2.交わした契り、四月の雪

泣きながら彼女を抱いた。

ひざの上にのった彼女にしがみついて、僕は泣いた。

口づけを交わしたまま、彼女の帯を解く間ももどかしかった。

見つかるわけにはいかないから、暗闇の中、手探りで愛し合う。

暗闇だからこそ、聴覚と触覚、嗅覚が研ぎ澄まされた。

彼女の香りを、胸いっぱい吸い込んだ。

僕が動くたびに、彼女は淫らな吐息をを漏らす。

熱いものでいっぱいに包まれて、僕は陶酔の世界に沈み込む。

彼女に思いのたけを、僕の恋情をぶつけるかのごとく、深く腰を突き上げた。

僕は溺れていた。

二度と浮上できないほど、のめりこんだ恋だった。

 


 

 

目に飛び込んできた景色が真っ白だった。

夢みたいで、騙されたみたいで、僕はあっけにとられて惚けていた。

四月も半ばだというのに、雪が降っていた。

贅沢に油を焚いたこの空間は、湿気をおびた温かな空気に満ちている。

所狭しと様々な大きさの鉢が並べられ、団扇ほどある丸葉や細く尖った葉の、奇怪な植物たちが植えられている。

鉄格子にはめられたガラス板が、白く曇っていた。

雪景色と、熱帯生まれの植物。

けだるい僕のそばには、僕の愛しい人。

桜が満開だというのに、雪もちらついて。

まるで天国みたいだった。

天国とは、こんな場所をいうんじゃないかな。

永遠に閉じ込められたい。

苔むしたレンガの上に転がっていた彼女の草履を、揃えなおした。

毛布がもぞもぞと動き、彼女も目を覚ます。

黒髪が、肩を滑ってさらさら落ちた。

彼女の長髪を留めていた髪飾りを外したのは、昨夜の僕だ。

僕が持ち込んだごわごわ固い、粗末な毛布から彼女の白い肩がのぞく。

事情を全て知り尽くした、口の堅い女中が間もなく彼女を迎えに来る。

僕が解いた帯を締め、着物を整えるために。

彼女自身では、着つけることのできない、豪奢な絹の着物を。

そして、彼女のつややかな髪を結いに。

甘くとろけるような顔を、瞬時にきりりと引き締めると、

「昌珉」

身支度をする僕に、彼女は声をかけた。

「今夜までに、あの鉢を空けておいて下さる?」

「空に、ですか?」

ひと抱えほどある、白地に藍色の桔梗を描いた陶器の鉢だ。

そこには、彼女と植えた桜の苗木が植わっている。

年中むせかえるほど暖かいこの空間にあって、この桜は花をつけられずにいる。

「空っぽにしておいて。

それから、裁ちばさみを用意してください」

「はさみ、ですか?」

「今夜、必要なのです」

「今夜に」

彼女の意図が分からないまま僕は頷いた。

 

「手紙は全部、燃やしてください」

「はい」

「今夜までに」

彼女は念を押す。

「今夜、ですね」

「今夜も逢いましょう」

淡い笑顔を見せると、女中に急かされて、彼女はガラスの部屋を出ていった。

僕らの逢引は、今夜が最後になる。

身分違いの逢瀬を繰り返していた。

彼女は嫁ぐ。

ふた周り以上年長の男の元へ。

僕のような身分の者が、決して足を踏み入れることのできない世界へ。

どれだけ背伸びをしようと、千切れるほど手を伸ばしても届かない場所へ、彼女はいってしまう。

 


温室へ続く小道の雪を除け、芝生に散った花びらをかき集めていた。

狂ったように咲き乱れた末、はらはらと散る桜と、水気を含んだ白い雪。

吐く息は白く、熊手を握る指先がかじかむ。

風呂を沸かすかまどで、手紙を焼きながら、彼女との出会いを思い出していた。

​・

あの時の彼女は、菫色の矢絣の着物にえんじ色の袴、足元は編み上げ革靴という恰好だった。

三つ編みにした髪を、薄桃色のリボンで結んでいた。

僕の傍らに立って、興味深そうに芝生を刈る様を眺めていた。

「昌珉」

命令することに慣れた、勝気そうな声で僕を呼んだ。

「昌珉は、約束を必ず守る人間ですか?」

「約束...ですか?」

唐突な問いかけに、僕は働く手を休め、屈んでいた腰を上げた。

「想像してください。

自分の肉体が邪魔なゆえ、約束を果たせそうになかった時、

男の方というのは、

肉体を捨て、魂となって、恋人の元へたどり着く覚悟はおありなんでしょうか?」

「魂というと、命を落として...ということでしょうか?」

「ええ。

人の姿をした死霊となって、恋人に会いに行くのです。

肉体は何かと制限がありますでしょう?」

少女が語るには、大胆でおどろおどろしい内容だった。

おそらく彼女は、誰かに恋をしていたのだろう。

裏切られるようなことがあったのかもしれない。

「上田秋成ですか?」

「まあ!」

目が見開かれ、丸く開いた柔らかそうな唇から、白い歯がのぞいていた。

すかさず僕は、

「雨月物語」

と言うと、

「菊花の約(ちぎり)」

と、彼女も応えた。

「僕は男色ではありませんが」

一歩踏み込んで口にしてみる。

世間知らずのお嬢さんが、どこまでついてこられるのだろうと、愉快な気持ちだったから。

「貴方は美形なのに、男色じゃないのですね」

彼女はころころと笑った。

「昌珉は、本を読むのですか?」

周囲には、読み書きの出来ない者も多かった。

 

