59. Max -TIME第3章-

 

~チャンミン~

あの夜。

 

帰宅した僕は真っ先にシャワーを浴びた。

 

シヅクの部屋を出て、火照った身体を覚ましたくて、タクシーは止めて氷点下の寒空の下、歩いて帰ることにしたのだ。

 

もんもんと頭の中で渦巻く想いを吹っ切りたくて、早歩きだったのが小走りになり、駆け足になり、マンション下に着くころには汗だくで息も切れそうだった。

 

脱いだコートを腕にひっかけ、エレベータで階数ランプを見上げている間、僕の鼓動は壊れそうに早い。

 

その理由は、走ったせいなのか、身体の奥底から湧き上がる妙な感情のせいなのか、わからなかった。

 

そんな訳のわからない心の嵐を吹っ切りたくて、冷水のシャワーを頭からかぶる。

 

下腹の底の、重ったるい感覚。

 

この感覚は、単なる生理現象で片付けられない。

 

『そういう気満々だろ?』とシヅクに言われて、理性を失くした自分の行為が恥ずかしくなった。

 

シヅクと間近で接すると、シヅクにもっと近づきたいという衝動に襲われるんだ。

 

『そういうこと』が、どういうことなのかは、知識として知っている。

 

うろ覚えの僕の過去をどれだけ頭を振り絞ってみても、全く身に覚えがないのだ。

 

だから、女性に対して『そういう感情』を抱くのはこれが初めてなんだろう。

 

顎がガチガチと震うまで全身を冷やしたのち、今度は火傷しそうなくらい熱いシャワーに切り替えた。

 

自身の肉体をいじめて、もんもんとした感覚を追い出したくて。

 

今までの僕は、こんな風じゃなかったのに。

 

体調の悪いシヅクに無理やりキスをしたり、ベッドに押しつけたり、一体何やってんだよ。

 

恥ずかしい限りだけど、あの時は沸き起こった欲求に突き動かされていて、気付いてたらそうしてた。

 

白く曇った鏡を片手で拭って、雫をしたたらせ上気した自分の顔を映してみる。

 

以前、シヅクが浴室に乱入してきた時も、こんな風に鏡に映った自分を子細に眺めていた。

 

普段から自分の顔をこうやって検分するように見ることはないし、自分の身体つきがどんなだかにも興味はない。

 

休日のルーティンにジム通いを組み込んでいるのは、身軽に健康でいたいだけのこと。

 

一瞬、視界が揺れたかと思うと、がくんと膝の力が抜けて、反射的に洗面ボウルをつかんだ手によって、崩れ落ちるのを免れた。

 

鏡の中の自分と目を合わせるのは、やっぱり危険だ。

 

鏡に映るこの顔が、自分のものなんだという実感が希薄なことを、思い知るからだ。

 

こめかみがずきずきとうずいてきた。

 

頭痛の前兆。

 

俯いていた頭を起こす時、足先から膝、太もも、下腹部へと目線を上げていく際に、僕の目に映る身体にさえも、違和感がある。

 

ドキドキするとか、嬉しいとか、いい匂いだなとか、柔らかいなとか...五感は確かに自分のものなのに、それを感じる僕の身体が、自分のものじゃない気がする。

 

僕はやっぱり、おかしい。

 

こんな風じゃなかったのに。

 

一人でいると、不安と困惑に襲われる。

 

シズクのベッドにもぐりこんで、背中にシヅクの体温を感じたかった。

 

 


 

 

この日は通常より2時間早く終業し、落ち葉焚きが開始された。

 

スタッフたちの家族や友人たちも参加し、アルコールもOKで、くだけたムードで皆が笑顔だった。

 

同僚のミーナは、目下アタック中だという男性を招待していた(外国語教室の講師なのだそう)。

 

シヅクは、セツとその夫Uを友人として呼んでいた。

 

セツにしてみたら、シヅクの担当であるチャンミンを観察する目的もあり、半分は仕事を兼ねている。

 

Uは彼女の元被験者で、小柄で線の細い、眼鏡をかけた大人しそうな男性だ。

 

キビキビとしたセツとは対照的だが、目配せだけで通じ合う信頼関係が二人の間で築かれているようだ。

 

セツはUの観察者を3年務めた。

 

エプロン姿のシヅクは、エントランスまでセツたちを出迎え、落ち葉焚き会場のドームまで案内した。

 

「差し入れです」

 

Uはアルコールのボトルを掲げてみせた。

 

シヅクに案内されて、セツは目がくらみそうに高いドームの天井を見上げ、感嘆の声を漏らす。

 

「ねぇ、シヅク、大丈夫なの?」

 

「大丈夫?って何が?」

 

「焚火、っていったら、火だよ?

