【32】NO?-僕は君と手を繋ぐー

 

~民~

 

病院までのタクシーの中、猛烈な睡魔に襲われた私はうとうとしかけていた。

 

ジェットコースターみたいに感情が急上昇と急降下を繰り返して、ヘトヘトだった。

 

これから数日間は、お兄ちゃんちの家事手伝いで大わらわになって、思い煩う暇もないだろうから助かった。

 

隣のチャンミンさんは、タクシーに乗り込んでからずっと無言で、反対側のサイドウィンドウの外を見ている。

 

深夜過ぎに一人で行かせるのは心配だから送っていくって、私を子供扱いするチャンミンさん。

 

タクシーを使うから、外を歩くこともないのに。

 

でも、ちゃんと私のことを思ってくれてることが分かって、私は嬉しかった。

 

お兄ちゃんみたいに頼れる人。

 

自分自身の後ろ姿は、肉眼では見ることができないものだ。

 

チャンミンさんの短く刈り込んだ襟足とか、にょきっと突き出た耳とかを、へぇ、後ろ姿はこんな感じなんだ...って観察できる。

 

私とチャンミンさんが瓜二つなおかげで、できることだね。

 

ユンさんとのキスが遠い出来事になってきた。

 

それくらい、チャンミンさんとリアさんのことが衝撃だった。

 

バルコニーでのこと。

 

チャンミンさんに質問したのに、私の欲しい回答は得られなかったし、チャンミンさんの言い訳も聞けなかった。

 

病院まではあと30分以上はかかるから、時間は十分。

 

チャンミンさんに、もう一回質問してみよう。

 

「あ...!

忘れるところだった...」

 

ユンさんに連絡を入れなくては。

 

義姉の出産の件で数日間お休みをもらうことは、面接の時に伝えてあったから、許可はもらえれるはずだ。

 

時刻はもうすぐ午前3時で、ユンさんは寝ている時間だろうからメールを送ることにした。

 

『夜遅いですので、メールにて失礼します...』とメールを打った。

 

ユンさんが恋人の背中を抱いて眠っている光景が、ぼわーんと頭に浮かんだのを首を振って消去した。

 

長文にならないように簡潔に文章を考え考え、送信ボタンを押した私はふうっと息を吐いてシートに深くもたれた。

 

「民ちゃん?」

 

窓の景色を眺めていたチャンミンさんが、いつの間にか私の様子を窺っていた。

 

「上司に連絡をしました。

数日はお仕事を休まなければならないので...」

 

「そっか...」

 

「ふう」って深く息を吐いたチャンミンさんの胸が、大きく上下した。

 

視線を落とすと、チャンミンさんは落ち着きなく膝をとんとんと指で叩いている。

 

何かイライラすることでもあるのかな...って思っていたら、

 

「ひ!」

 

リュックサックを抱えていた私の手に、チャンミンさんの手が重なった。

 

ビクッと跳ねると、チャンミンさんの手に力がこもった。

 

隣のチャンミンさんは、じっと視線を前に向けたままだ。

 

「え...っと?」

 

チャンミンさんの手の中でもぞもぞと指を動かしていたら、私の指の間にチャンミンさんのが滑り込んできて、ぎゅっと握りしめられた。

 

こ...これは...『恋人繋ぎ』ではないですか!?

 

ぐんと体温が上がって、脇の下や手の平にどっと汗がにじみ出たのが分かる。

 

チャンミンさんの意図がわからなくて、繋がれた手とチャンミンさんの横顔を交互に見た。

 

「民ちゃん」

 

「はい...」

 

「ここでの生活は慣れた?」

 

「は、はい。

未だに反対方向の電車に乗っちゃうこともありますけど...なんとかやってます」

 

「そっか...。

仕事は楽しい?」

 

「楽しいと感じられるまでには至ってません。

おっちょこちょいですし、要領が悪くて...でも、上司の方が寛大な方なんです。

本当にありがたいことです」

 

チャンミンさんは私の手を握ったままだ。

 

手と手を合わせて、手のサイズを比べた日のことを思い出す。

 

顔も背格好も同じな私たちだけれど、チャンミンさんの方が一回り大きな手をしていて嬉しかった。

 

チャンミンさんの手に包まれた指を動かして、チャンミンさんの手の甲や指の節の骨を、指先でなぞる。

 

チャンミンさんは何も言わない。

 

「上司の人はいい人なんだ?」

 

「はい。

今夜は夕ご飯を御馳走してくれたんですよ...、って!!」

 

しまった!!

 

「えっ!

