(6)結婚前夜

 

「最後に女を抱いたのは、いつだ?」

 

僕の耳に触れんばかりに唇を寄せて、低い声で囁かれる。

 

熱い吐息が耳を湿らせ、ぞくりと下腹がせり上がる。

 

「チャンミン?」

 

僕はついとユノから目を反らし、伏せていた半身を起こした。

 

ユノの眼はいけない。

 

まともに捉えられたら、心の中が丸裸になってしまうから。

 

 


 

 

5年間の離別ののち、僕らは再燃した。

 

その炎は、5年前より大きく膨れ上がっている。

 

ユノは荒れていた。

 

無理もない。

 

結婚挙式数時間前に、婚約破棄を彼女に申し出たのだ。

 

破棄の理由が、再会した元セフレ男とよりを戻したから、以上。

 

当然、真実を伝えることは出来ない。

 

嘘も方便。

 

元セフレ男とは僕のことで、もちろん現在はセフレなんかじゃない。

 

れっきとした恋人同士だ。

 

僕とユノがどれくらい愛し合っているかよりも問題なのは、僕との関係を優先させるために、ユノが数多くのものを捨てざるを得なくなったこと。

 

それも、数時間という短時間のうちに自らの手で、多くの人たちの期待と信頼をぶち壊したのだ。

 

中途半端な優しさを見せたらかえって罪になるからと、婚約者の女性には言葉を尽くして、きっぱりと結婚する意志がないことを彼女に宣告したんだ。

 

側で聞いていたわけじゃないけど、きっとユノならそうだったんじゃないかな、と思ったまで。

 

僕はボロボロになって帰ってきたユノを出迎えた。

 

結婚前夜の1週間後のことだ。

 

ユノはとても優しい男だから、自分の身勝手さを優先させた結果、苦しむことになった彼女たちを想像して、心を痛めている。

 

つまり、自身の喪失感としでかしてしまったことの深刻さに、打ちひしがれている訳じゃないのだ。

 

嘆き悲しんでいる彼女の心情を思って、ユノも嘆き悲しんでいるんだ。

 

いつか立ち直った彼女が幸福をつかむことを、祈っているのだと思う。

 

「誰かの不幸と引き換えに得た僕らの縁。彼女の分まで僕らは幸せにならないと」なんて、無神経なことは口にしたくないし、そんなこと思ってもいない。

 

犯した罪は償えない。

 

冷たい言い方かもしれないけど、事実は事実として認めて、楽に呼吸ができる日々をじりじりと待つしかない。

 

ユノを引き留めた時、僕は心に決めたことがある。

 

僕はユノを癒やすんだ。

 

「辛いね」

 

枕を抱きしめて突っ伏したユノの後ろ髪を、指ですいた。

 

僕はそばにいて見守るしかない。

 

中途半端な慰め言葉を、ユノは求めていない。

 

苦しい苦しいと悶えるそばに居てあげるだけだ。

 

もちろん。

 

苦しむユノのそばに居るのは辛い。

 

ユノが可哀想で。

 

でも、苦しい理由はそれだけじゃなくて、焼け付くような嫉妬心の存在だ。

 

結婚を決意したほどの女性だもの。

 

ユノの心と身体をいっときでも捉えた彼女に、僕は猛烈に嫉妬している。

 

よかった...ユノが誰かのものになってしまう前に取りもどせて。

 

僕という人間はなんて自分本位なんだろうと呆れる。

 

僕とユノ、揃って幸せになりたい。

 

そのためには、自己中になるのが近道なんだ。

 

 

 

 

あーとか、うーとか、ユノは埋めた枕の中で唸っている。

 

ユノと僕はホテルの一室に居た。

 

古くて汚くて、不特定多数の体液が沁みついているようなところじゃない。

 

何倍もランクアップさせたところだ。

 

ユノは彼女と共に暮らすはずだった新居を出たし、僕の家は狭いワンルーム。

 

僕らは思う存分、激しく抱き合いたかった。

 

もの侘しい部屋じゃユノの意気がそがれてしまうことを恐れて、ちょっとだけ奮発してみた。

 

「慰めてあげる」

 

僕のひと言からスタートした。

 

今のユノには慰め言葉は響かないし、求めていない。

 

となれば、慰めるとは...言わずもがな。

 

 


 

 

「教えろよ」

 

下から伸ばされた手で僕の両頬が挟まれ、力いっぱい引き落とされた。

 

「最後はいつだった?」

 

「言いたく...ないっ...んんーっ!」

 

それは強力な吸引力のキスだった。

 

既に何度も吸われ過ぎた僕の唇は、赤く腫れあがっていた。

 

「熟れた実みたいで、エロいな」と、唇の片端だけゆがめた妖艶な笑みを浮かべる。

 

「言え」

 

「いや...だ」

 

「言わないと...」

 

「んんっ...!!!」

 

胃袋に達するんじゃないかと、怖くなるくらい攻められて降参する。

 

「わかった...言うっ...言うよ!」

 

あご下まで垂れた唾液を、手の甲でぬぐった。

 

「ごねっ...5年前だ...よっ」

 

それは嘘だ。

 

正しくは3年程前が最後だったはずだ、記憶が正しいのなら。

 

5年前妻と別れてからの1、2年間、後腐れのない関係を繰り返していた。

 

僕は浅ましくも、女性も抱いたし、今みたいに抱かれることもできる。

 

もちろん、抱かれるのはユノ限定だ。

 

ユノの動きがぴたりと止まり、「嘘だろ?」と、勢いよく身を起こした。

 

反動で後ろにひっくり返りそうになったのを、ユノの片腕に支えられた。

 

「ほんと...だって」

 

正直に何でも打ち明ければいいものじゃない事くらい、僕も大人だ、分かってる。

 

「妬けるね。

...妬けるよ」

 

ユノの指が僕の唇をすっと撫ぜた。

 

「え...?」

 

鬱血した唇がひりひりする。

 

セックス無しの期間の長さに、ユノは驚いたのかと思った。

 

「でもっ...その時は、結婚してたし。

もう、どんなだったか...忘れたよ。

それに、ユノだって...。

ちょっと前まで他の女の人と...」

 

「まあな。

婚約までした人だったからな...」

 

そこで言葉を切ると、ユノは僕から目を反らした。

 

「しまった」と、自分の発言を後悔した。

 

ユノの瞳の中で揺らめいていた肉欲の炎が鎮火してしまったのを認めてしまって、僕の胸がずくんと痛んだ。

 

「ユノ...」

 

背けていた顔を戻したユノは、僕の強張った表情に気付いてほほ笑んだ。

 

「気を遣わなくていいよ。

チャンミンは普通にしてくれていいから。

普通が助かる」

 

ユノはそう言ってくれたけど、僕の胸がきしんだ理由はそうじゃないんだ。

 

 

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