あの子...平気なの?」

 

セツの質問に、シヅクは肩をすくめる。

 

「さあ、分かんない。

もしかしたら、フラッシュバックして意識失うかもしれないから、それに備えてセツを呼んだわけさ。

チャンミンに『参加したら駄目』なんて言えないよ。

まさか、こんなイベントがあるとは思わなかった」

 

「強い刺激も、かえっていいかもしれないわね。

反応が一気に進めば、お目付け役もいらなくなるから。

...シヅク、複雑でしょ?」

 

「うん」

 

(嬉しい反面、寂しいってのは確かだ。

チャンミンの担当を外れたら、もう近くにはいられない)

 

ドームの中央に築かれた落ち葉の山から、白い煙がドームの天井にむかって立ち昇っている。

 

「ホントに燃やしてるんだ!

すごい!」

 

数十人の人々が、火の回りを囲んで立ったり、座ったり、食べたり飲んだりして、談笑している。

 

照明を落としたドーム内で、焚火のオレンジ色の灯りが揺れている。

 

この世はコンクリートと合成樹脂で覆われ、緑にも土に触れられず、すべてが人工的で整然としている。

 

生の野菜といったら、カットされ真空パックされたものくらいで、収穫されたての丸ごと野菜の実物に触れる機会もない。

 

くすぶる落ち葉の中には、アルミホイルに包んだ野菜が埋められている。

 

植栽担当のチャンミンたちが丹精込めて育てた野菜だ。

 

落ち葉の焚火の隣には、タキが半日かけて熾した炭が真っ赤になっている。

 

「お!いたいた」

 

シヅクは輪になった参加者たちの一番後ろで、焼きトウモロコシを齧るチャンミンを見つけた。

 

何事もなく呑気そうな様子に安堵したシヅクは、「チャンミン!」と呼んだ。

 

地面に直接腰を下ろしたチャンミンは、食事する手を止めてシヅクたちを見る。

 

「このでかい男は同僚のチャンミン。

で、こちらは私の友達、セツ」

 

「どうも」

 

立ち上がったチャンミンはお尻についた土を払うと、セツに頭を下げた。

 

「こんばんは。

シヅクがお世話になっています」

 

チャンミンの顔は既に見知っていたが、セツは初対面のように振舞った。

 

「え...っと...」

 

チャンミンは友人を紹介された際、自己紹介の後の会話が思いつかない。

 

食べかけのトウモロコシのやり場に困って、シヅクをちらちら見て彼女からのフォローを求める。

 

所在なさそうなチャンミンに、シヅクはぐるりと会場を見渡して、

 

「お!

酒が足らんみたいだな。

追加せんとな」

 

「じゃあ、僕が...」

 

「私が行くから、あんたはここで腹いっぱい食べてなさい。

じゃあな、チャンミン」

 

そう言い終えると、先ほどから脇をつつくセツを連れて回廊に向けて歩いて行ってしまった。

 

(なんだよ...)

 

沢山の人に囲まれて、居心地の悪い思いをしていたチャンミンだった。

 

このイベントに呼べる友人もいなかった。

 

(そうなんだ。

僕には友達が、いない。

他人に全く興味のなかった僕だったから、それは仕方がない。

大勢の中で一人でいるのは平気なのに、シヅクが側にいないのは寂しい)

 

隣にシヅクが座ってくれるものと期待していただけに、がっかりしたチャンミンは再び地面に腰を下ろした。

 

 

「チャンミンって子...あんな顔してたっけ?」

 

シヅクとセツは回廊のベンチに腰掛けて、賑わう落ち葉焚きパーティを眺める。

 

セツの夫Uは、数人の参加者に囲まれ会話を楽しんでいるようだ。

 

大人しそうに見えて、実際は社交的な性格だという。

 

「むすーっとしてたのが嘘みたい。

シヅクが惚れても仕方がないわねぇ

シヅクを頼る顔しちゃって」

 

「そうだね」

 

辺りは暗く、焚火が作る炎とテーブルに置かれたランタンの灯りだけでは、参加者たちは黒いシルエットにしか見えない。

 

(これまで視界にすら入っていなかった周囲の人間に、意識が向きだした頃だ。

いろんなことが不安に感じ出しただろうな。

ずぶ濡れの子犬みたいな目をしちゃって、さ。

あとで、近くに行ってあげよう)

 

「ゆっくりしていってよ」

 

シヅクはセツの肩を叩くと、配達されたアルコール類を受け取りに裏口へ向かった。

 

 

「よっこらしょ」

 

カートに乗せようとしていたコンテナがふっと軽くなり、顔を上げるとカイがいた。

 

「ありがと」

 

カイは「どういたしまして」とにっこりと笑った。

 

カートを押すカイの口元に、農作業用のゴム引きのエプロンを付けたままのシヅクを見て微笑を浮かべた。

 

「完全防備ですね」

 

「ああ!

