<午前5時の待合室>
身体が重く、多少は和らいだとはいえ頭痛はひどく、綿がつまったかのようにぼんやりする。
チャンミンに続いて乗り込んだユノは、チャンミンの頭をぐいっと自分の肩に乗せる。
「!」
「チャンミン、俺にもたれていいよ。
苦しいんだな?
可哀そうに」
しばし、身体を硬直させていたチャンミンだったがふぅっと、力を抜いて、ユノに身を預けた。
「......」
チャンミンのまぶたは半分閉じられて、まなざしはうつろだ。
「チャンミン、お前んちはどこ?」
「......」
ユノはチャンミンに尋ねるが、チャンミンは何も言わない。
「えっ!?
寝ちゃった?」
(よくある小説じゃあ、酔いつぶれた主人公がいて、それを主人公の片思いの人が、自分の部屋に連れていく。
で、翌朝、主人公は目覚めて、自分が居る場所に気づいてドキドキ。
っていうのがよくあるパターンだったっけ。
俺たちは単なる同僚同士で男同士。
そんなパターンにはなりようはない)
ユノはチャンミンの両こめかみに両手を添える。
チャンミンはユノの冷たい手が気持ちよくて、なすがままになっていた。
ユノの指先は、チャンミンのこめかみの下の血管が、ドクドクと脈打っているのを感じ取っていた。
ポーンと電子音がして、
『目的地を教えて下さい』
前座席の背もたれにあるモニターから、音声が流れる。
ユノは、ほんの少し逡巡したのち、
「M大学病院へ行ってください」
と、モニターに向かって指示をした。
ユノの声をチャンミンは、ユノの肩にもたれた状態で、聞いていた。
ユノの髪から、シトラスの香りがした。
~チャンミン~
薄黄緑色の壁にかかったディスプレイをぼんやりと眺めながら、僕はベンチに腰かけていた。
風に吹かれて揺れる木々の葉陰からもれる日の光。
その光が反射して水面がきらきら光る風景を、ディスプレイは映している。
いまどき樹木や草花が茂る光景は、ほぼ目にすることは出来ない。
かつてそうだったかもしれない緑あふれる景色を、ディスプレイに映し出すことで、この場の陰鬱な空気を和らげようとしているのかもしれない。
どこもかしこも金属や樹脂やコンクリートに覆われていて、清潔に管理されている世の中だ。
唯一、仕事場では植物にたっぷりと触れ合える。
控えめに照明された無人の待合室のベンチに、僕は今座っている。
壁に設置されたデジタル時計は、時刻が5時なのを教えてくれる。
一体、僕はなぜここにいるんだろ?
僕は、一体、何してるんだろう?
昨日の夕方から今までの流れはおぼろげで、あれやこれやで病院のベンチにいることが信じられない気分だ。
ユノは会計だか、処方薬をとりに行っているのかで、ここにいない。
僕はユノを待っている。
なんとなく心細い心情になっている自分に気づく。
日頃、職場では僕にちょっかいを出してきたり、おしゃべりで声が大きいユノのことを、うるさく、うっとおしく感じることも多いのに。
僕は元来人見知りで、誰かと一緒に過ごすより、一人でいることの方を選択する人間だ。
いつごろか分からないけど、淡々と変化のない一日一日を繰り返すのが、僕の精神状態にはいいみたいだ。
感情が大きく起伏することもなければ、心の奥底から何かに対して喜んだり、悲しんだりすることもない。
変化は嫌いだ。
真正面から誰かと精神的に、物理的に接触することも避けてきた。
うーん。
変化を嫌って避けているのか、避けてるから変化がないのか...。
何で、こんなこと考えているんだ?
でも...、何だろう。
ちょっと前に、胸の奥がが小さくはねた覚えがある。
平坦だった僕の心にパルスが起きたみたいに。
独りベンチに残されて寂しい気持ち、ユノの顔を見てホッとしたい気持ち。
あぁ、もう...。
身体が弱っているせいかなぁ。
いつだったけ?
タクシーに乗せられて病院に連れていかれて...。
思い出してみる。
ユノは、僕を無理やり病院に連れて行った。
僕が弱ってぐったりとしているのをいいことに、強引に車いすに乗せてしまった。
「大げさ過ぎるよ、ただの風邪なんだから」
と、抵抗してみたけど、
「だーめ!」
と、ユノは聞く耳持たずで、てきぱきとどこかへ電話をかけ手続きを済ませて、ずんずんと僕の乗る車椅子を押していった。
診察室で待っていたのは、40代くらいの男性医師だった。
青いプラスティックの手袋をはめた手で僕の頭をはさんで、僕の下まぶたを引っ張ったり、ペンライトで照らしたりした。
大の男が、大きく口を開けて喉の奥を見せたりする姿は、間抜けすぎた。
事が大げさになってきていることに、腹がたった。
僕を無理やり病院に連れてきたユノに腹がたった。
気分が悪かったせいもあって、僕はひどく機嫌が悪かった。
医師は看護師にいくつかの指示をすると、デスク上のコンピュータに入力を始めた。
今度は、毛深いごつい腕をした看護師に車椅子を押されて、血液検査、頭部には電極も付けられたし、頭を固定されて大きな機器の中をくぐらされたりした。
検査室から検査室へのはしごには、自分のバッグの他に、僕のバッグとコートも持っての大荷物のユノが付き添ってくれた。
「...ちょっと大げさだよ。
風邪気味で、ここまで検査するかなぁ?」
僕はユノに不満をもらした。
先ほどの医師に打ってもらった注射のおかげで、重だるさも消え、ひどかった頭痛はほぼ消えた。
「ごめん。
高熱で、意識もうろうで、頭が割れそうに痛むみたいですって、大げさに伝えたからかなぁ?」
片目をつむって、両手を合わせてごめんのポーズのユノ。
「でも、本当にそうだったでしょ?」
膝を折って、車いすの僕の目線までしゃがんだユノは、
「よしよし、いい子だぞ、僕ちゃんは。
俺、すごく心配したんだぞ。
これで何ともなかったら安心するから。
もうちょっと我慢してな?」
と、僕の頭をなでた。
「子供扱いするなよ」と、ユノの手を払いのけた。
真正面からユノの黒曜石の瞳にのぞきこまれて、僕の息が止まった。
意外に長いまつ毛や、弓形の眉や、すっと刷毛で描いたかのような切れ長のまぶたなどに、僕の視線はロックされたんだった。
そうだ、あの時か?
違う、もうちょっと前だった。
僕はじっとしていられなくて、立ち上がって待合室に並ぶベンチの間を歩き回った。
事務所で、僕はソファに倒れ込んで・・・。
冷たくて気持ちよかった。
ユノのひんやりとした手。
僕の目を覗き込んだ、暗がりに光る瞳...。
「チャンミーン!お待たせ」
ユノが戻ってきた。
(つづく)
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