【短編】夜明けの空気★

 

 

「次の休みには、会いにいくから」

「うん。

その次の休みには私がそっちに行くから」

「待ってる」

「そろそろ行った方がいいよ」

「ああ...時間だね」

「じゃあ...また、ね」

「いつでも会えるから」

「いつでも会えるよね」

繋いだ手をぎりぎりまで離せずにいた。

そして、保安検査場の手前で、僕らは別れた。

列が一歩ずつ前に進むたび、彼女の存在を確かめた。

振り向くたび、彼女は胸のあたりで小さく手を振った。

10回目に振り向いた時見えたのは、大股で歩き去る彼女の背中だった。

そういえば、彼女は泣いていなかった。


 

搭乗口前のベンチに腰かけて、別れ際に、互いのおでこと鼻先をくっつけた感触を思い出していた。

この場所は、僕はこっちへ彼女はあちらへと何度も分けてきたが、今回は意味合いが違う。

これからは、僕はずっとこちらへ行ったままだ。

僕は2つの選択の間で迷っていた。

僕が国に帰らなくてはならないと告げた時、

彼女は、30秒くらい考え込んだ末、

「わかった。

いつでも会えるんだから、私たちは大丈夫よ」

と言った。

落胆した顔を彼女に気づかれないよう、僕は必死に笑顔を取り繕った。

チクタクと、普段の2倍のスピードで僕の出国日は迫っていった。

この間、僕は

「行かないで」や

「チャンミンに付いていく」と、

2つの台詞のどちらかを彼女が口にしてくれるのを期待していた。

そのどちらも、彼女が言いそうにないセリフであることは、3年間彼女と一緒にいた僕がよく分かっていた。

僕の本音は、身勝手で女々しい。

彼女には、僕についてきて欲しかった。

彼女には、住まいも仕事もあちらに置いて、僕と一緒にこちらに来て欲しかった。

だから今日、小さなバッグひとつの彼女を見て、がっかりした自分がいた。

「やっぱり一緒に行くことにしたの」と、スーツケースを転がす彼女を期待していたからだ。

一方で、

僕は、彼女の国で彼女とずっと一緒にいたかった。

けれども、自分のチャンスを、みすみす恋人のためにふいにしてしまうような、女々しい奴だと思われたくなかった。

どちらも選べなかった僕は、一人で国に戻ることにしたんだ。

 


 

チャンミンが、国に帰ってしまう日までの間、わたしは迷っていた。

チャンミンは、「一緒に来てくれ」とも「ここに残るよ」とも、どちらの言葉も口にしなかった。

わたしと離れたくないからと、母国に帰らずここにずっといて欲しかった。

でも、彼のチャンスを潰すような、身勝手な女になりたくなかった。

​一方で、

彼についていきたかった。

 

でも、恋人のために自分のチャンスを、みすみす逃す野心のない女だと思われたくなかった。

どちらも選べないうちに今日、チャンミンの出国日を迎え、

検査を待つ行列に並ぶ、

頭一つ分背の高いチャンミンの後ろ姿を、こうして見送っているのだ。

春休みに入った初日とあって、列はじりじりとしか進まない。

彼の姿が見えなくなる前に、私は踵を返した。

私には時間がない、待てなかった。

宅配便カウンターで、前日のうちに発送しておいたスーツケースを受け取る。

バッグからパスポートを引っ張り出して、チェックインを済ませた。

「行く?」「行かない?」

 

心はすでに決まっていた。

私はチャンミンと一緒にいたい。

 

それ以外のことは、後から考えればいい。

彼の乗った航空機に2時間遅れて、私は彼を追いかける。

チャンミンへのサプライズ。

私はチャンミンの側に居続ける選択をした。

わたしってば、馬鹿な女でしょう。

でも、いいの。

私はこんなにもチャンミンに夢中な、馬鹿な女だから。

 


彼女はとっくに帰宅しているだろう。

通話可能になったのを確かめて、彼女へ電話をかける。

『おかけになった電話は現在、電源が切られているか…』のアナウンスが流れた。

すぐにでも彼女の声を聞きたかったから、少しだけ落胆した。

僕は再び、搭乗口前のベンチに腰かけていた。

彼女の驚く顔を早く見たかった。

母国で待っている新しいチャンスなんか、ちっぽけなことに思えてきた。

仕事のチャンスなんて、また作ればいい。

心はすでに決まっていた。

僕は彼女と一緒にいることを選択した。

これまで常識や見栄を意識して、本心に正直じゃなかった。

彼女の決断を待つばかりの僕だった。

仕事よりも恋人を優先させた僕は、腑抜けた野郎だろう。

言いたい奴には言わせておく。

これは僕が決めた道なんだ。

 


