脚をひきずるようにして帰宅したある夜、部屋に彼がいた。
「おかえりなさい」
ソファの上で膝を抱えて座っていた彼は、立ち上がると俺のバッグを取り上げ、ジャケットを脱がせた。
「くたくたでしょう」
俺はあっけにとられていて、彼にされるがままで、気づけばお風呂上がりでポカポカで、冷たい缶ビールを手にしていた。
独身男のひとり暮らしの部屋とは言え、いきなり男がいたりしたら、それはもう事件だし、犯罪行為だ。
けれど、俺はあまりにも疲れ果てていたし、彼の邪気のない笑顔を見ると、露ほども恐怖は感じなかったのだ。
職場での理不尽な扱い、数年来交際していた恋人の裏切り、家族の死。
負の出来事がこの一か月の間立て続けに起こり、身体的にも精神的にもどん底で、毎日が精いっぱいだった。
いきなりの彼の登場に全く驚かないほど、思考力が落ちていた。
「僕の名前はチャンミンと言います」
彼が用意した料理をつまみに2本目のビールを開けた時、彼は自己紹介を始めた。
「今夜から僕がユンホさんのお世話をしてあげます」
彼が俺の名前を口にしたことも、彫刻のように整った顔も、何もかもが非現実的過ぎた。
俺はあまりにも疲弊していたから、彼の容貌を目にしても、全く惹かれなかった。
「これ以上はダメです」
3本目に手を伸ばす俺より早く、チャンミンはビールを取り上げた。
「明日に響きます。
二日酔いになります。
顔がむくんでブサイクになります。
僕が代わりに飲みます。
お酒はベストコンディションな時に、美味しく飲まないとね」
チャンミンは、恨めしそうに見つめる俺に構わず、あっという間に飲み干してしまった。
「さあさあ、ユンホさん。
もう寝る時間ですよ!
電気毛布を入れておいたから、あったかい布団で眠れますよ」
ほろ酔い状態で、砂が詰まったかのような頭で、彼の言葉を聞いていた。
「明日は僕が起こしてあげますから、ぐっすり眠ってください」
部屋の照明が消され、明るいリビングからの逆光に、チャンミンのシルエットが浮かび上がっていた。
このようにして、俺とチャンミンとの生活が始まった。
チャンミンは優秀なハウスキーパーだった。
俺は毎朝チャンミンに起こされ、彼が用意した朝食を食べ、弁当を持たされ出社する。
「ユンホさんは、こっちの色の方が似合います」
いつの間にか身なりに無頓着になっていた俺。
存在をすっかり忘れていたミッドナイト・ブルーのネクタイを、クローゼットから引っ張り出して俺の首にしめてくれた。
上司と後輩の間に挟まれきゅうきゅうとし、疲労困憊して帰宅する。
「おかえりなさい」
チャンミンが玄関に小走りに出てきて、俺の手からバッグを取り上げる。
「ユンホさん、お疲れ様。
今夜は鍋にしました。
野菜も肉もたくさん入れたから、だしが出て美味しいですよ」
浴室から出ると、洗濯されきちんと畳まれたパジャマと下着が用意されていた。
「ユンホさん、下着を新しくしておきました。
ヨレヨレでしたから」
細やかな気遣いにじんと感動し、丁寧なもの言いの間に挟まれる毒舌にムッとしていると、その後のフォローに苦笑した。
チャンミンに大切に扱われているうちに、自分がかけがえのない大切な存在だと思えてきた。
朝はチャンミンが見送ってくれる。
家に帰ると、チャンミンが待っている。
何もかもやってくれて。
「今夜から僕が、ユンホさんのお世話をしてあげます」
チャンミンがやってきた夜、彼が宣言した通りだった。
俺の本棚からぬきとった一冊の本を読みふけるチャンミンを見つめた。
ソファにもたれて、長い脚を床に投げ出すようして座るチャンミン。
俺からの視線に気づくと、
「なんですか?」
目を半月型にさせて、にっこりと笑った。
「夜遅いですから、アイスはダメです、太ります」
チャンミンの笑顔に胸をつかれた。
「胃に優しいお粥を作ってあげますから、それで我慢してください」
いそいそとキッチンに立つチャンミンを目で追っていた。
彼がこんなに優しい目元をしているなんて、今さら気づいた。
別れた彼氏が新しい恋人を連れた姿を目撃してしまった日のこと。
ベッドに横になった俺の隣に、チャンミンがスルリとすべりこんできた。
「僕が添い寝をしてあげますから」
ぎょっとしてチャンミンを見上げると、
「安心してください、襲ったりはしません」
チャンミンの言葉が可笑しくて、思わず吹き出した。
「襲って欲しいんですか?」
チャンミンはおどけた笑いを浮かべると、俺の頭を胸に引き寄せた。
「ダメです。
今はダメなんです」
チャンミンの胸から、規則正しい鼓動が聞こえた。
「その時がきたら、ちゃんと襲ってあげますから。
あ...ユンホさんだから、『襲われてあげます』の言い方の方が正しいかな?
ゴールは同じですから、どっちでもいいですね」
チャンミンは、俺の背中を優しくポンポンと叩いた。
「僕が胸を貸してあげますから、泣いていいですよ」
チャンミンが言い終えないうちに、せきを切ったかのように目から涙があふれ、声を出して泣いていた。
最後に泣いたのはいつだっただろう?
こんなに泣いたのは、うんと久しぶりだった。
いつの間にか俺は、涙すら出せなくなっていた。
歯を食いしばってこぶしを握り、心を閉じた毎日を送っていた。
泣いてはじめて、そんな自分に気づいた。
翌朝、とっくに起きだして朝食を用意していたチャンミンは、俺の顔を見るなり大笑いした。
「ユンホさん...恐ろしいほどブサイクな顔してます」
むくれる俺に、チャンミンはいつものように弁当箱を手渡した。
「お弁当にサプライズがありますから、楽しみにしていてください」
忙しさでずれこんだ昼休憩の時間、そそけだった心のまま弁当箱の蓋を開けた瞬間、慌てて蓋を閉めてしまった。
「もったいなくて、食べられないよ」
たっぷりと敷きつめられた炒り卵の上に、カットされた海苔で書かれた『ユンホ』の文字。
大きな手で海苔を切るチャンミンの姿を想像すると、微笑ましくてたまらなかった。
「なんて可愛いことしてくれるんだよ、チャンミン」
昼間、チャンミンはひとり何をしていたのだろう。
夕日が差し込む狭い1LDKの部屋で、チャンミンは洗濯物をたたみながら何を考えていたのだろう。
夕飯のメニューを考えながら、俺の帰宅を待っていたのだろうか。
うっすらとホコリをかぶっていた部屋はさっぱりと清潔に、曇った浴室の鏡も磨き上げられ、冷蔵庫にはおかずが詰まった保存容器が並んだ。
食卓に置いたグラスに活けられた2輪のダリアを目にしたある日、俺は泣きそうになった。
(つづく)