(4)大好きだった-Don’t Wanna Cry-

〜C〜

 

僕はひどい男ですね。

僕がいないと駄目な男にしてしまっていますね。

安心してください。

僕はあなたから離れませんから。

怖い夢を見たら、僕はたちまち目を覚まして、貴方を抱きしめてあげますから。

 

 


 

~ユノ~

 

ふと、習い事がしたくなった。

急にそんな考えが、浮かんだ。

チャンミンとの待ち合わせ時間より早く到着した日のことだ。

ふらりと入った閉館間際の図書館で、目に留まったちらしをパンフレットスタンドから1枚抜きとった。

いつものベンチに座って『市民講座のご案内』のちらしに目を通す。

料理教室、ダメ、英会話、ダメ、アロマテラピー、ダメ、ヨガ、ダメ。

 

「今日は早いんですね」

 

集中していたから、がやってきたことに気付けなかった。

は、隣に座って俺の手元を覗き込む。

 

「習い事ですか?

いいんじゃないですか?」

チャンミンもそう思う?」

 

「あなただったら...そうですねぇ...。

初めてのデッサン講座ですかね」

「俺が...デッサン?」

 

致命的に絵が下手くそなことを知っていて、勧めてくるチャンミンはさすがだ。

 

「習えばマシになるかなぁ」

「なりますよ。

いつか僕の顔を描いてくださいねー」

 

『いつか』

 

なんて甘やかな、幸福な響きだろう。

 

「何年かかるかなぁ?」

「何年でも待ちますよ。

僕にはたっぷり時間がありますから。

僕の絵を描いて見せてください」

 

それが叶わないことを、俺は知っている。

 

 

市民会館の一室で、週に一度の市民講座が始まった。

スケッチブックとデッサン用の鉛筆、練り消しゴム。

これらを入れるバッグも、チャンミンと一緒に選んだ。

気合が入っていた。

今ここで何か新しいことを始めないと、自分はダメになると切羽詰まっていた。

講習生は20人ほどで、講師も市内で絵画教室を開いているという、優しそうな女性だった。

教室をざっと見渡すと、20代から60代まで様々で、夜7時のクラスだということもあり、俺のようなスーツ姿の者が半分。

長テーブルに2人ずつ席につく。

初回の課題は、めいめいが持参したものをデッサンした。

勤め帰りだから、通勤バッグに入れられるものは限られている。

つぶれないようタッパーに入れたものを取り出していると、「あっ!」という声が。

隣席の男性が、ひどく困った顔でティッシュに包んだものを凝視している。

その様子を見つめる俺に気付くと、彼は肩をすくめて手の中のものを見せてくれた。

 

「つぶれてしまいました」

 

ティッシュの中には、無残につぶれたピーマンが。

 

「困りました」

 

他の生徒たちはバナナだとか、化粧ポーチだとかのデッサンを始めている。

 

「俺のものでよければどうぞ。

沢山ありますから」

 

そう言って、タッパーの中のイチゴをすすめた。

 

「美味しそうですね」

「食べるのはデッサンの後にしないとな」

 

そう言ったら、彼は肩を小さく震わせて笑っていた。

清潔そうで、穏やかそうな人だというのが、第一印象だった。

きれいな歯並びをしていたし、ペンケースや鉛筆を取り扱う所作が丁寧だった。

ティッシュでくるんだだけのピーマンを、バッグに入れたらつぶれるだろうに。

きちんとしていながらも、ほんの少しの隙がこの人の魅力だと思った。

誰もが無言で、鉛筆が紙をこする音の中、テーブルの間をぬって講師が、一人一人に的確なアドバイスをする。

 

「しょっぱなから難しいものを選びましたね」

「そうなんです。

じゃがいもみたいになってしまいました」

 

イチゴを描くのは難しかった。

種を描こうとすればするほど、無数に穴が穿たれた塊になっていく。

隣を見ると彼も苦戦していて、俺以上に下手くそで、小さく吹き出してしまった。

 

「笑いましたね」

 

彼は素早く両手でスケッチブックを隠したが、彼の両耳が真っ赤になっていて、さらに俺は吹き出してしまった。

講師のお姉さんは、俺と彼を前にお手本を見せてくれる。

「種を描こうとするのではなく、種の周囲の盛り上がった部分...光が当たっているでしょう?」

彼が黒く塗りつぶしてしまった箇所を、練り消しゴムで軽くこすり取る。

 

「わぁ...」

 

一気に立体的なイチゴになって、俺と彼は顔を見合わせる。

 

「光に注目してくださいね。

光を作れば、おのずと凹んだ部分ができますから。

影になっているからといって、黒く塗りつぶしちゃだめですよ」

 

すとんと納得できて、何度も頷いた。

講座が終了し教室を出た俺は、彼を見てまた吹き出すこととなった。

彼は手の平にイチゴをのせたままだった。

「これ...食べてもいいですか?」って。

 

 

自然な流れで、駅までの道のりを彼と並んで歩くことになった。

ぽつりぽつりと、自己紹介に近い会話を交わした。

30代だろうか。

チェックのシャツに細身のデニムパンツとラフな格好だった。

着飾った感じはしないからアパレル系ではなさそう。

チャンミンみたいに背が高い人だった。

 

(そうなんだ。

なんでも、チャンミンが基準なんだ)

 

「僕はこういうものです」

 

別れ際、彼から名刺を渡された。

俺は息をのんだ。

 

「シムさん?」

「そうです」

 

何か言いたげな彼の表情に気付いて、俺も名刺入れを取り出した。

彼は両手で受け取った俺の名刺をしばし、眺めていた。

 

「また来週」

「来週の講座で」

 

互いに軽く手を振って、駅前で別れた。

今夜は会えないとチャンミンには伝えてあった。

明日、上手く描けたイチゴの絵を、チャンミンに見せてあげよう。

 

 

デッサン講座の後に、シムさんとコーヒーを一杯飲むのが習慣になった。

ゆったりと落ち着いた物腰と、安心させてくれる低い声。

力が入っていた肩のこわばりがとけていった。

襟足の髪が、くるんと内巻きになっているのが可愛らしいと思った。

一週間が待ち遠しかった。

 

 

チャンミン...。

ごめん。

気になる人ができた。

ごめん。

 

(つづく)

 

【追記】

※不幸の香りが漂うこのお話。

何度も書いていますが、語り手であり主人公のユンホ(ユノ)を信じてください。

主人公はユンホ(ユノ)です。

このお話は、ユンホ(ユノ)の幸福を祈って書いたものです。

 

『水彩の月』も同様で、語り手であり主人公のチャンミン(シムチャンミン)を信じてください。

主人公はチャンミン(シムチャンミン)です。

『水彩の月』は、チャンミン(シムチャンミン)の幸福を祈って書いたものです。

「ユンホさん」の死を認めたチャンミン(シムチャンミン)は前に向かって歩き出したのです。

『水彩の月』と『Don’t Wanna Cry』は、対になっています。