チャンミンの母国に到着したわたしは、彼の新しいアドレスをメモした紙をバッグから取り出した。

几帳面な彼だから、荷ほどきを済ませている頃だろう。

待ちきれなくて、電話をかけることにした。

彼の驚く顔を想像すると、笑みがこぼれてしまう。


彼女とようやく連絡がついた。

『着いたよ』

「ええ、私も着いたところ」

『ずいぶんゆっくりしてたんだね』

「うふふ、いろいろとね」

僕は、わくわくとした気持ちを抑えきれなかった。

「あのさ、僕は今どこにいると思う?」

『新しい家でしょ?』

「不正解」

『飲み屋さん?』

「不正解」

『えー、分かんない』

「びっくりするよ、絶対に」

『びっくりすること?』

「ああ」

『もったいぶらないで、早く言ってよ』

「1時間後には会えるよ」

「え?」

「すぐに会えるから、ちょっと待ってて」

『え?』

「僕はね、今、空港にいるんだ」

『まだ空港にいたの?』

「僕はね...君の国にいるんだ」

『え?』

「あっちに帰ることはやめたんだ」

『え?』

「離れ離れは嫌だ。

だから、こっちにいることにしたんだ」

『......』

「怒った?」

彼女が黙り込んでしまったから、僕は少し不安になる。

『ねえ、チャンミン』

「ん?」

『私は今、どこにいると思う?』

「どこって、家だろ?こんな時間なんだし」

『違うの』

「違う?」

『私ね、あなたの国にいるのよ』

「え...!」

『私…、やっぱりチャンミンについていこうと決めたの』

「ついていく?」

『離れて暮らすのは、嫌なの。

だから、あなたを追いかけたの。

あなたの国で、一緒に暮らそうと決めたの』

「......」

『馬鹿な女だって…あきれてるでしょ?』

「まさか」

『ほんとに?』

「ああ。

僕こそ馬鹿な男だ」

​「私があなたの国にいて、あなたは私の国にいるってことでしょ」

『国を越えたすれ違いだね』

可笑しいのと嬉しい気持ちがない混ぜになって、泣きたいのか笑いたいのか、もう僕にはわからない。

「僕らは…とんだバカップルだね」

『何それ。いつの間にそんな言葉覚えたの?』

​ひとしきり二人で笑った。

全く、僕らときたら...二人そろって...。

「これから、どうしようっか?」

『朝一番の便で、チャンミンはこちらへ戻ってきて』

「駄目だよ、君こそこっちに戻っておいで」

『チャンミンが来るの』

「駄目だ、君がこっちに来るんだ」

押し問答しているうち、僕はいいアイデアを思い付いた。

「そうだ!

どこか暖かい国へ行こう!」

『え?』

「二人にとって、新しいところへ行くんだよ!」

『なんで行き先が、暖かい国になるわけ?』

「うーん、なんとなく」

『何よそれ!』

「僕の国とも、君の国とも、かけ離れた所がいいんじゃないかと思うんだ」

『どちらかの国だと、どちらかが犠牲を払ったみたいに思えるから、ってこと?』

「それもあるけど。

ほら、お互い無職になるんだし、新しい場所で再出発しよう」

『無計画過ぎない?』

​そういいながらも、彼女の声は高く澄んでいる。

「それは、そこへ行ってから一緒に考えよう」

『どこの国にする?』

「インドネシアはどうかな?」

『インドネシア!?』

「ああ」

『思いきったわね』

「なんとなく決めてみたんだ」

『あははは』

「現地集合にしよう!

パスポートの有効期限は大丈夫?」

『大丈夫』

「チケット買うお金はある?」

『ある』

「よし、向こうで再会だ」

『面白くなってきた!』

 


 

僕はニヤけてきて仕方がない。

僕は搭乗ゲート前のベンチに座っている。

​24時間の間で、3度目だ。

ここに到着した時は深夜だったから、数時間ベンチで仮眠をとった。

去年、彼女と旅行したバリ島を思い出していた。

 

蒸し暑い空気と汗ばんだ肌。

​エアコンが効きすぎた部屋からバルコニーへ出ると、湿気交じりの暖かい空気に包まれ、ほんのしばらくホッとした。

開けた窓から、室内の冷気がこちらへ流れてきた。

部屋の中央に据えられた巨大なベッドに、彼女がうつぶせに眠っていた。

真っ白なシーツから、彼女の小さなかかとがのぞいていた。

僕はあの時、こう思ったのではなかったか。

彼女の手を離さないと。

 

紙コップのコーヒーを飲みながら、全面ガラスの向こうを見渡した。

延々と延びる、白くかすんだ滑走路の先のすそが、曙色に染まっている。

夜明けの空の下、3月のひんやりと乾いた空気を吸う様を、想像する。

太陽が間もなく姿を現すだろう。

彼女と繋いだ手は二度と離さない。

僕は彼女と生きていく。

新しい僕らの一日が始まろうとしている。

 

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

[maxbutton id=”23″ ]