【30】NO?-君が遠くなっていくー

 

~民~

 

「今夜はごちそうさまでした」

 

ユンさんはふっと笑みを浮かべると、「遅くまで悪かったね」と言って、マンションを見上げた。

 

「お兄さんは心配しているだろうね」

 

ユンさんとのキスで頭がパンクしそうになっていた私は、チャンミンさんの部屋に住んでいる事情を端的に説明できなくて、「もう寝ちゃってると思うので、大丈夫です」と答えた。

 

食事の後、私とユンさんは雰囲気のいいカフェに入って2時間ほど過ごした。

 

レストランでお腹いっぱいに食べたくせに、甘いものは別腹な私は、ユンさんに勧められるままケーキをオーダーした。

 

何を話したらいいのかわからなくて、食べることと飲むことに専念した。

 

ケーキを3個も食べる私を、ユンさんは穏やかな優しい眼で見ていた。

 

「民は美味しそうに食べるね」って。

 

私は胸がキュンとする(それでも、ケーキは食べられるの。食い意地が張ってるの)。

 

ユンさんが右を見る度、赤い跡が見え隠れするから、そこへ視線をやらないように意識していた。

 

恋人がいるんですよね。

 

私へのキスなんて、ユンさんにしてみたら「軽い」ことなんだよね、きっと。

 

期待しちゃいけない。

 

ユンさんは遠い憧れの人なんだから。

 

「また明日」

 

「はい」

 

ユンさんは私の顎に指の背で軽く触れると、車に乗り込んだ。

 

助手席に乗せてもらったのは。今夜で2度目。

 

大きくてかっこいい黒い車。

 

ユンさんの車が交差点を曲がって見えなくなるまで見送った。

 

「はぁ...」

 

私は5分位、マンションのエントランス前で呆けていた。

 

チャンミンさん、心配しているだろうなぁ。

 

でも...。

 

チャンミンさんを見ると、正体の分からない気持ちがもやっとする。

 

チャンミンさんのお部屋が、ちょっとだけ居心地悪くなってきたの。

 

チャンミンさんとリアさんが解散して、あの部屋を引き払うことになるのかどうかは私には分からない。

 

今の私がすべきことは、新しい住まいを探すことだ。

 

「よし!」と声に出すと、私はエントランスドアを開錠したのだった。

 


 

 

~チャンミン~

 

 

リアのキスを受け止めた僕は、やけくそだった。

 

「抱かないのなら死んでやる」の言葉に、僕の心臓が凍り付いた。

 

単なる脅しだったのだとしても、ここまで捨て身になったリアが哀れで、同時に怖かった。

 

最後に1度セックスをすればリアが納得するのなら、抱いてやろうと思った。

 

本心は、嫌でたまらなかった。

 

リアの激しくて濃密なキスに引きそうになったが、ここでリアを拒否したりなんかしたら、次も自分を傷つけそうだ。

 

リアは僕の首に巻き付けた腕に体重をかけるから、僕は仰向けになったリアを組み敷く格好となった。

 

僕の心はしんと冷えていた。

 

リアがからめてくる舌に機械的に応えながら、民ちゃんのことが頭をよぎった。

 

「リアと別れたい」と民ちゃんの肩で涙を流した夜を思い出した。

 

僕を慰めてくれた民ちゃん。

 

優しい子だ。

 

あの夜の出来事が遠い。

 

 

「!」

 

リアの手がTシャツの下から忍びこんできた。

 

僕の胸の先端を、指先でいじりだした。

 

「リアっ...」

 

民ちゃんが指摘したように、僕はここに弱い。

 

「待てっ!

ここでするのか?」

 

「うんっ...ここで...

お願い...激しくして」

 

僕の首筋にリアが吸い付く。

 

リアは僕の手を取ると、自身の豊かな胸に添えさせる。

 

手の平の下に、リアの柔らかくて弾力に富んだ胸を感じているけれど、これっぽちも欲情が湧いてこない。

 

民ちゃんには好きな人がいる。

 

片想いだと言っていた。

 

『例の彼』に人を見る目が備わっている男ならば、男の子みたいな民ちゃんが無意識のうちに放つ、性差を超えた妖しい魅力に気づくだろう。

 

彼女のユニーク過ぎる性格や性根の優しさに気づくだろう。

 

民ちゃんの透明で澄み切った瞳に映るのは、自分だけなんだと独占してしまいたくなるだろう。

 

例えば、僕のように。

 

民ちゃんの想いが『例の彼』に伝わらなければいいのに。

 

『例の彼』が、民ちゃんの美しさに気づかなければいいのに。

 

 

「!!」

 

リアの片手が僕の胸から腹、腰へと下りていった。

 

他の女性のことを考えながらリアを抱くなんて。

 

リアにすごく失礼だ。

 

「リア...!

