【51】NO?-さようなら、君との日々①-

 

「大変だったね」

 

ユンはベッドに腰掛ける民の前でしゃがむと、見上げて優しい笑顔を見せた。

 

身支度をした民の姿に、ユンは

 

「あれ...?

退院?」

 

と尋ねた。

 

「はい。

頭を切った程度で済みました」

 

(やっぱりドキドキする。

私は、ユンさんのことが好きだったんだ...)

 

民の心を容易に揺さぶる人物が、予想もしていなかったタイミングで登場した。

 

自分の落ち度から病院へ担ぎ込まれてしまった自分が、恥ずかしてたまらなかった。

 

「お兄さんから連絡をもらってね。

すぐにでも顔を見に行きたかったんだが...

夜遅くはご迷惑だろうから、今日になってしまって悪かったね」

 

「そんなこと...ないです。

間抜けですみません...」

 

ユンは首まで真っ赤にした民の頬を、指の背で撫ぜた。

 

身震いした民に、ユンは内心「ちょろいな」と思った。

 

(俺の言うこと成すこと全てに、敏感に反応する。

 

この子相手には、駆け引きなんて必要ない。

 

だから、この子を落とすことなんて簡単なことだ。

 

素肌にキモノだけを羽織って俺の前に出た民の、かき合わせた衿を握ったこぶしを目にした時、自分のことがまるで、震える小鹿を前にしたどう猛なオオカミのようだった。

 

一気に手折ってしまいたくなるが、一瞬ためらってしまうのは、本気を出したら、この子を滅茶苦茶に傷つけてしまうことが必至だからだ。

 

それは可哀想だと思うことが、今までの俺では考えられないこと。

 

泣かせるのではなく、楽しそうにしている表情を見たい。

 

嵐のように奪って、むさぼって、最後に泣き顔といった、お決まりの展開にはしたくない。

 

こんな心境は初めてだ)

 

ちらちらとユンの表情を窺う民に、いたわりの笑顔を見せながら、ユンはそのようなことを考えていた。

 

(ユンさんは...やっぱり素敵な人だ...)

 

ユンを見下ろす格好になって、民はさりげなくユンの髪の生え際や、広い肩幅や、仕立てのよいシャツ...。

 

(あれ...?)

 

ユンからいつもの香水の香りがしないことに気付いた。

 

(そっか...ここは病院だから...ユンさんはさすがだな)

 

「無断で休んですみませんでした。

明日には仕事できますから」

 

民の手を軽く叩いて、ユンは立ち上がった。

 

「謝らなくていい。

今週は休みなさい。

昨日は民くんが顔を出さなくて、心配だった」

 

(モデルを引き受けたことを今になって後悔して、辞めたくなったのではと予想していたんだけどな)

 

「すみません...」

 

「謝るな、と言っただろ?」

 

「はい、すみません...あ、また謝っちゃいました」

 

「君の『お兄さん』...チャンミンさんも随分心配していたよ」

 

「え!?」

 

「俺のところに電話があってね」

 

「そうでしたか...」

 

(チャンミンさんがお兄ちゃんだなんて、言った覚えはないんだけどな。

間違えてもおかしくはないんだけど...)

 

「これから、どうやって帰るの?」

 

「お迎えに来てもらっています」

 

「ご家族に?」

 

ユンに問われて一瞬、民は迷う。

 

「チャンミンさんが(家族じゃないんだけどな)...」

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

会計窓口が混雑していたせいで時間がかかってしまい、民ちゃんの病室に早歩きで向かう。

 

カーテンの向こうから男の声がして、誰だろうと思った。

 

「民ちゃ...」

 

民ちゃんの隣にユンがいた。

 

一気に不愉快になったが、先日のように大人げない振る舞いは控えようと、ムッとした表情になりそうなのをグッと堪えた。

 

今日のユンは相変わらず、忌々しいほどスマートな装いだ。

 

「帰ろうか」

 

民ちゃんの手を引いて立ち上がらせる。

 

「でも...」

 

戸惑ったように、僕とユンの間を交互に見る民ちゃん。

 

「昨夜、民くんの『お兄さん』に連絡をもらいましてね。

こうして駆けつけたわけです」

 

「わざわざすみません」

 

僕は軽く会釈する。

 

「よろしければ、私の車で送りましょうか?」

 

「いいんですか?」

 

(民ちゃん!

