7.おかえりパンケーキ【後編】

 

サトコさんは僕の奥さんだ。

10日前、僕らは喧嘩をして、その結果サトコさんが家を飛び出してしまった。

サトコさんのことだから、マンション前の植え込みの陰にしゃがんで、追いかける僕を待っていたかもしれない。

僕は相当腹を立てていたから、サトコさんを追わなかった。

それがいけなかった。

10日間のあいだ、どこで寝泊まりしてたのやら。

「奥さんが出勤していないのですが...?」なんていう連絡はなかったから、仕事には行っていたようだ。

「ビジネスホテル生活も、10日続くと辛いわ」

僕らはレンジで温めたパンケーキを前にしていた。

焼き立ての時と比べると、ちょっとしんなりしているけど、アイスとホイップクリームにまみれて、ひと口ひと口が至福の塊だ。

「家出してごめんね」

「僕も、キツイこと言って、ごめん」


喧嘩の詳細はこうだ。

 

友人夫婦に赤ちゃんができたと聞いて、お祝いの気持ちで赤ちゃんグッズをプレゼントしようと思った。

このことをサトコさんに伝えたら、拒絶された。

僕らのクローゼットには、赤ちゃんグッズが詰まっている。

赤ちゃん5人分。

これらは、永遠に誕生することのない、僕らの赤ちゃんのために買い揃え続けてきたものだ。

僕らには必要ないもの。

でも、手放しがたいもの。

とはいえ、永遠に溜め込みつづけるわけにはいかない。

少しずつ手放していかないといけない。

本当に必要としてくれる人の元へ、譲ってあげようよ。

サトコさんにその決心がつくまで、僕は待ち続けていた。

「少しくらい減ってもいいじゃないか。

 また買えばいいじゃないか!」

 って、酷い言葉を吐いてしまった。

 サトコさんは、とにかく赤ん坊を欲しがった。

 結婚2年目で、僕らには子供が出来ないことが判明した。

 サトコさんの頭の中は、赤ん坊のことでいっぱいだった。

その気持ちが強すぎて、定期的にサトコさんは“フェイク妊娠”する。

「赤ちゃんができたの」のサトコさんの一言で、ゲームは始まる。

僕もサトコさんに合わせて、彼女が“妊婦さん”であるかのように接する。

赤ちゃんの誕生を待ち望む夫婦の姿を、演じる。

そして、ある日突然、「赤ちゃん、駄目だったの」で幕を下ろす。

可笑しいだろ?

「サトコさんが妊娠したかも」ごっこも、5回を迎えると疲れてきた。

哀しくなってきた。

クローゼットの中には、回を重ねるごとに増殖するものたち。

夫の僕と、赤ちゃんと、どちらが大切なんだ?

いい加減、隣にいる僕と正面から向き合って欲しかった。

 「サトコさんには、僕が見えないのか!」って怒鳴った。

気持ちを切り替えて、僕と二人の人生を歩む覚悟を決めて欲しかった。

彼女の哀しみに寄り添ってきた僕だけど、とうとうやりきれない思いが爆発してしまった。

「いい加減にしろ!」って。

僕がいるだけじゃ、足りないのか?って。

彼女は心底驚いただろう。

結婚して初めて、僕の怒鳴る声を聞いたんだから。

真剣に怒る僕を初めて見たんだから。

帰宅してソファに置いたばかりのバッグをつかんで、脱いだばかりのジャケットを羽織ると、サトコさんは無言のまま家を出ていった。

あれから10日間、家に帰ってこなかった。

携帯電話がキッチンカウンターに置きっぱなしで、サトコさんに連絡しようにも出来なかった。


「また買えばいい」だなんて酷すぎた。

赤ちゃんを産めないサトコさんに言ったらいけない言葉だった。

それでも、いつまでもごまかしの日々は御免だった。

本音をぶつけたことを、僕は全然、後悔していない。

 

どこかで、伝えなくちゃいけない言葉だった。

 

伝え方が悪くて、サトコさんにショックを与えてしまったけど。

 

僕の正直な気持ちを隠すことなく伝えたかった。

僕はサトコさんのことが大事だから。

「ねぇ、チャンミン。

家出してる間にね、

ホテルのエレベーターの注意書きが、すごいシュールで面白かったの。

この可笑しさは、チャンミンじゃなきゃ理解できないくらいのシュールさだったの。

チャンミンと共有したかった。

 でね、写真を撮ってチャンミンに送ろうとしたんだけど、携帯を忘れていっちゃったから。

 それで、とりに家に寄ったんだけど、なくて...」

 「ごめん、僕が持ち歩いてた」

「そうだったんだ。

 でも、かえって良かったかも。

全く連絡がとれなかったおかげで、チャンミンのありがたさが、よ~く分かったの」

「ありがたみ?

どれだけ僕のことを愛してるか、じゃなくて?」

 「分かってるくせに」

「ははっ」

 「ちゃんと帰ってきたでしょ」

 「サトコさんが帰る場所は、僕の場所~♪」

 「チャンミン、歌うまいねー」

サトコさんは、パチパチと手を叩いた。

 僕は調子に乗って、言葉をメロディにのせた。

 

「サトコさん~♪

ひどいこと言って、ごめんね~♪

これからも~、サトコさんの~♪

 “赤ちゃんできちゃったごっこ”を~、やろうね~♪」

 「チャンミーン!」

 サトコさんが僕に抱きついてきた。

 「もうやらない」

 「そんなこと言わないで。

いくらでも付き合うよ~♪」

「ううん。

もうやらない。

あの日、チャンミンの本音が聞けてよかった。

チャンミンの言葉で、目が覚めた」

「サトコさん...」

 「自分の気持ちを押し付けてばかりだった。

悲劇のヒロインぶってた。

チャンミンの気持ちなんか、全然考えてなかった。

チャンミンはずっと隣にいてくれたのに」

「サトコさん...」

僕は、サトコさんの頭をよしよしとなでた。

「怒鳴ってゴメン」

「キツい言葉だったけれど、あれがチャンミンの本音でしょ?」

「うん」

「そういう正直なところに惚れました」

「やっぱり?」

「チャンミンが、私の会社まで迎えに来なくてよかったー。

『妻は来ていますか?』なーんて、電話がかかってきたらどうしよう、って。

気持ちの整理ができる前に、チャンミンに会いたくなかったから」

「恥をかかせるようなことはしないよ。

僕がサトコさんを追いかけなかったのは、僕にも気持ちを整理する時間が必要だったし、

もしサトコさんがいなくなったら、僕はどうなっちゃうんだろうって。

確認してみたかったんだ」

「で、どうだった?」

「わかってるくせに」

サトコさんの膝裏に腕を通して、お姫様だっこする。

「きゃー」

サトコさんはこうされることが、好きなんだ。

「帰ってくるのが1日遅かったら、危なかったですよ。

明日になったら、サトコさんの会社に迎えに行くつもりでしたから」

「それは困る!」

「でさ、

そのシュールな注意書きって何?

教えてよ!」

「なんて言いつつ、

寝室に向かってるのは、どういうわけ?」

 

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