(38)TIME

 

 

~チャンミン~

 

「はっ」

 

リビングに残された僕は、大きく息を吐いた。

シヅクといると、僕からするすると言葉が出てくる。

加えて、シヅクは僕をドキドキさせるのがうまい。

時計をみると、既に22時だ。

彼女といると、時間が経つのを忘れてしまう。

こんなに楽しいことは、これまであっただろうか?

 

自分の経験を振り返るのは、止めていた。

深く霧が立ち込めている、見通しが悪い道を進むがごとく、

​今自分が居る場所を見失ってしまうような、不安で不快な気分に襲われるからだ。

僕は、今のことだけを考えていたい。

汚れた食器をディッシュウォッシャーへ入れて、スイッチを押す。

​コーヒーを淹れなおした。

キッチンの隅に、白い紙袋があるのに気づいた。

(シヅクが持ってきてくれた「お土産」かな?)

渡される前に、中身をのぞくのは悪いと思って、そのままにしておいた。


シヅクが戻らない。

もう15分も経っている。

​(まさか、帰ってしまった?)

しかし、コート掛けには、シヅクの赤いコート、その足元にはバッグも残されている。

マンションの廊下は寒いから、上着を羽織っていないシヅクが風邪をひいたらいけない。

まだ電話中でも、コートだけは持っていってやろう。

玄関のドアを開けると、シヅクの声が聞こえる。

​(長電話だな)

シヅクは、こちらに背を向けてエレベーターホールにいる。

イヤホンに指をあてて、会話に集中しているようだ。

シヅクにジェスチャーで知らせようとした。

「...だからさ、彼はまだ...違うって!」

(彼?)

「彼」という言葉に反応してしまい、コートを掛けた腕を思わずひっこめてしまう。

シヅクは僕に気づいていない。

「うん...それは分からないよ...日が浅いし...」

​「......彼?...どうかな」

(...彼って誰だよ)

僕の胸がギュッと締め付けられる。

​(彼って...シヅクの...?)

「えー!今からぁ?」

シヅクが大きな声を出し、僕はビクッとした。

​「友達んちにいるからさ...違うって!...女だよ」

(友達?...僕のこと?)

僕の胸が、ますます締め付けられる。

(電話の相手には知らせたくないんだ、僕の家にいることを。

電話の相手は...シヅクの恋人か?

​それじゃあ、おかしい、シヅクが言ってた「彼」は誰のことだ?

「彼」って、タキさんのことかな?)

ここまで考えがおよんで、初めて気づく。

僕はシヅクのことを、ほとんど知らない。

シヅクとまとも話をするようになったのは、ほんの数日の間のことで、トータルで12時間もないかもしれない。

「明日でいい?...じゃあ、いつものお店で」

シヅクの電話が終わりそうな気配だったので、僕はシヅクに気づかれないように、静かにドアを開け、部屋へ戻った。

僕は玄関ドアにもたれて、ため息をついた後、天井をあおぎ見た。

「彼」と言ったシヅクの言葉に動揺している自分がいた。

シヅクには、交際している人がいるのかもしれない。

僕の胸がズキズキと痛んだ。

もたれていた玄関ドアが、どんどんと振動した。

電話を終えたシヅクがドアを叩いているようだ。

オートロック式だから、カギが無ければ部屋には入れない。

​(チャイムを鳴らせばいいのに...)

意地悪をしてシヅクを締め出してもよかったくらい、僕は腹を立てていたけど、彼女に風邪をひかせたくなかったから、ドアを開けてやった。

「寒い寒い!」

シヅクは両腕をさすりながら、するりと部屋へ入ってきた。

「ずいぶんと長い電話だったね」

知らず知らずのうち、言い方が嫌味になってしまう。

シヅクがぎくりとしたように見えたのは、僕の気のせいだろうか。

「話がまわりくどい奴だったからね」

「彼氏?」

「はぁ?」

シヅクの口があんぐりと開いた。

「あんたの口から『彼氏​』という言葉が出ることが驚きだよ」

「僕が『彼氏』って言ったら、そんなにおかしいわけ?」

​ついつい言い方がとげとげしくなってしまう。

「チャンミン...あんた、焼きもちやいてたりする?」

「ヤキモチ...ってどういう意味?」

言葉の意味が分からなくて、首をひねっている僕をみかねて、

​「ま、ええわ。後で調べときなさい」

楽しそうに言って、リビングに直行する。

​「私には、彼氏なんていないよ。フリー中のフリーだ」

僕はよっぽどホッとした表情をしたのだろう、それを見てシヅクはにっこり笑った。

「フリーだから、チャンミンとキスしてもいいわけ」

「コ、コーヒーを淹れなおしたから、シヅク」

思い出して顔が赤くなっているのを、シヅクに見られないよう、僕はキッチンに向かった。

「そういえば、催促してるんじゃないんだけど、その袋の中身は何?」

​部屋の隅に置かれたままの紙袋を指さす。

「あ、ああ、それね」

「出張のお土産でしょ?」

​「う、うん、でもさ、チャンミンがご馳走を用意してくれて。

ほら、お腹いっぱいでしょ?

今さら、もういいかなぁ、と思ってるんだけど...​」

「いいってば!」

シヅクは、しぶしぶ僕にその袋を手渡した。

「何、これ?」

​「天むす」

「天むす?」

「海老の天ぷら入りの握り飯のこと」

「おいしそうだね」

「おいしいよぉ、でも、今夜はもう食べられないから、お腹いっぱい」

「明日、食べるよ」

​「そうしな、チャンミン」

「ありがとう、シヅク」

「どういたしまして..さてと!そろそろ、帰るわ」

「ええっ!もう?」

​「もう23時だよ、チャンミン」

いつの間に、そんな時間になっていたことに驚く。

「せめてコーヒーだけでも、飲んでからにしなよ​」

シヅクは既に、コートに腕を通している。

「寂しいのか、チャンミン?」

​コートを脱ぐと、シヅクはダイニングチェアに腰かけた。

「オーケー。コーヒーもらおうか」

​マグカップにコーヒーを注ぐ僕の胸は、まだチクチクしていた。

(シヅクは恋人はいないと言ってたけど...「彼」って誰のことだろう?

​どうしてこのことが、こんなにも気になるんだろう、苦しいんだろう)

「あちっ」

考え事をしていたせいで、マグカップからコーヒーが溢れていた。

「わー、チャンミン、大丈夫かぁ!?」

シヅクは僕からマグカップを取り上げ、冷凍庫から氷を出してきて、世話を焼いてくれる。

楽しかったり、ドキドキしたり、重苦しくなったり、

めまぐるしく変化する感情に、僕は振り回されている。

​視界が鮮やかになって、そんな自分を新鮮に前向きにとらえていたけれど、苦しい思いはごめんだ、と思った。

 

(第一章終わり)

​[maxbutton id=”1″ ]     [maxbutton id=”3″ ]