【21】NO?-僕は別れを告げるー

 

~チャンミン~

 

「何か作ろうか?」

 

ソファで雑誌をめくるリアに声をかけた。

 

「ジントニック」

 

ジントニックはリアの好きなカクテルで、冷蔵庫にはトニックウォーターのストックは欠かしていなかった。

 

ライムは切らしていたので、八つ切りにしたレモンを添えた。

 

右手にビール、左手にジントニックのグラスを持って、リアの隣に座った。

 

「この時間に、君がいるのは珍しいね」

 

そこまで言って「しまった」とヒヤリとした。

 

何の気なしの一言が、リアにとっては嫌味に聞こえるらしいから。

 

「たまにはゆっくり休みたいのよ」

 

ジントニックをちびちびと口に運びながら、ため息交じりのその言い方に疲れがにじんでいた。

 

リアの言う通り、彼女は疲れているようだった。

 

とはいえ、すっぴんでも十分美しいリアの横顔。

 

かつて僕の心をぎゅっと捕らえた彼女の美貌。

 

リアの為に何でもしてやりたかった。

 

今のリアは、隣にいるのに遠い存在だった。

 

リアがいなくても、寂しいと思わなくなっていた。

 

いつの間にリアのことを 過去形で語っている自分にあらためて驚いた。

 

「なあ、リア...」

 

「リア」と発音する一言目がかすれてしまって、僕は咳ばらいをした。

 

口をつけずにいたビールの缶を、ローテーブルに置いた。

 

ビールなんて全然飲みたくなかった。

 

手の平にも脇の下にも汗をかいている。

 

ユンのオフィスでかいた汗とは種類の違う汗だ。

 

無言が続いてしまって、僕の様子がおかしいことに気付いたリアが 僕の方に身体を向けるように座りなおした。

 

「チャンミン...可哀そうに。

あなたも疲れているのね。

仕事が忙しいのね」

 

マニキュアが綺麗に塗られた白い指が伸びてきて、僕の片頬を撫ぜた。

 

「いや...僕は大丈夫だよ」

 

僕は首を振って、リアの手首をつかんで、そっと下ろした。

 

リアはごくごくたまに、僕を気遣う優しい言葉を吐くから、僕は困るんだ。

 

「チャンミン...顔がマジで怖いんですけど...?

どうしたの?」

 

リアは、僕の顔をまじまじと見る。

 

西欧の血が混じったリアの瞳は、明るい茶色をしている。

 

かつて、この美しい1対の瞳が僕のものになったと、喜びのあまり心打ち震えるほどだったのに。

 

僕は意を決して、言った。

 

「僕は...リア...と、

別れたい」

 

「え?」

 

毛先がカールしたまつ毛に縁どられた大きな目が、もっと大きくなった。

 

「別れたいんだ」

 

「え...?」

 

リアの声もかすれていた。

 

「別れる?

私と?」

 

「ああ、そうだ。

君と別れたい」

 

「嘘...でしょ?」

 

「嘘じゃない。

僕は、本気だ」

 

「チャンミンの口からそんな言葉で出てくるなんて、信じられないんですけど?」

 

「信じられない」を繰り返して、リアは顔をゆがめて笑った。

 

 

「...チャンミンのくせに...」

 

「え?」

 

「チャンミンのくせに、そんなこと言っていいわけ?」

 

 

からかうような笑いを含んだ言い方だった。

 

チャンミンのくせにって、一体どういう意味なんだよ。

 

リアにとって僕は、下の立場なのか?

 

リアに押し倒された数日前にも、同じセリフを聞かされた。

 

リアとの別れを決心させた台詞を、もう一度聞かされた僕には、怒りすら湧いてこない。

 

寂しい気持ちでいっぱいだった。

 

 

「僕だって、『そんな言葉』を口にできるんだよ」

 

 

「あんなに好きって言ってたじゃない?

私のことを愛しているって。

リアじゃなければ駄目だって。

リアのために何だってするって。

その言葉は嘘だったわけ?」

 

「嘘じゃなかったよ、当時はね。

でも今は...違う」

 

「大嘘つき」

 

リアの目に涙が膨れ上がり、口が斜めに歪んでいた。

 

リアの唇にキスすることは、二度とない。

 

「この部屋に住み続けることは、僕には出来ない。

僕は出て行...」

 

 

ピシャリと冷たいものが顔にかかった。

 

リアがグラスの中身を僕に浴びせたのだった。

 

「信じられない...!

急に別れたいとか、住めないとか言われて、私はどうすればいいのよ!

チャンミン!

私を捨てるっていうこと?」

 

 

「捨てるだなんて...。

僕らはもう終わってたじゃないか?」

 

前髪からジントニックがポタポタとしたたり落ちた。

 

 

「僕らはずっと別々だった。

僕はいつも独りだった。

何のために同じ部屋に住んでいるのか、分からなくなったんだ」

 

「分かったわ」

 

リアが大きなため息をついた。

 

「私、これから早く帰るから。

それで、いいでしょ?」

 

「そういう問題じゃないんだ」

 

リアと過ごす時間がこれから増えたからといって、僕の意思が翻ることはない。

 

僕の心はもう、別のところに向いているんだ。

 

「嫌よ!

