「次の休みには、会いにいくから」
「うん。
その次の休みには私がそっちに行くから」
「待ってる」
「そろそろ行った方がいいよ」
「ああ...時間だね」
「じゃあ...また、ね」
「いつでも会えるから」
「いつでも会えるよね」
繋いだ手をぎりぎりまで離せずにいた。
そして、保安検査場の手前で、僕らは別れた。
列が一歩ずつ前に進むたび、彼女の存在を確かめた。
振り向くたび、彼女は胸のあたりで小さく手を振った。
10回目に振り向いた時見えたのは、大股で歩き去る彼女の背中だった。
そういえば、彼女は泣いていなかった。
搭乗口前のベンチに腰かけて、別れ際に、互いのおでこと鼻先をくっつけた感触を思い出していた。
この場所は、僕はこっちへ彼女はあちらへと何度も分けてきたが、今回は意味合いが違う。
これからは、僕はずっとこちらへ行ったままだ。
僕は2つの選択の間で迷っていた。
僕が国に帰らなくてはならないと告げた時、
彼女は、30秒くらい考え込んだ末、
「わかった。
いつでも会えるんだから、私たちは大丈夫よ」
と言った。
落胆した顔を彼女に気づかれないよう、僕は必死に笑顔を取り繕った。
チクタクと、普段の2倍のスピードで僕の出国日は迫っていった。
この間、僕は
「行かないで」や
「チャンミンに付いていく」と、
2つの台詞のどちらかを彼女が口にしてくれるのを期待していた。
そのどちらも、彼女が言いそうにないセリフであることは、3年間彼女と一緒にいた僕がよく分かっていた。
僕の本音は、身勝手で女々しい。
彼女には、僕についてきて欲しかった。
彼女には、住まいも仕事もあちらに置いて、僕と一緒にこちらに来て欲しかった。
だから今日、小さなバッグひとつの彼女を見て、がっかりした自分がいた。
「やっぱり一緒に行くことにしたの」と、スーツケースを転がす彼女を期待していたからだ。
一方で、
僕は、彼女の国で彼女とずっと一緒にいたかった。
けれども、自分のチャンスを、みすみす恋人のためにふいにしてしまうような、女々しい奴だと思われたくなかった。
どちらも選べなかった僕は、一人で国に戻ることにしたんだ。
チャンミンが、国に帰ってしまう日までの間、わたしは迷っていた。
チャンミンは、「一緒に来てくれ」とも「ここに残るよ」とも、どちらの言葉も口にしなかった。
わたしと離れたくないからと、母国に帰らずここにずっといて欲しかった。
でも、彼のチャンスを潰すような、身勝手な女になりたくなかった。
一方で、
彼についていきたかった。
でも、恋人のために自分のチャンスを、みすみす逃す野心のない女だと思われたくなかった。
どちらも選べないうちに今日、チャンミンの出国日を迎え、
検査を待つ行列に並ぶ、
頭一つ分背の高いチャンミンの後ろ姿を、こうして見送っているのだ。
春休みに入った初日とあって、列はじりじりとしか進まない。
彼の姿が見えなくなる前に、私は踵を返した。
私には時間がない、待てなかった。
宅配便カウンターで、前日のうちに発送しておいたスーツケースを受け取る。
バッグからパスポートを引っ張り出して、チェックインを済ませた。
「行く?」「行かない?」
心はすでに決まっていた。
私はチャンミンと一緒にいたい。
それ以外のことは、後から考えればいい。
彼の乗った航空機に2時間遅れて、私は彼を追いかける。
チャンミンへのサプライズ。
私はチャンミンの側に居続ける選択をした。
わたしってば、馬鹿な女でしょう。
でも、いいの。
私はこんなにもチャンミンに夢中な、馬鹿な女だから。
彼女はとっくに帰宅しているだろう。
通話可能になったのを確かめて、彼女へ電話をかける。
『おかけになった電話は現在、電源が切られているか…』のアナウンスが流れた。
すぐにでも彼女の声を聞きたかったから、少しだけ落胆した。
僕は再び、搭乗口前のベンチに腰かけていた。
彼女の驚く顔を早く見たかった。
母国で待っている新しいチャンスなんか、ちっぽけなことに思えてきた。
仕事のチャンスなんて、また作ればいい。
心はすでに決まっていた。
僕は彼女と一緒にいることを選択した。
これまで常識や見栄を意識して、本心に正直じゃなかった。
彼女の決断を待つばかりの僕だった。
仕事よりも恋人を優先させた僕は、腑抜けた野郎だろう。
言いたい奴には言わせておく。
これは僕が決めた道なんだ。
チャンミンの母国に到着したわたしは、彼の新しいアドレスをメモした紙をバッグから取り出した。
几帳面な彼だから、荷ほどきを済ませている頃だろう。