外すの忘れてた」

 

「シヅクさんは誰を招待しましたか?

...彼氏、とか?」

 

「えっ!」

 

シヅクはカイの言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「まっさか!

友達とその旦那さんだよ」

 

「ふうん...」

 

シヅクの反応に、カイは疑わしそうな目線を送る。

 

(危ない、危ない。

彼氏なんかいないって、言いそうになった。

ホントはいるけど、相手はチャンミンです、なんて暴露したら「いつの間に?」って質問攻めにあって、今はちょっと面倒だ)

 

「カイ君は誰を呼んだの?」

 

「姉です。

遅れてくるって言ってたから...もう少ししたら来ると思いますが...」

 

「へぇ、見てみたい!」

 

「紹介しますね」

 


 

膝上に組んだ腕に顎をのせて、チャンミンは赤々とした炭をぼぉっと眺めていた。

 

一人でいるのを好むことを知っているスタッフたちは、出来上がった料理をチャンミンの元へ運んでくる以外は、無理に会話の輪に引き込むことはしない。

 

次々と皿の上にのせられる、蒸し焼きにしたサツマイモや、ソーセージ、魚のホイル焼き、炙ってとろとろに溶けたマシュマロなどを、チャンミンは順に胃袋におさめていった。

 

お腹は満たされた。

 

アルコールは頭痛を誘発しそうだったため、ミネラルウォーターを飲んでいた。

 

「はぁ...」

 

チャンミンはシヅクが隣に座るのを、待っていた。

 

甘いもの好きのシヅクのために、余分にもらったマシュマロも、皿の上で冷めてしまっている。

 

つまらない、と思った。

 

(僕を一人にするなんて...)

 

シヅクから不当な扱いを受けていると拗ねるチャンミンだが、職場にいる間は彼女の顔をまともに見られない。

 

いつまでも戻ってこないシヅクに業を煮やして、すっくと立ちあがった。

 

(アルコールを持ちに行く、と言っていた。

重くて運ぶのに苦労しているかもしれない。

僕ときたら、気が利かないんだから)

 

「チャンミン!」

 

スタッフの一人に声をかけられ、チャンミンは回廊に向かおうとした足を止めた。

 

「行ったついでに、ビールの追加を頼めるかな?」

 

チャンミンはこくりと頷いた後、事務棟へ駆けて行った。

 

(ビール、ってどこにあるんだ?)

 

火熾し担当だったチャンミンは、大量に用意されているはずのドリンクの場所が分からない。

 

事務所の冷蔵庫を開け、保管庫の冷蔵室も覗いてみたが見つからない。

 

追加のものが配達されたままになっているかもしれないと、エントランスを確認しに行ったが、やっぱりない。

 

「おかしいなぁ」

 

(シヅクはどこに取りに行ったんだろう?

裏口の方かな)

 

裏口はドームを挟んで事務棟の反対側にある。

 

チャンミンがドームへ引き返そうとしたとき、

 

 

 

「マックス!」

 

悲鳴に近い、鋭い女性の声に、チャンミンは振り返った。

 

エントランスのドアの前で、一人の女性が両手で口を覆って立ち尽くしていた。

 

「?」

 

チャンミンは背後を振り向いたが、エントランスには自分以外の者はいない。

 

「マックス...」

 

背の高いスリムな女性だった。

 

「あの...人違いじゃ...?」

 

大きく見開いた目尻が切れ上がった目は真剣だった。

 

「嘘でしょ...

マックス...」

 

「あの...マックス...って?

僕は...違います」

 

チャンミンがそう言い終える前に、その女性は体当たりする勢いでチャンミンにしがみついてきた。

 

「!」

 

「マックス...」

 

「あの...」

 

彼女はチャンミンの胸に顔を押しつけ、彼の背中に巻き付けた腕に力を込めた。

 

「違います...僕は...」

 

頭の中にクエスチョンマークが飛び交っている。

 

(この女の人は誰だよ?

誰だよ、マックスって?

全然、意味が分からない...)

 

「どこにいたのよ...。

死んじゃったのかと思ってたのよ...」

 

「!」

 

見知らぬ女性に抱き着かれたチャンミンは、突き放すこともできず、両腕を宙に浮かせた状態で、されるがままでいるしかなかった。

 

 

 

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