嬉しそうな顔をするなって)

 

ぱっと顔を輝かせた民ちゃんの手首を、ぎゅっと握った。

 

「結構です。

タクシーを呼んでありますので(嘘だけど)」

 

「今日は予定もありませんし、私の方は構わないのですよ?」

 

ユンは民ちゃんの方をちらっと見ながら言った。

 

「お気遣いありがとうございます。

遠回りをさせてしまいますから、僕たちだけで大丈夫です」

 

「とにかく、民くんが平気そうで安心しました。

それじゃあ、来週。

仕事のことなら心配しなくていい。

しっかり休みなさい」

 

そう言い終えて民ちゃんの顎に触れるユンの手を、思い切りはたきたくなるのも抑える。

 

民ちゃんに触るなよ。

 

セクハラだろう?

 

上司にしては、距離が近すぎるだろう?

 

「そうだ!」

 

立ち去りかけたユンが、思い出したかのように立ち止まって、僕の方を振り向いた。

 

「最終号の作品ですが、先日説明していたイメージのものでいきたいと考えています」

 

「?」

 

「3本の腕のことです。

モデルが必要でしてね。

一度断られましたが、チャンミンさんにもモデルになっていただきたいのです」

 

ユンの言い方だと、他にもモデルがいるみたいだ。

 

あちこちでアンテナを張って、好みの子を探しているんだろう。

 

最初から全く気乗りがしない僕だったから、考えているふりをしていた。

 

ところが、「正式に、依頼します」とユンに頭を下げられるし、民ちゃんも「へぇ...」と目を輝かせて僕を見るしで、頷くしかなくなった。

 

「モデルと言っても、全部脱げとは言いませんから」

 

「えぇっ!」

 

民ちゃんがあげた声に驚いて、民ちゃんの方を窺うと両手で口を覆っている。

 

うっかり口を滑らしてしまった時の仕草だったから、「あれ?」と思った。

 

「ま、脱いでも構わないのでしたら、こちらとしては大歓迎です」

 

「そういうのはお断りします」

 

僕が引き受けたのは、アトリエに出入りする口実が増え、ユンをけん制できると考えたから。

 

ユンに関してはなぜか、なぜだか嫌な予感がしたんだ。

 

民ちゃんを見るユンの目がまるで、恐怖におびえる小鹿を前にしたオオカミのそれのようなんだ。

 

加えて、その小鹿が自らすすんで襲われることを望んでいるような...民ちゃんの表情からそんな願望を感じとったんだ。

 

民ちゃんを傷つけるような奴から守らないと、といつだか強く思ったこと。

 

今がその時なんだと、危なっかしい空気を察した。

 

 


 

 

身体がまだ辛いのか、帰りのタクシーの中で民ちゃんは終始無言だった。

 

僕に背を向けた姿勢で、ぼんやりと車窓からの景色を眺めていた。

 

気になってちらちらと様子を窺っていたが、10分もしないうちにまぶたが閉じていた。

 

膝の上でくたりと置かれた彼女の手を、僕の膝に引き寄せてゆるく握った。

 

照れくさくて「僕の服」と言って手渡したけど、彼女が今着ているストライプ柄のシャツは、民ちゃんのために内緒で購入していたものだった。

 

民ちゃんのことだから、合わせが女ものになっていることに気付いていないと思う。

 

余程深く眠っているのか、民ちゃんの手はぴくりとも動かない。

 

よかった。

 

民ちゃんが無事で、本当によかった。

 

 


 

 

帰宅後、「もう寝ます」と民ちゃんは6畳間に引っ込んでしまった。

 

手持ち無沙汰になった僕は、キッチンに立って夕飯の仕込みをすることにした。

 

民ちゃんがいなくなった夜、買い込んできたまま、ぞんざいに冷凍庫に放り込んだ肉を解凍し、野菜の皮をむき、刻んで、炒めて煮込んだ。

 

心が落ち着いていく。

 

リアの帰りを待ち続けた幾夜も、こうして手を動かすことで荒れそうな心を鎮めてきた。

 

鍋の中身をかきまわしながら、賃貸情報サイトを巡った(気になるものは問い合わせた)。

 

6畳間をそっと覗くと、白い布団の上から民ちゃんの髪がのぞいていて、熟睡している姿に頬がほころんだ。

 

よかった。

 

民ちゃんが僕の家にいる。

 

 


 

 

「ああーーーー!!」

 

悲鳴に近い大声に、鍋をかき回していたお玉を放り出して、洗面所へかけつける。

 

「どうした!?」

 

「チャンミンさん...どうしましょう...」

 

キャミソール姿の民ちゃんに、一瞬ドキリとした。

 

シャワーを浴びるために、洋服を脱ぎかけていたのだ。

 

