が熱い。

​僕の両耳は、真っ赤になっているだろう。

「ナナが好きなくせに、

他の子とヤリまくってたんだから、おかしな話だ。

ナナはいつも誰か、好きな奴がいただろ?

そばで見ていて、僕は苦しかった」

「チャ...」

口を開きかけたナナの口を、片手で塞いだ。

 

「返事はいいから。

今は、いいから。

僕が女の子に、告白するのは初めてなんだ。

フラれることに慣れてないから。

返事はもうちょっと後で聞かせて」

ナナの目尻に溜まった涙を、僕は親指でぬぐってやった。

「もし、駄目でも、

僕は玉砕するつもりはないから。

何度でも言うから。

ナナが好きだって、何度でも言うから」

僕はナナの頭を胸に引き寄せて、抱きしめた。

「こんな僕でごめんな。

僕はナナの彼氏になりたい。

そんな資格が僕にないのは分かってる。

あっ、安心しろよ。

僕のチャンミンは、これからはナナにしか使わないから」

 

「ぷっ」

ナナが吹き出した。

肩を震わせて笑っている。

ナナがふりかえれば、僕はいるよ。

僕も何度でもナナをふりかえるよ。

「ナナ、僕の独り言を聴いてくれて、ありがとう」

 

ナナの腕がそろそろと、僕の背にまわった。

 

それだけでもう、十分だった。

 

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