こんな物語を聞いたことがある。
愛する者のために、人間の足を手に入れた人魚の話を。
それと引き換えに声を失ったという。
そんな魔法があればよかった。
あったらよかったのに。
~ユノ~
俺はチャンミンを風呂に入れていた。
チャンミンは、ぶくぶくの泡でいっぱいの湯船から、大きなヒレを出している。
俺は湯船の脇にスツールを置いて、本を読んでいた。
「何ていう本を読んでるの?」と尋ねられ、一言で説明できずに「ビジネス系の本」と答えておいた。
「ふ~ん」
さっきは、お湯が熱すぎたせいで、湯船から跳ね上がって俺の肩にしがみついた。
「僕を茹で人魚にする気?」と。
「ごめんごめん」
チャンミンはタイル張りの床にヒレを投げ出し、腕を組んでプンプンに怒っている。
「機嫌を直して」
俺はチャンミンを抱いて、水を足して適温になった湯船に下ろす。
「ふぅ...。
極楽です」
チャンミンは湯船の縁に頭をもたせかけ、まぶたを半分落としてうっとりとした表情だ。
そんなチャンミンを見て...俺はこれで何回目になるのか数えきれないほど...安堵するのだった。
ルーバー窓から斜めに差し込む、午前10時の陽の光。
真っ白な湯気の靄と淡く優しい日光で、バスルームは静寂の極楽だった。
チャンミンが尾びれを動かす度に、お湯がちゃぷちゃぷ音を立てる。
ページをめくる乾いた音。
湯船に目を向けると、チャンミンは眠っていた。
海から連れ帰ったのは俺だ。
少しでもチャンミンが不自由なく生きてゆけるよう、俺は出来る限りのことをした。
そうなのだ、「チャンミンが陸地で暮らしていけるように」なんて生ぬるいことは言えない。
俺がいなければ、チャンミンは生きてゆけないのだ。
俺の人生をチャンミンに捧げたと言っても過言ではない。
いつか「海に戻りたい」と言い出す日を恐れていたから。
正直に言う。
チャンミンを海に戻したい気持ちなど、さらさらないのだ。
思いきり泳ぎたいだろうに、哀しいことに、高い塀に囲まれたプールだけが、チャンミンの命を繋ぐ世界なのだ。
チャンミンにとって、俺のそばにいることだけが世界の全て。
チャンミンは俺だけの人魚だ。
瑠璃色のうろこと、日に透かすと虹色になる尾ひれをもっている。
美しい美しい人魚なのだ。
・
「今日は帰りが遅くなるよ」
外出の用意をしながら、プールサイドでひなたぼっこをしているチャンミンに声をかけた。
外気に身体をさらす時間を少しでも増やそうと、特訓しているのだ。
「ひとりぼっちですか...」
ぷぅとふくれっ面をするチャンミンを、抱きしめた。
「食事はキッチンに用意してあるよ。
先に食べてていいからな」
「あの『椅子』を使うんですね。
仕方がないですねぇ」
チャンミンの為に、車いすを特注したのだ。
長い尾びれがおさまるように座面の面積を広く、座り心地が良いようクッションの材質にもこだわった。
車輪も大きく、ひと漕ぎで何メートルも前に進むことができる。
これのおかげで、チャンミンは家の中を自由に移動できるようになった。
エレベーターを使えば、地下のプールへも移動できる。
とは言え、長時間は無理だ。
「何かあったら電話をして」
すぐに手にすることができるよう、プールサイドに携帯電話を置いた。
これまでも、長時間家を空けることのないようにしていたが、今日だけは外せない用事があったのだ。
「電話があった時は、すっ飛んで帰ってくるから」
「ちえっちえっ!」
舌打ちするチャンミンに唇を覆いかぶせる。
「いつでもチャンミンのことを考えているからな」
少しだけ機嫌を直したチャンミンの額にもキスをして、手を握ってぶんぶんと上下に振った。