頭を覆っていたネットが外され、髪があっちこっちくしゃくしゃになっている。

 

「どうしたの?」

 

民ちゃんの両眉が下がり、口角もぐっと下がった。

 

そして、くるっと僕に背を向けるから、訳が分からずにいた。

 

「頭を見てください」と、後頭部を指さしている。

 

これは痛いはずだ...民ちゃんの頭の傷は三又に分かれていて、10針以上縫われている。

 

周囲が丘のようにぽこりと腫れていて...。

 

「!」

 

「そうなんです...ハゲになってます...」

 

これだけの怪我をしたら、治療のために髪の毛を刈って当然だ。

 

「うっうっうっ」

 

しゃくりあげる民ちゃんの背中をぽんぽんと優しく叩いた。

 

「ハゲですよ、ハゲ!」

 

いっそのこと短くしてしまえば、目立たないよ、なんて提案はできない。

 

無理に女らしい恰好をしないけど、同時に無理に男らしい要素を取り入れたがらない民ちゃんだから、髪を今より短くするのは嫌に決まってるから。

 

「帽子をかぶったら?」

 

「帽子は頭がムズムズするから好きじゃないんです。

それに...男度がアップします」

 

「うーん...」

 

キャップをかぶった自分の顔を思い浮かべて、なるほどそうかもしれない、と民ちゃんの指摘に納得する。

 

「そうだなぁ...」

 

「元通りになるのに、どれくらいかかりますかねぇ?」

 

「3か月くらい?」

 

「そんなあ...」

 

「そうだ!

カイ君に相談してみたら?」

 

「おー!

グッド・アイデアですね」

 

たちまち機嫌を直した民ちゃん。

 

「髪は僕が洗ってあげるよ。

一人じゃ、洗いにくいだろ?」

 

「そうですね...じゃあ、お言葉に甘えて」

 

ズボンの裾をたくしあげ、腕まくりをした僕は、シャワーの湯加減をみてから、民ちゃんを手招きした。

 

「おいで」

 

民ちゃんの手を引いて、空のバスタブの中に座らせた。

 

「首を伸ばして」

 

「はい。

濡らさないでくださいね」

 

窮屈そうに両脚を折り曲げた民ちゃんは、バスタブの縁から身を乗り出した。

 

「心配ご無用」

 

細い首からつながる背骨の凸凹が、女性らしく華奢だなと思った。

 

傷口にかからないよう、水量を弱めたぬるま湯で髪を濡らす。

 

「痛くない?」

 

「大丈夫です」

 

手の平でシャンプーをたっぷりと泡立てた。

 

民ちゃんの形のよい頭を、指先だけで注意深く、丁寧にマッサージするように。

 

民ちゃんは僕に頭を預けて、じっとしている。

 

こんな感じ、映画のワンシーンであったな。

 

外国の映画だった。

 

逃亡中の男女がいて、ホテルのバスルームで、男が彼女の髪を洗ってやっていた。

 

そのシーンがとても色っぽいと思ったことを覚えている。

 

ぴんと立った耳に泡がついていたから、そっと拭ってやる。

 

白いうなじと、僕と同じくせっ毛。

 

 

少しだけなら。

 

ほんの少しだけなら。

 

民ちゃんの耳たぶにそっと、気付かれないようにそっと軽く唇を押し当てた。

 

胸が苦しかった。

 

 

昨夜は恋人のフリをするだなんて、大胆なことが出来たのに、本腰をいれようと威勢のいいことを考えていたのに。

 

いざ、素に戻って民ちゃんを前にすると、肝心な言葉が出てこなくなる。

 

変わってしまうことが怖いから。

 

雰囲気が悪くなったり、拒絶されることが怖いから。

 

黙っていれば、今のままでいられる。

 

恋人のフリをした理由も説明できていない。

 

民ちゃんが、僕のことを忘れたふりをした理由も質問できていない。

 

リアとのいざこざを耳にしたはずの民ちゃんに、そうじゃないと誤解を解くこともできていない。

 

民ちゃんが話題に出すまで、黙っているつもりでいる僕は臆病だ。

 

無残な有様の、民ちゃんの後頭部を痛まし気に見る。

 

痛かっただろうな。

 

可哀想に。

 

「湯加減は?」

 

「ちょうどいいです」

 

丁寧に濯ぎ終えて、バスタオルでそっと民ちゃんの頭を包みこんだ。

 

押すようにやさしく水気をとってやる。

 

「チャンミンさん、鼻に泡がついてますよ」

 

そう言って民ちゃんは、人差し指で泡を拭ってくれた。

 

 

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