別れたくないから!」

 

 

別れたくない、だって?

 

「分かった、別れましょう」って、リアはあっさり頷いて、この別れ話はさくさく進むと高を括っていた。

 

「チャンミンとの暮らしは退屈だったの。

私もいつ言い出そうかタイミングを見計っていたのよね。

で、チャンミンはいつここを出て行くの?」ってな感じに。

 

ところが、予想外のリアの拒絶っぷりに、僕は驚いていた。

 

 

「リア...」

 

顔を覆って泣き崩れたリアの肩を抱こうとした手を、僕は引っ込めた。

 

リアを傷つけたくなかったけど、別れ話をしている時点で十分傷つけている。

 

残酷な言葉だけど、今ここではっきり言葉にしないといけない。

 

 

僕はすっと息を吸った。

 

 

「僕はもう、恋人として君を、愛していない」

 

 

リアが投げつけた空のグラスが、僕の胸に当たった後、床に落ちてガシャンと割れた。

 

 


 

~民とチャンミン~

 

「はいはーい。

 

チャンミンさん!

 

もうすぐ帰りますよー。

 

今、向かってますよー。

 

何か買って帰りましょうか?

 

え?

 

え?

 

今からですか?

 

もう23時ですよぉ。

 

明日は休みですけど。

 

うーん、いいですよ。

 

え?

 

どこにいるんですか?

 

え?

 

それじゃあ、分かりません。

 

駅の裏ですか...。

 

裏ってどっちの裏です?

 

北口がどっち側なのかが、既に分かんないんですよ。

 

待ってくださいよー、今地図を見てますから。

 

おー、分かりました。

 

デパートがある反対側ですね。

 

今から向かいますね。

 

うーん...どうやってそっちへ行けばいいんですか?

 

地下道?

 

その地下道がどこにあるのか分からないんですよ...あっ!

 

線路の下のところですね...。

 

ありました...薄気味悪いんですけど。

 

大丈夫ですか、ここ?

 

カツアゲとかされませんよね...。

 

ストップ?

 

ここで?

 

こんな不気味なところで待つんですか。

 

嫌です。

 

駅に戻っていいですか?

 

早く来てくださいよ。

 

チャンミンさん、走ってるんですか。

 

はい、急いでくださいね。

 

あ!

 

チャンミンさん、発見です!

 

ここです!

 

チャンミンさん!」

 

携帯電話を耳に当てたチャンミンと、民が合流した。

 

サーモンピンクのシャツに白のスキニーパンツ姿(全身チャンミンからの借り物)の民と、黒い部屋着にビーチサンダル姿のチャンミンだった。

 

「民ちゃん...」

 

民を一目見た途端、駆け寄ったチャンミンは安堵のあまり民にしがみついてしまった。

 

民の二の腕をつかんで肩に額をつけたチャンミンを、民はまじまじと見つめていたが、ため息をついた。

 

「チャンミンさん。

酔っぱらってますね。

真っ赤ですよ」

 

「民ちゃん...」

 

「お酒臭いですよ」

 

「......」

 

「もう遅いですから、お家に帰りましょうよ、ね?」

 

「帰りたくない」

 

「へ?」

 

「帰りたくない」

 

チャンミンは民の肩に額を押しつけたままつぶやいた。

 

「チャンミンさん...」

 

「今夜は、家に帰りたくない」

 

「リアさんと何かあったんですか?」

 

「......」

 

 

「そうですか」

 

察した民は、肩の上のチャンミンの頭に手をおいた。

 

チャンミンの洗い髪が民の頬をかすめ、チャンミンがかいた汗の匂いに民はドキリとした。

 

民にとってのチャンミンは、大人で余裕がある頼もしい人だったから、民の肩にすがるチャンミンの行動にとまどってもいた。

 

 

「チャンミンさんもリアさんも辛いですね...。

そうですか。

帰りたくない、ですか...」

 

よしよし、とチャンミンの後頭部を撫ぜた民は、

 

「朝まで飲みますか?

でも、あいにく私はお酒が強くないんですよ。

知ってますよね?」

 

民の肩に伏せたままのチャンミンが身動きしない。

 

「チャンミンさんも、たっぷり飲んだみたいだし。

これ以上は、よくないですよ」

 

「帰りたくない」

 

「困りましたね...」

 

民は周囲を見回していたが、

 

「いいこと思いつきましたよ」

 

チャンミンの肩を叩いた。

 

「あそこ!

あそこにお泊りしましょう!」

 

「泊まる!?」

 

チャンミンの顔が素早く持ち上がった。

 

(ミミミミミミミンちゃん!?)

 

民が指さす先に チャンミンはフリーズした。

 

 

僕の名前で君を呼ぶ    TOP