やっぱり...よそう」

 

僕のパンツのウエストゴムにかかったリアの手をつかんだ。

 

「こんなの...よくないよ」

 

「放して!」と、僕の手を払いのける。

 

リアの顔が遠い他人に見えた。

 

「!!」

 

僕の股間を確認したリアの手が、ぱたりと床に落ちた。

 

「リア、ごめん」

 

わっとリアが声を上げて泣き出した。

 

リアを抱き起した僕は、背中を叩いてやった。

 

ごめん、リア。

 

他に好きな人が出来た僕が悪いんだ。

 

「ごめん」

 

僕はリアの頭を贖罪の気持ちを込めて撫ぜた。

 

 

かちゃりと鍵を開ける音がした。

 

「!!!!」

 

「ただいまでーす...。

おっと...皆さまはもうお休みのようですね」

 

小声の主は...民ちゃんだ!!

 

電子レンジのデジタル時計を確認すると、午後23時45分。

 

ふんふんと調子っぱずれの鼻唄を歌っている。

 

よかった、帰ってきた。

 

キッチンの床に座り込んだ僕は、立ち上がって民ちゃんの元へ駆け寄ろうとした。

 

ところがリアが放してくれない。

 

舌打ちしたい気持ちを抑える。

 

リビングに現れた民ちゃんが、ワンピースを着ていた。

 

昨日はちらっとしか見られなかった。

 

黒地に白い小花が散ったロング丈のワンピースは、ほっそりとした身体のラインを控えめにひろいながらすとんと落ちている。

 

ウエストがきゅっと細かった。

 

襟ぐりが広く開いていて、白いデコルテとそこから繋がる長い首が華奢なイメージを醸し出していた。

 

アシメトリーに分けた白い前髪が、青い髪飾りで留められている。

 

ヤバい...可愛い。

 

リアと抱き合っていることを弁解することも忘れて、民ちゃんの姿に見惚れてしまって口もきけない。

 

女装している男には全然、見えなかった。

 

僕の目というバイアスがかかっていたとしても、民ちゃんは綺麗だった。

 

そっか...。

 

今夜、帰りが遅かった理由は...『例の彼』と会っていたんだ。

 

胸がきゅっと痛くなった。

 

民ちゃんが僕らの気配に気づいて、パッと振り向いた。

 

「民ちゃん...」

 

「...チャンミンさん」

 

民ちゃんの目がまん丸に見開かれた。

 

「...リアさん」

 

続いて、僕の腕の中のリアにも気づくと口もポカンと開いている。

 

「ごめんなさい!」

 

民ちゃんは目を伏せると、180度身体を回転させた。

 

「びっくりしました...。

私は、何にも見てませんからね。

...お風呂をお借りしますね。

ごゆっくり...」

 

顔を背けた状態で、民ちゃんは浴室の方へ消えた。

 

キッチンカウンターの下に、紙袋が横倒しになっている。

 

リアともみ合いになった時、手足が当たったのだろう。

 

カップケーキがいくつも床に転がっている。

 

「民ちゃんのために貰ってきたんだ。全部食べてもいいからね」って、勧められなくなったカップケーキ。

 

誰かと会っていた民ちゃん。

 

僕とリアは復縁したのだと誤解したに違いない民ちゃん。

 

ワンピースを着た民ちゃんが綺麗で。

 

民ちゃんが遠くなっていく。

 

 

「民ちゃん...!」

 

僕は引きはがすようにリアの身体から離れると、立ち上がった。

 

「チャンミン!」

 

リアの不服そうな声を無視する。

 

浴室からシャワーの音が聞こえる。

 

シャワーを浴びる民ちゃんの元へ乱入して、抱きしめて誤解を解きたかった。

 

けれども、僕は民ちゃんの兄の友人に過ぎない。

 

僕には民ちゃんへ、リアとのことを弁解する義務もないし、民ちゃんの恋に口出す資格もない。

 

リアと別れるために、リアとディープなキスをしたし、リアを抱こうとしていた。

 

途中で止めたからセーフだなんて、言いわけにもならない。

 

だから、僕は閉ざされたドアを開けることができない。

 

 

僕の名前で君を呼ぶ   HUG

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