活字に飢えていた僕だが、書籍など買う余裕もあるはずなく、焚きつけに使う古新聞を分けてもらっていた。

「肉体を捨てて、身軽な魂になりたいものです」

彼女はつぶやき、僕は応える。

「死んでしまったら、意味がないのではないでしょうか?」

「その通りですね」

「菊花の約」は、「雨月物語」に収録されている、義兄弟の契りを交わした赤穴と左門の悲劇の物語だ。

武士の赤穴は、左門と菊の節句には必ず再会すると約束を交わす。

しかし、捕えられてしまった赤穴は、左門の元へ行くことができなくなってしまった。

そこで赤穴は、約束を果たすため自害し、霊魂となって左門に会いに行く。

この会話を交わした十年後、まさか彼らの悲恋に僕らの境遇をなぞらえることになるとは。

彼女は、柔らかな懐紙に包んだものを、土に汚れ、皮膚が固くなった僕の手の平に載せた。

「琥珀糖です」

腹を空かせた子供に、駄賃を握らせるかのように、僕にくれた。

 

その夜、使用人たちがいびきをかいて雑魚寝する中、僕は頭までかぶった布団の中で、琥珀糖を口に含んだ。

桜葉の砂糖漬けが入った、指の間でほろりと崩れてしまう程の儚げな菓子だった。

僕のような身分の者には、旨さが分からない上品な菓子だった。

彼女は、触れることなどとんでもない、遠くて貴い存在だった。

みじめだった。

 

その日以来、道具小屋の前に風呂敷包みが届けられるようになった。

包みの中身は分厚い本だった。

表紙を汚さないよう手を洗い、ひざに風呂敷を広げた上で本を開く。

彼女の所感がつづられた手紙も添えられていた。

彼女が同封した便箋を使って、僕も返事を書く。

こんなやりとりが1年ほど続いた。

 

19の春、彼女は嫁いでいった。

 

そして数年後、生家に出戻ってきた。

子が出来ないからという理由で離縁されたのだそうだ。

彼女が不在の間中、僕は落ち葉をかき、庭木の剪定をし、池の泥さらいと、身体を動かし続けていた。

それからさらに数年後、旦那様が道楽で温室を建てた。

そこが僕と彼女との逢引の場所となった。

 

 

女性を知らない僕だった。

抑えることができず、あっという間に達してしまい、彼女の着物を汚してしまった。

「すみません...すみません!」

彼女は何も言わず、それをすくった人差し指を、口に含んだ。

この時僕は、身も心も、彼女に捧げようと心に決めたんだ。

​・

罪の意識が、僕を興奮させ、猛々しくさせるのだろうか。

 

高級な身体を抱くのは、土で汚れひび割れて硬い僕の手なのだ。

 

 


 

 

彼女の2度目の婚姻が決まった夜、僕はいつも以上に荒々しく彼女を組み敷いた。

「安心しなさい、昌珉」

彼女は僕をなだめた。

「貴女がいなくなってしまったら、自分はどうかなってしまいます」

最初の結婚の時は、淡い恋心だった。

男女の契りを交わした今となっては、この離別は想像を絶する痛みを伴う。

「わたくしは、必ず戻ってきますよ」

彼女はそう言うが、果たせない契りだ。

「口にしてはいけません」

しーっと、彼女の細指が僕の唇に押し当てられた。

「わたくしは交わした約束を、必ず果たす女です」

彼女が何を言おうとしているか察した。

「魂...となって?」

「そうですよ、魂なら千里を越えて会いに来られます」

「菊花の約(ちぎり)ですか?」

「覚えていましたか」

彼女は、くすくすと笑った。

「駄目です!

死んでしまったら意味がないでしょう?

僕が赦しません!」」

僕は彼女の肩をつかんで揺すった。

「肉体が足かせとなることもありますでしょう?」

「貴女のために、僕が魂となります」

「それはいけません。

昌珉が死んでしまったら、意味がないでしょう」

僕は彼女のために、身も心も捧げたい。

「貴方の子を宿せたらよいのに...」

僕の肩に顔を伏せ、彼女はそう言った。

​・

 

僕らの恋は、成就することはない。

僕は諦めかけていた。

 


今朝降った、季節外れの雪は溶けてしまった。

擦り切れた畳の寝床を見るのも、これが最後だ。

名残惜しい気持ちはない。

僕の気持ちは固まっていた。

 

 

