どうりで様子がおかしいと思った。
特急列車の中でも、現地までの唯一の交通手段である路線バスを待つ間も、ただでさえ口数が少ない彼が話しかけても、力なく微笑むだけだった。
2泊3日の旅の荷物としては大きすぎる、一週間分は入るだろうスーツケースを引っ張るのも、やっとのようだった。
案内と接待を済ませた仲居さんが退室するやいなや、チャンミンは畳の上にうつぶせに寝転がってしまった。
「ごめんなさい。
ギブアップです」
畳に頬をくっつけたまま、チャンミンはミミを見上げる。
「やっぱり!」
ミミはチャンミンの額に触れる。
「どうしてもっと早く言ってくれないの?」
燃えるような熱さを確認したミミは、チャンミンの頭を折った座布団の上に乗せた。
「途中で引き返したのに」
ミミは、押入れから布団を出し、寝そべるチャンミンの横に延べた。
「...中止したくなかった...から」
「そんなに体調が悪いのに、我慢してたの?
ほら、移動できる?」
真っ赤な顔をしたチャンミンは、重だるい身体をようやく起こすと、糊のきいたシーツの上に寝転がった。
「いつから、具合が悪かったの?」
「......」
背が高いチャンミンだったから、敷布団から足がはみ出しそうだ。
ミミの質問に答えず、
「ずっと楽しみにしていたんですよ。
這ってでも行きたかったんです」
お互いがスケジュールをすり合わせて、ようやく実現した旅行だった。
「僕はこの日のために生きてきたから」
「大げさね、遠足の小学生みたいね」
「......」
仏頂面になってしまうチャンミン。
“子供みたい”と言われることを、チャンミンが嫌がることを知っていたが、今回ばかりは遠慮しなかった。
熱があるのに旅行を強行したチャンミンの子供じみた意地に、ミミは苦笑していた。
「怒ってますか?」
チャンミンは、布団の隙間から伸ばした手を、枕もとに正座するミミの膝にのせた。
「怒ってないよ。
どうすれば、チャンミンを楽にしてあげるかな、って考えてるの」
(近くに診療所があるか、あとで仲居さんに聞いてみよう。
氷や常備薬がもらえないか、聞いてみよう)
遠くには頂きが白い山脈、間近まで迫った山、見渡す限り緑の世界。
あたりは薄暗くなっていて、窓の向こうにほんのわずかな人家の灯り。
白く濁った鉱泉が湧き出る、山深い温泉地に二人はやってきていたのだ。
実現したこの旅行の提案も、手配も支払いもすべてチャンミンが済ませた。
ここ一か月の間、二人の話題は旅行のことに尽きた。
アウトドア専門店で、トレッキングシューズを選び、標高の高い土地に行くからと日焼け止めクリームも買った。
最初はチャンミンの勢いに押され、苦笑しながら付き合っていたミミだったが、ワクワクを隠し切れないチャンミンの笑顔を見続けているうちに、気づけば指折り待ち望んでいた。
ミミは、若さ弾けるチャンミンに対して、自分が年上過ぎることに引け目を感じていた。
一方、チャンミンは、初めて出来た年上の恋人を前にすると、たちまち経験不足が露呈してしまうことが恥ずかしかった。
熱のせいで潤んだ目ですがるように、ミミを見上げるチャンミン。
「苦しいね」
額にかかった髪をかき上げてやると、チャンミンは目を細め、にーっと口角を上げる。
(無理して笑わなくていいのよ)
「夕食はそんなに入らないでしょ?