「じゃあな」
チャンミンはあやふやな笑顔を見せて、手を振った。
~チャンミン~
僕の全てはユノ。
ユノの全部が大好き。
ユノの側にいることが大好き。
僕のために何でもしてくれた。
ユノの眼差しから、僕への愛がほとばしる。
僕を海から遠ざけ、高い塀に囲まれたプールに閉じ込められている。
そんなことないんだ。
高い塀は、ユノ以外の人間の目から僕を隠すため。
週に一度は海に連れて行ってくれたし、この前は水槽付きの車に乗って、ピクニックに連れて行ってくれた。
水の匂いがするのは、近くに大きな川が流れているからだ。
この川は大海へと繋がっている。
僕は生まれて初めて草地に足をつけた。
足をつけて...僕に当てはまらない言葉だね...僕には足がない。
だって、僕は人魚。
哀しいけれど、これが現実だ。
ごろんと寝っ転がると、真っ青な空。
綿菓子のような空が透けて見える雲が、ゆっくりと流れている。
海の波間から頭を出して見上げる空と、どこか違う。
陸地の空はもっと、色が薄くて優しい色をしている。
塩気のある湿った匂いじゃなく、甘くて透明な香りがする。
ユノも僕の隣に同じように横たわった。
しばらく無言のまま、空を見上げていた。
柔らかな若草が僕のうろこをしっとりと湿らしてくれる。
この世界には薔薇色の雲があるという。
海の泡が風の精霊となって天高く浮かび上がり、薔薇色の雲になるという。
僕にとっての薔薇色は、ユノの唇だけだ。
傍らに咲いた花を摘み、ユノの耳を飾った。
ユノは僕の方を向いて、僕をとろとろに溶かしてくれる唇をほころばせた。
優しい笑顔。
完璧な横顔。
ユノは僕だけの人。
美しい美しい人間の男だ。
・
僕は昨夜のことを思い出して、にんまりしていた。
僕とユノは水の中で交わった。
ユノの足首をふざけてつかんで、プールの中に引きずり落した。
プールの底に沈んだユノを抱えて浮上し、彼に酸素を与える。
「俺を殺す気か!?」
ユノは怒鳴って、僕をぎりりと睨みつけた。
僕はユノの首にしがみつき、「ごめんね」といっぱい謝って、いっぱいキスをした。
仕方がないなぁと苦笑したユノは、何度目かのキスにキスで応えてくれる。
ユノの洋服を脱がす。
全裸になったユノの白い身体が、プール底に仕込まれたライトに照らされる。
水中に2人して沈む。
息を止めるユノ、口や鼻から泡が次々とこぼれる。
ユノの目には僕の姿はぼやけて映っているだろう。
僕の目には、ユノのまつ毛1本1本、小さな傷跡まで全部クリアに映っているというのに。
ユノの逞しい腕に腰を引き寄せられた。
僕はユノの頭の上まで持ち上げられ、胸先を舌で愛撫される。
舌で転がされ、きつく柔く吸われ、甘噛みされる。
僕のそこは熱く潤っている。
ユノを受け入れて、僕の腰がびくびくと震えた。
僕の尾びれが水面を叩き、水しぶきが上がる。
ゆさゆさと上下に揺さぶられて、不規則な間隔で水紋ができる。
快感でのけぞり、水中に沈んでしまった僕を引き上げようと、ユノの腕が伸ばされる。
僕は全然平気なのに、毎回ユノは大慌てするのだ。
交わる度に、僕らは涙を流す。
幸せと切なさの交じり合った涙を。
ユノも僕と一緒に、水の中で暮らせるようになればいいのに。
ユノの努力は認めるけれど...認めるけれどね。
僕ばっかりずるい。
僕ばっかり窮屈な思いをしている。
そんな僕の心の奥底に潜む醜い感情が、たまに水面から顔を出すのだ。
愛情の究極の徴が欲しかった。
(中編につづく)
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