皆が寝静まった頃、ガラス戸をコツコツと叩く音がする。

黒い外套を羽織った彼女が、忍び込んできた。

大きな風呂敷包みを抱えている。

僕は彼女を引き寄せ、唇を吸う。

僕らの足元に、外套と風呂敷包みが落ちる。

性急に彼女の着物を引きはがす。

白足袋を履いたままの彼女のふくらはぎに、舌を這わせた。

この後、僕の決心を聴いた彼女の返事が怖かった。

不安を打ち消すように僕は、うなじに、肩に、腹部に僕は接吻の道筋をつけ、最後に柔らかな胸に顔を埋めた。

彼女の腰を引き寄せて、指で愛撫する。

僕らは立ったまま繋がった。

(これが最後です)

彼女は後ろ手に、僕のうなじを撫でたかと思うと、ぎゅうっと後ろ髪をつかんだ。

髪がひっぱられる痛みすら、快感だった。

昨夜もそうだったように、僕は涙を流していた。

(もし、貴女に断られたら、

常夏の、天国のようなこの場所で、

貴女を抱くのは、今夜が最後になります)

 

 

「ハサミを用意してくれましたか?」

ぎりぎりまで燈心を絞った洋燈の灯りに、彼女の真剣な顔が照らされていた。

「渡すことはできません」

彼女はそれで、喉を突くつもりだ。

「いいから渡しなさい!」

「それはできません!」

制止する僕を振り切って、彼女はハサミを手にする。

そして、鷲づかみにした髪を、じゃきじゃきと切り始めた。

一切のためらいもなかった

切り落とされた黒髪が、束になって床に落ちる。

取り巻くしがらみを、ばっさりと切り捨てるかのように、潔い行動だった。

しかし、結婚を控えた女性が断髪するなど、勘当ものだ。

「尼になるおつもりですか?」

「まさか!」

彼女は可笑しくてたまらないといった風に笑う。

「わたくしは欲深い女です。

禁欲の世界なんぞ、ごめんです」

たまらなくなった僕は、彼女の名前を呼んだ。

「僕と...逃げてください」

「昌珉...」

「僕と、行きましょう。

ここから出ましょう!」

決心の言葉を叫んだ。

僕の叫びをきくと、彼女は裸のまま立ち上がると、風呂敷包みの結びを解いた。

「昌珉も着替えなさい」

メリヤスの詰襟シャツを頭からかぶり、着物と袴を身に着けた。

白足袋を脱いで紺色のそれに履き替えた。

「兄のものを失敬してきました」

彼女に急かされ、僕も木綿の着物に袖を通す。

裾上げされた袴の裾を見る僕に気付いて、彼女は肩をすくめた。

「花嫁修業が役に立ちました」

そして、二人の書生姿が出来上がった。

「あの中に入れてしまいます」

ひと抱えもある陶器の鉢を指さした。

今日の昼間、僕が中身を掘り出したものだ。

彼女の贅沢な着物も、僕の粗末なそれも、

彼女が切り落とした髪も全部、この中に放り込んだ。

最後に脇によけておいた土をかけ、植え付けられていた苗木も元に戻した。

「庭を掘り起こしたりしたら、目立ちますでしょう」

泥だらけになった手で、汗を拭ったから、彼女の白い顔が黒く汚れてしまった。

汗が浮かんだ僕の額も、愛しい彼女の手で拭われた。

「わたくしたちの想いは、同じでしたね。

夜が明けたら、行きましょう」

 

「夜のうちに、出た方がよいのでは?」

「暗闇では、洋燈の灯りでかえって目立ちます。

つまずいて怪我をします」

冷静な彼女の計画に、僕は吹き出してしまった。

ざんぎり頭の彼女が美しかった。

実を言うと、贅沢三昧だった彼女が、これからの生活に耐えられないのでは、という不安は一切なかった。

彼女ならやり抜く。

「当分の間は、これでしのげるはずです」

彼女は袂に忍ばせていたものを、僕に見せる。

宝石がはめられた髪飾りと真珠の首飾り、そして金時計。

「ふふふ、父の物も失敬してきました」

「貴女ったら...大胆ですね。

貴女のものと比べたら、うんと少ないですが。

僕も貯めてきたんですよ」

彼女は、ころころと笑った。

「わたくしは生き抜きますよ。

魂になんてなるものですか」

 

「死んでしまったら意味がない...でしたよね」

 

「その通りです」

「貴女の魂も、肉体も、両方必要です」

「わたくしと同じ想いですね」

彼女は僕に頬をよせた。

「居が決まるまでは、わたくしは男です。

昌珉、

間違っても『お嬢様』と呼ばないように。

分かりましたか?」

「では、なんとお呼びすれば?」

「そうですね、

宗右衛門と呼びなさい。

それから、昌珉、

敬語は止めなさいね」

 

「はい。

それにしても...貴女は...、

ずいぶんと、

美少年に仕上がりましたね。

もっと深く帽子を被った方がよろしいですよ」

「昌珉、貴方もよく似合っててよ」

「では、行きましょうか」

彼女の手を握ると、立ち上がった。

「男同士が手を繋いでいたら、おかしいですか?」

「まさしく、禁断の恋、そのものですね」

僕らは顔を見合わせて笑った。

僕らの恋は、悲劇の物語にはしない。

決して。

 

 

 

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