待ちきれなくて、電話をかけることにした。
彼の驚く顔を想像すると、笑みがこぼれてしまう。
彼女とようやく連絡がついた。
『着いたよ』
「ええ、私も着いたところ」
『ずいぶんゆっくりしてたんだね』
「うふふ、いろいろとね」
僕は、わくわくとした気持ちを抑えきれなかった。
「あのさ、僕は今どこにいると思う?」
『新しい家でしょ?』
「不正解」
『飲み屋さん?』
「不正解」
『えー、分かんない』
「びっくりするよ、絶対に」
『びっくりすること?』
「ああ」
『もったいぶらないで、早く言ってよ』
「1時間後には会えるよ」
「え?」
「すぐに会えるから、ちょっと待ってて」
『え?』
「僕はね、今、空港にいるんだ」
『まだ空港にいたの?』
「僕はね...君の国にいるんだ」
『え?』
「あっちに帰ることはやめたんだ」
『え?』
「離れ離れは嫌だ。
だから、こっちにいることにしたんだ」
『......』
「怒った?」
彼女が黙り込んでしまったから、僕は少し不安になる。
『ねえ、チャンミン』
「ん?」
『私は今、どこにいると思う?』
「どこって、家だろ?こんな時間なんだし」
『違うの』
「違う?」
『私ね、あなたの国にいるのよ』
「え...!」
『私…、やっぱりチャンミンについていこうと決めたの』
「ついていく?」
『離れて暮らすのは、嫌なの。
だから、あなたを追いかけたの。
あなたの国で、一緒に暮らそうと決めたの』
「......」
『馬鹿な女だって…あきれてるでしょ?』
「まさか」
『ほんとに?』
「ああ。
僕こそ馬鹿な男だ」
「私があなたの国にいて、あなたは私の国にいるってことでしょ」
『国を越えたすれ違いだね』
可笑しいのと嬉しい気持ちがない混ぜになって、泣きたいのか笑いたいのか、もう僕にはわからない。
「僕らは…とんだバカップルだね」
『何それ。いつの間にそんな言葉覚えたの?』
ひとしきり二人で笑った。
全く、僕らときたら...二人そろって...。
「これから、どうしようっか?」
『朝一番の便で、チャンミンはこちらへ戻ってきて』
「駄目だよ、君こそこっちに戻っておいで」
『チャンミンが来るの』
「駄目だ、君がこっちに来るんだ」
押し問答しているうち、僕はいいアイデアを思い付いた。
「そうだ!
どこか暖かい国へ行こう!」
『え?』
「二人にとって、新しいところへ行くんだよ!」
『なんで行き先が、暖かい国になるわけ?』
「うーん、なんとなく」
『何よそれ!』
「僕の国とも、君の国とも、かけ離れた所がいいんじゃないかと思うんだ」
『どちらかの国だと、どちらかが犠牲を払ったみたいに思えるから、ってこと?』
「それもあるけど。
ほら、お互い無職になるんだし、新しい場所で再出発しよう」
『無計画過ぎない?』
そういいながらも、彼女の声は高く澄んでいる。
「それは、そこへ行ってから一緒に考えよう」
『どこの国にする?』
「インドネシアはどうかな?」
『インドネシア!?』
「ああ」
『思いきったわね』
「なんとなく決めてみたんだ」
『あははは』
「現地集合にしよう!
パスポートの有効期限は大丈夫?」
『大丈夫』
「チケット買うお金はある?」
『ある』
「よし、向こうで再会だ」
『面白くなってきた!』
僕はニヤけてきて仕方がない。
僕は搭乗ゲート前のベンチに座っている。
24時間の間で、3度目だ。
ここに到着した時は深夜だったから、数時間ベンチで仮眠をとった。
去年、彼女と旅行したバリ島を思い出していた。
・
蒸し暑い空気と汗ばんだ肌。
エアコンが効きすぎた部屋からバルコニーへ出ると、湿気交じりの暖かい空気に包まれ、ほんのしばらくホッとした。
開けた窓から、室内の冷気がこちらへ流れてきた。
部屋の中央に据えられた巨大なベッドに、彼女がうつぶせに眠っていた。
真っ白なシーツから、彼女の小さなかかとがのぞいていた。
僕はあの時、こう思ったのではなかったか。
彼女の手を離さないと。
・
紙コップのコーヒーを飲みながら、全面ガラスの向こうを見渡した。
延々と延びる、白くかすんだ滑走路の先のすそが、曙色に染まっている。
夜明けの空の下、3月のひんやりと乾いた空気を吸う様を、想像する。
太陽が間もなく姿を現すだろう。
彼女と繋いだ手は二度と離さない。
僕は彼女と生きていく。
新しい僕らの一日が始まろうとしている。
(つづく)
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