メニューを変えてもらうね」
「はい」
(確か、マスクがあったはず)
ミミはリュックサックの中をかきまわして、ポーチをいくつも取り出す。
「どこに入れたっけ?」
ポーチの中のポーチの中のポーチの中に...。
フェイスパック、使い捨てカイロ、のど飴、除菌ティッシュ、湿布薬、ティーパック、入浴剤。
「ミミさんのバッグには何でも入ってますね。
整理整頓し過ぎて、欲しいものが見つからない人ですね」
「風邪っぴきは黙ってるの!」
熱で朦朧としているくせに、毒舌だけは健在だ。
かきまわした弾みでぽろりとはみ出したものに気付いて、ミミは素早くバッグに戻す。
チャンミンには背を向けていたから、大丈夫、見られていない。
(危なかった)
充電ケーブルを入れたポーチの中に、目当てのものを見つけてチャンミンの枕元に戻った。
「ほら、マスクをして」
短く刈ったもみあげからピンと立つ耳に、ゴムを掛けてあげた。
1枚だけあった冷却シートも、額に貼る。
「肝心の風邪薬はなかったの、胃薬はあったんだけど」
「ミミさんらしいです」
「お口は達者なのね。
水分を摂った方がいいよ。
何が入ってるかな?」
広縁に置かれた冷蔵庫の前でしゃがむミミに、うっとりとした視線を注ぐチャンミン。
ミミさんは、やっぱり綺麗だ。
僕には甘くて優しくて、世間を知っている大人で、美人で。
間抜けな顔をして、寝ているだけの僕が悔しい。
見た目がふんわりと、頼りなげなこの人の横顔が、ハンドルを握った途端、凛としたものに変わる。
在校中は、教官と教習生が個人的に連絡をとることが禁止されていた。
周囲の男どもが皆、ミミさんの担当教習生になりたがっていた。
卒業してすぐ、思いきってミミさんに告白してよかった。
晴れてミミさんの彼氏になれて、僕は幸せ者です。
僕はまだまだです。
努力しますね。
ミミさんにふさわしい、大人の男になりますから。
大好きなミミさんのために。
「ミミさん、温泉入ってきてください」
座椅子にもたれて、TV番組表のコピー用紙を見るともなく眺めながら、茶菓子の最中をかじっていたミミの背中に、チャンミンは声をかけた。
「いいの?」
「はい。
僕の分まで、温まってきてください」
ミミは、布団から頭だけ出したチャンミンを愛おしげに見つめる。
企画・立案したイベントの主催者が伏せってしまっては、さぞかし彼は悔しいだろうに。
無理に見せる笑顔がふにゃふにゃだし、毒舌や皮肉に少々キレがない。
無言になった隙にそうっと様子をみると、鼻先まで布団をかぶって、眉をよせてギュッと目をつむっていた。
(可哀そうに)
ミミは浴衣と一緒に下着と化粧ポーチを、布バッグにつめた。
「お利口さんにしててね」
チャンミンの熱い額に軽くキスをした。
チャンミンは一瞬目を丸くした後、半月型にさせてにっこりと笑った。
「口にして欲しいけど、ミミさんに伝染しちゃうから、我慢します」
「12時間も一緒にいたんだからとっくに伝染っているわよ」
交際を始めてまだ3か月の二人は、まだ軽いキスを数回交わしただけ。
交際に至るまで一年を要した。
亀の歩みのようなペースで距離を縮めていく二人だったから、額のキスだけでもチャンミンの心は弾んだ。
マスクで男性的な鼻もあごも隠れているせいで、余計に目の印象が強まった。
ミミがかき上げたせいでむき出しになった額の下の、
直線的な眉も、まつ毛に縁どられた優しいカーブのまぶたも、
熱のせいで赤く色づいた下まぶたも、
男性にしてはふっくらとした涙袋も、
全部が可愛らしくミミの眼に映る。
彼の瞳は、高性能のレーダーだ。
ごったがえす雑踏の中から秒速で私の姿をキャッチする。
透明でまっすぐな眼差しが、こんな自分に注がれているなんて。
いいのだろうか。
「大好きです」と繰り返す彼の言葉を、
真に受けていいのだろうか。
彼の視線を注がれた私は、ピカピカの新品に生まれ変われる。
甘えん坊の可愛い、可愛い恋人だ。
川魚と山菜が中心の 質素ながらも品数多く並ぶテーブル。
無理を言って用意してもらった、とろとろに炊いたお粥はチャンミン用だ。
チャンミンの額にのった温泉タオルが白くまぶしい。
アイスペールには、たっぷりと氷を入れてもらった。
「あーんしてください」
布団に寝そべったまま、チャンミンは大きく口を開ける。
「はいはい、あーん」
「熱いです。
ちゃんとふうふうして下さい」
「子供みたい」
チャンミンが機嫌を損ねる言葉だけど、時と場合によっては、子供扱いを素直に楽しむこともあって、なかなか扱いが難しい。
「メロンのシャーベット、食べる?」
「シャーベットはデザートです、最後です。
湯葉の刺身がいいです」
「はいはい」
「僕もお酒が飲みたいです」
手酌で日本酒を飲むミミの浴衣の袖を、チャンミンは引っ張った。
「駄目って分かってて言ってるでしょう?