そうだったの?」

 

繋いだ手に力がこもり、チャンミンさんが私を覗き込む。

 

「えーっと...その...歓迎会みたいなものです...」

 

職場は私とユンさんの2人だけですけどね、と心の中で補足した。

 

「だから、ワンピースを着て行ったんだ?」

 

「そうです。

似合いもしないのに、着て行っちゃったんです...。

気合を入れ過ぎました」

 

両耳が熱い。

 

手の平も汗でびしょびしょだろうから、恥ずかしくて繋いだ手を引っ込めようとしたけれど、チャンミンさんは離してくれない。

 

「似合ってたよ、すごく」

 

「ホントですか!」

 

嬉しくてぱっと顔を上げたけど、ワンピース姿を見られた時の状況を思い出してしまった。

 

チャンミンさんはリアさんと、アレをしようとしていた(アレの後かな?前かな?最中かな?)。

 

「あの状況で、よく見えましたね」

 

ぼそっと言った私の声が、嫌味に満ちていてイヤになる。

 

「ちゃんと見えてたよ...あんな状況だったけれど...。

ねえ、民ちゃん...」

 

チャンミンさんの声のトーンが低くなった。

 

「ひとつだけ言い訳させてくれないかな?」

 

そうなの。

 

チャンミンさんの言い訳が聞きたかったの。

 

チャンミンさんは、私に対して悪いことなんか全然していないのに、恋人と抱き合うのは当然のことなのに、このことについて言い訳して欲しかったの。

 

新たに誕生した妹に、お兄ちゃんが横取りされたみたいな気持ちなのかな。

 

私って、なんて子供っぽいのだろう。

 

「僕はこの6か月...7か月はいってるかな、リアとアレはしていないよ」

 

「へ?」

 

「僕とリアがまるでアレしてる風に見えたかもしれないけれど、違うんだ。

どうしてあんな風だったのかは...いろいろあってね。

信じられないと思うけど、とりあえず...「違う」ってことを言いたかったんだ」

 

「......」

 

信じるか信じないかは脇に置いておくとして、チャンミンさんの弁解がきけて私が嬉しかった。

 

リアさんといちゃいちゃしてて悪かったな、って私に対して思って欲しかった。

 

なんでだろうね。

 

「そうですか...分かりました」

 

嬉しいくせに、ちょっと不貞腐れた言い方をしてしまう。

 

「...さっきの話の続きだけど。

ほら、バルコニーで」

 

「?」

 

「ファーストキスの話。

民ちゃんの言いかけてただろ、途中まで?」

 

「ああ!

そのことですか」

 

あの時は、「ファーストキスは3時間前ですー」って言うつもりだった。

 

チャンミンさんがリアさんといちゃいちゃしていたのを見て、腹立たしかった私は、対抗したくて惚気てやろうって思っていた。

 

でも。

 

チャンミンさんと手を繋いでいる今は、そんなこと言ったらいけないって気持ちになった。

 

チャンミンさんと手を繋ぎながら、他の人のこと...ユンさんのことを想っていたらいけないって。

 

なんでだろうね。

 

でも...男の人は、それができるのかな。

 

恋人がいるのに、誰か他の人と手を繋いだり、ぎゅっとしたり、キスしたりできるのかな。

 

そんなことをできっこない私は、お子様なのかな。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

僕の手指の神経を研ぎ澄まして、民ちゃんの薄い手の感触を味わった。

 

民ちゃんと手を繋ぐのは、これで2度目。

 

1度目は、ビアガーデンに行ったときのことだ。

 

あの時と今では、民ちゃんへ抱く感情が大きく異なっている。

 

つい3時間前にリアの背を抱いていた手で、民ちゃんの手を握っている。

 

もちろん罪悪感はある。

 

だけど、「恋人がいるから」「好きな人がいるから」といった常駐している抑制が、ある時湧き上がった欲求によって外れることがある。

 

例えば今のように。

 

僕の隣でぶつぶつ言いながら携帯電話を操作していた民ちゃんの横顔に見惚れた。

 

肩を抱き寄せたり、キスしたりは出来ない。

 

だから代わりに、民ちゃんの白くてほっそりとした手をとった。

 

それは衝動的に近くて、先ほどまでリアを抱こうとしていた手であることなんか、すっかり忘れていた。

 

それはそれ、これはこれ。

 

こういった割り切り方ができるようになったのは、いくつかの恋愛を経験してきた大人だからなのだろうか。

 

恐らく、民ちゃんには理解できない部分だと思う。

 

それにしても、リアの要求をのんで、リアと別れるためにコトを成そうとしたことは、許されるものじゃない。

 

民ちゃんにかくかくしかじか全部説明して、分かってもらおうなんて馬鹿げたことはしない。

 

話してどうなる?

