「もっと吸って」
彼女に懇願していた。
「もっと...もっと吸って」
うわ言のように繰り返した。
「お願いだ...吸って...!」
彼女のためなら命を失ってもよかったんだ。
大型連休に突入し、多くの同級生たちが家族の元へ帰省していった。
僕の場合、行きたいところもない、欲しい物もない、そんな鬱々とした気分だった。
かといって、一週間も寮でゴロゴロ過ごしていたら、ますます気持ちが沈み込みそうだった。
皆にならって、僕も帰省することにしたんだ。
1時間に1本、普通列車がやっと停まる寂れた駅に降り立った。
しとしとと雨が降っていた。
閉鎖してしまった観光案内所と公衆トイレがぽつんとあるだけの、駅のロータリー。
当然のごとく客待ちのタクシーなどないし、ばあちゃんには帰省することを伝えていなかったから、迎えの車もない。
荷物はリュックサック1つと身軽だった僕は、徒歩40分くらい歩いて向かうことにした。
濡れようが、濡れまいがどうでもよかった。
それくらい、自分に対して投げやりになっていた。
10分も歩かないうちに、スニーカーの中がぐずぐずに濡れてきて、歩を進める度にキュッキュッと音をたて始めた。
ささやかな商店街を抜け、水田を貫く片側一車線の道を20分も歩くと、針葉樹の木立の中だ。
間伐されていないせいで、木々は密集しており、伸びるに任せた枝が空を覆っている。
緑のコケに覆われた幹が連なる薄暗い道を、黙々と歩き続ける。
生い茂るシダから滴がぽたぽたと落ちていた。
茶色い杉葉がアスファルトのあちこちにへばりついている。
危険を感じる間もなかった。
背中に衝撃を感じた。
景色がぐるっと回転したのち、一瞬目の前が真っ暗にになって、視界に光の粒がチカチカと瞬く。
僕は硬い地面に叩きつけられていた。
雨粒が、仰向けになった僕の顔をたたく。
悲鳴すら出せなかった。
そして、真っ白い顔が僕を見下ろしていた。
一切の音が消滅して、痛いくらいに心臓が拍動するドクドクと音をたてている。
喉の奥でせき止められていて、言葉は出ない。
僕を見下ろす一対の瞳は、これ以上はないほど真っ黒だった。
逆光だったにも関わらず、肌は青白く光っている。
女だった。
非常事態にも関わらず、唯一血色を感じられる目尻が妖しかった。
僕は、この女にタックルされ、突き倒され、組み敷かれていた。
なぜ?
なぜ?
僕の頭はクエスチョンだらけ。
地面に打ち付けられた背中が、ズキズキと痛んだ。
彼女の白い指が、僕の肩に食い込んでいた。
肩を押さえつけていた片手が、僕の喉にかかる。
冷たい、冷たい手のひらだった。
彼女の指の下で、ぼくの頸動脈が脈々としているのが分かった。
恐怖のあまり、しゃくりあげるような呼吸がやっとだった。
彼女は蒼白な唇の片側だけで微笑む。
彼女の顔が近づいてくる。
どこかで見たことがある、という考えが頭の片隅をかすめた。
僕が覚えているのは、ここまでだ。
彼女の唇が、僕の左首筋に押し当てられた。
溶けかかった氷のような感触だった。
大の字に寝ていた。
ここは...どこだ?
頭だけを動かして、周囲を見回す。
見上げると、太い鉄骨の梁、外の光を透かしている波板トタン。
鉄工所のような場所だった。
僕は、真っ白なマットレスの上にいた。
砂埃だらけのコンクリート床の上に、直接置かれている。
手足をためつすがめつしてみたが、怪我は...していないようだ。
上体を起こして、初めて気づく。
下着だけの、裸だった。
着ていたTシャツもデニムパンツも、近くに見当たらなかった。
ますます、訳が分からなくなった。
「おはよう」
彼女がマットレスの端に腰かけていた。
背中まである長い髪。
前髪は眉毛の上で切りそろえられている。
アルビノのように真っ白な肌と、睡眠不足みたいなクマ。
長いまつ毛の下には、青みがかった墨色の目。
整った小さな鼻。
魔女みたいな黒い、ゆったりとしたワンピースを着ている。
そこだけポッと紅い目尻を細めて、僕のことを興味深そうに舐めるように見ていた。
そして、ファストフードでよくあるような、LLサイズのカップに差したストローをくわえている。
「えっと...?」
彼女の顔を見て、冷たい唇の感触を思い出した。
左首筋に手をやったが、怪我の気配はない。
「何もしていないから」
クスクスと彼女は笑った。
「貴方の名前は?」
「チャ、チャンミンです」
「ふぅん、変わった名前ね」
「僕は...どうしてここに?」
「私が連れて帰ったの」
どうやって?
抱えて?
そんな小さな身体で?
なぜ?
常識的な疑問が次々と湧いてくる。
「美味しそうだったから、連れて帰ったの」
美味しそう?
僕は絶句する。
「ゆっくり味わおうと思って」
味わう?
頭がおかしい人なのかもしれない。
「貴方って、美味しそうなんだもの。
食べちゃおうとおもったけど、もっと美味しく育ててからにしようと思って」
「食べる?」
「そう」
食べるって?
育てるって?
意味が分からない。
彼女の瞳が、群青色に変わっていた。
「美味しそうね。
少しだけ食べさせて?」
「え?」
さっと空気が動いたかと思うと、
強引に両ほほを押さえつけられ、僕の唇に彼女の唇が押しかぶさった。
冷たい唇、けれど柔らかい唇。
息が出来ず口を開けたすきに、彼女の舌が僕の口腔内にぬるりと侵入してきた。
僕の思考は止まった。
鉄の味がした。
彼女の舌がぐるっと僕の口の中なぞる。
僕の舌はくわえられて、彼女の歯があたる。
彼女の口から漂う、甘い香りに酔った。
息ができない。
でも、気持ちがいい。
頭の芯がじんじんと痺れる。
全身にぞくぞくと震えが走った。
気付けば、僕は彼女の首を引き寄せていた。
突然、彼女は僕を突き放した。
その勢いで、僕はマットレスに仰向けに倒れこんでしまった。
息が荒い。
「美味しい。
今日のところは、これくらいにしておくね」
彼女は、息が止まってしまうほど、甘い微笑みを見せた。
「ごめんなさい。
血が出ちゃったね」
「あ...」
口の中が、鉄の味でいっぱいだった。
舌先がじんと痛い。
僕の血がついた唇は赤く染まり、瞳は漆黒に変わっていた。
「......」
彼女のキスで、僕の中の何かに火がついた。
彼女の視線が、僕の顔から胸、腹と移り、腰までいくと止まった。
「あなたの洋服はまだ乾いていないの。
こんな天気だから」
トタン屋根を叩く雨音が、うるさいくらいに反響していた。
立ち上がった彼女の動きで、さっき嗅いだ甘い香りがふわりと漂った。
巨大な鉄骨の向こうにいったん消えると、僕の服を腕にかけた彼女が戻ってきた。
「濡れてて気持ち悪いだろうけど、服を着て。
もう帰っていいわよ」
ぱさりと僕の膝に洋服が投げられる。
それらに手を伸ばす気はなかった。
嵐のような欲情が、僕の中で吹き荒れていた。
僕は、とても、興奮していた。
(つづく)