カモミールティーを淹れてあげるから」
「ミミさんのバッグは、何でも入っているんですねぇ」
「世話が焼けるチャンミンのために、荷物が多いのよ」
(ここまで見事に、浴衣が似合わないとは)
浴衣から骨ばった長いすねが突き出していて、可笑しかった。
同時に、浴衣の袖から伸びる筋張った腕に、ドキリとしてしまうミミだった。
「ミミさんの場合、必要なものを絞り込めないだけでしょう?」
「こら!」
山盛りのシャーベットを、チャンミンの口に押し込んだ。
冷たさでこめかみを抑えるチャンミンを見て笑うミミだった。
枕元灯のオレンジ色の灯りに照らされるミミの顔を、チャンミンはうっとりと見上げていた。
(化粧を落とした顔は、初めてです。
ミミさんはやっぱり綺麗だ)
ミミが動くたび、長く黒い影が畳や壁をなめる。
隣の布団で、うつぶせになって雑誌をめくるミミを溶かすかのように、、チャンミンは文字通り熱い視線を送る。
化粧水でピカピカ光る頬や、ラフに2つに結んだ髪や、ブレスレットを外した手首も。
(すっぴんのミミさんを見られる男は、世界中で僕一人だけになりたい)
チャンミンは、枕の下からスマホを取り出すと、アプリを立ち上げた。
シャッター音に気付いたミミは、目をむいた。
「盗み撮りしたわね!
ノーメイクなんだから!もう!」
「ぐふふふ」
恥ずかしくなったミミは、枕に顔を伏せてしまった。
(素顔が可愛い年齢なんて、とっくに過ぎた顔なのに...!)
「ミミさん、ごめんなさい」
「?」
枕から顔を上げて横を向くと、隣の布団のチャンミンが、両手で顔を覆っていた。
「ごめんなさい」
「ブスに写っていたら、データを消してね」
写真を撮ったことを謝っているのだと思った。
「あの...ミミさん」
「なあに?」
「今夜の僕は...
無理です。
ミミさんを抱けません。
力が出ません」
「チャンミン!」
「ミミさん、楽しみにしていたでしょう?
僕はちゃ~んと、知っているんですよ。
可愛い下着も用意してくれてたのに」
チャンミンは、ぐふふと笑う。
ミミの頬がカッと熱くなった。
バッグからはみ出してしまったアレを、高性能レーダーの目で漏らさずキャッチしていたに違いない。
「今夜は僕とミミさんの初めての夜になるはずだったのに...僕は悔しいです」
覆った指の間から、三日月形になったチャンミンの眼が覗いていた。
「ぐふふふ」
「そんな照れることを、よく言えるわね」
「鈍感なミミさんがいけないんですよ。
僕が分かりやすく言わないと、理解できないミミさんのせいです」
そう言うと、チャンミンは布団から這い出して、ミミの布団の中に滑り込んできた。
「チャンミン!」
「ぎゅー」
にゅうっと腕が伸びてきて、ミミの頭を力任せに胸に抱え込んだ。
「ぎゅー」
「痛い痛い!」
「僕は若くて健康な男なので、やっぱり我慢できません」
ふざけた風を装っているが、実はチャンミンの心臓はバクバクだった。
緊張しているのをごまかすように、チャンミンは鼻面をすりつける子犬のようにふるまった。
ぴったりと押しつけたミミの頬を通して、ドクドクいうチャンミンの胸の高まりが伝わってくる。
「今は健康じゃないでしょ」
「ふむ...確かにそうですね」
力を抜いた隙に、ミミはチャンミンの腕から抜け出す。
「ミミさん!」
ミミは敷布団の端を持つと、ずりずりと部屋の端まで引きずった。
「風邪が伝染るし、病人の貴方が落ち着いて眠れないでしょう?」
「そんなぁ...」
「ほら!
さっさと寝る!」
「あうぅ...遠いです」
恨めしく三白眼でじーっとミミを睨んでいたチャンミンだったが、諦めたのかミミに背を向けて横になる。
なんだかんだ言っても、やはり身体が辛いのだ。
強めにうねる髪の後頭部が可愛らしい。
先ほどまでチャンミンが寝ていた布団は、ホカホカと温かかった。
(ときめいちゃったじゃないの!
チャンミンの行動は、予想がつかないんだから!)
この日のために、わざわざ下着を用意した自分の気合の入れようが恥ずかしかった。
同時に無邪気な自分を微笑ましく思ったミミだった。
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