 

僕の恥をさらすだけだし、何よりもリアの名誉を傷つけてしまうことは、いくら別れた相手だとしても、絶対に許されることじゃない。

 

民ちゃんがどう思っているか分からないけれど、僕は少しだけでもいいから民ちゃんに触れたくて仕方がなかったんだ。

 

僕に突然手を握られて、民ちゃんは一瞬ビクッとしたけど、手を引っ込めるでもなくそのままでいてくれる。

 

民ちゃんの細い指が、僕の手の甲をさわさわとくすぐっている。

 

ぞわっとした心地よい痺れが、手から背筋へと走り、僕の下半身に火が灯る気配を感じて、焦る。

 

民ちゃんはそんなつもりはないだろうけど、手の甲への愛撫だけで感じるなんて。

 

「私のファーストキスは...」

 

「うんうん?」

 

「まだ...です」

 

「ええっ!?」

 

「嘘です」

 

「なあんだ」

 

セーラー服を着た民ちゃんが、学生服の男子とキスするイメージが浮かんだ。

 

男子の方はつま先立ちなんだ。

 

ファーストキスか...30過ぎた僕にとって遠くて、懐かしい過去だ。

 

そんなことよりも、ひっかかっていることがある。

 

今夜のデートの相手が『例の彼』じゃなく、職場の上司だと知って心底ほっとしたが。

 

「上司って...スケベ親父じゃないだろうな?」

 

「まっさか!

親父って年じゃありません」

 

「いくつ位?」

 

「40歳です」

 

「独身?」

 

「独身...と聞いてます」

 

心配になってきた。

 

民ちゃんがワンピースを着なくちゃいけないようなところ...値段のはるレストランか?...に連れて行くなんて、下心ありまくりじゃないか。

 

「大丈夫か?」

 

「大丈夫ですよ。

そんな人じゃありません」

 

民ちゃんはきっぱりと言い切った。

 

 

「チャンミンさん」

 

「ん?」

 

「男の人は...例えばですよ?

付き合っている彼女がいたとして、

もしくは好きな人がいたとして。

それでも、他の人とキスってできるものなんですか?」

 

バルコニーで僕が答えられなかった質問を、民ちゃんは再び投げかけてきた。

 

待てよ...。

 

民ちゃんに心を奪われているのに、リアと深いキスをすることができた。

 

だから、民ちゃんの質問に対する答えは「イエス」だ。

 

そう答えていいのだろうか?

 

リアともつれ合ってところを民ちゃんに目撃された時を、早戻ししてみる。

 

民ちゃんが帰宅した時は...僕とリアは...キスはしていなかった。

 

ということは、「リアと別れたがっていた僕が、リアとキスできるのはなぜだ?」と問いただしてるわけじゃなさそうだ。

 

民ちゃんは、どうしてこんな質問をするのだろう。

 

分かりやすい子だから、民ちゃんの中で何かがあったに違いない。

 

「どうしてそんなこと聞くの?」

 

すると、民ちゃんが泣き出しそうな、切なさそうな、僕が初めて見る表情を見せた。

 

 

僕の喉がごくりと鳴った。

 

 

「私にキス...できますか」

 

 

「!」

 

 

「チャンミンさんだったら、私にキスできますか?」

 

 

民ちゃん発言に僕はフリーズした。

 

僕の周囲から音が消えた。

 

「民ちゃん...急に、どうした?」

 

「どうもこうもしてません!」

 

 

民ちゃんが、消え入るような小声で言った。

 

 

チャンミンさんは、私が相手でも、キスできますか?」

 

 


 

 

~タクシー・ドライバー~

 

 

深夜2時30分。

 

呼び出されたマンションの前で乗り込んだのは、若い男二人。

 

似ているから、双子か?

 

片方の頭は、雪みたいに真っ白だ。

 

行き先が片道1時間弱はあるところで、距離が稼げて「今夜はついている」と気持ちが上向いた。

 

ちらちらとバックミラー越しに後ろの様子を窺った。

 

モデルみたいにきれいな二人だったから、ついつい見てしまう。

 

ぼそぼそと会話を交わしている。

 

信号待ち時、さりげなく後ろを振り返ったら、手を繋いでいて「おっ!」と驚いた。

 

やれやれだ。

 

世の中、いろんな人がいるもんだ。

 

!!

 

頭の白い方の顔が、黒い方の頭で隠れた。

 

キスしてるじゃあないか。

 

バックミラーから視線を前方に戻したら、赤信号に気付いて慌ててブレーキを踏んだ。

 

ぐっと前のめりになり、シートベルトが肩に食い込んだ。

 

危ない危ない。

 

「お客さん、すんません」

 

後ろの2人に謝りながら、振り返った。

 

 

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