昼食時間、チャンミンは教習ルートの地図を眺めていた。
独りになりたくて、場内コースの監視塔に上がっていた。
卒業検定は、教習で走行したコースを使用されるのだが、検定の直前までどのコースが選ばれるのかは知らされない。
矢印信号が複雑な交差点、片側4車線、勾配がある通り、小学校の側、一時停止の先は交通量の多い幹線道路、下町風商店街...コースによって難度に差が出てきてしまい、運悪くこれらのコースに当たってしまった受検者たちは気の毒としか言いようがない。
指導員にはどうこうできる権限はない。
(当日、公安委員会からコース決定の連絡がやってくる)
ユノの教習課程も後半戦に突入していた。
そろそろ、卒業検定を見据えた指導が必要なのだ。
相変わらずひやひや冷や汗無しで、ユノの隣に乗車することはできない。
(この日は幅寄せし過ぎたせいで、駐車中の高級外車と接触しそうになった。チャンミンの寿命が9年縮んだ)
「チャンミン!」
呼ばれて頭を上げると、両手に菓子パンを抱えた同僚Kだった。
「びっくりした!」
「休憩時間くらい仕事のことは忘れろよ。
最近、頬がこけてるぞ。
ほら、パンでも食べなさい。
俺からのおごりだ」
「ありがとう」
チャンミンの胃袋は時折キリキリと痛み、恋の病と合わさって食欲が減少していた。
チャンミンがルート地図とにらめっこしているワケは、ユノの為。
どのルートが当たってもいいように、それごとの最難関箇所をピックアップしていたのだ。
これまで、担当教習生ごとに差をつけないモットーでいたのに、ユノを前にしていつやら壊れていた。
Kはもそもそとカレーパンを齧るチャンミンを、しばらくの間眺めていた。
(前の男とは別れたらしいな。
ユノとかいう大学生にのぼせてしまって...隠しているつもりだろうが、俺からはバレバレなんだよ。
上の奴らは気づいていなさそうなのが救いだ)
「今週あたり、飲みにいくか?」
「ん?」
Kからの誘いにきょとん、とするチャンミン。
でもそのすぐ後に、Kの友情を感じとってじわりと胸が温かくなった。
(僕の様子がおかしいことに心配してくれるんだな。
隠してたつもりだけど、だだ洩れだったのか)
「ぜひ」
「うちに来るか?
チャンミンが来ると知ったら、嫁さん、張り切って御馳走を作ってくれるよ。
飲み過ぎたらうちで泊まればいいし」
Kからの誘いにチャンミンは、「そうだなぁ」と曖昧な返事だったため、Kはもうひとつの案を提案した。
「子供らも騒がしいから、落ち着かないか。
じゃあ、いつものとこで飲もうか?
俺の悩みも聞いてくれ」
「うん」
強風が吹くと監視塔は揺れ、二人の咀嚼音は、その風音でかき消されてしまっている。
(チャンミンが思い煩うのも仕方ない。
こいつはゲイで少数派だ。
ユノはチャンミンに気がありまくりで、俺が見るところ恋愛感情込みだ。
だから、チャンミンに可能性はあるんだが、彼が行動に動くかどうかの可能性は低い。
頭が固い奴だし、ユノはストレートに決まってるし...ハードルがいくつもある恋だ。
だからと言って、仕事をおろそかにしたらいけない。
最近のチャンミンは、ユノにばかりかかりきりになっている...)
この自動車学校は土日祝日営業のため、二人はシフトを確認し合い、二人飲みは週末土曜日夜に決定した。
チャンミンがカレーパンを食べ終えた頃合いを見計らい、Kはベンチから立ち上がった。
「最近練習をサボっているだろう?」
話題が変わったことにより、チャンミンの表情は硬くなった。
「講習日は迫っているんだ。
俺が見てやるから、今日こそ練習をするから。
分かったか?」
「...分かったよ」とチャンミンは渋々ながら答えた。
「あ、待って!」
チャンミンは、「先に戻っとくよ」と監視塔を出て行こうとしたKを引き止めた。
ふり返ったKに、チャンミンは「ありがとう!」と礼を言った。
「店は俺が予約しておくよ。
それじゃあ、午後も頑張りますか」
「ああ」
チャンミンとKは監視塔を出ると、急な階段を慎重に下りていった。
「わっ」
地面に着いたと思い込んでいたら、もう一段あったのだ。
夢想にふけるチャンミンは、あやうくすっ転ぶところだった。
・
3時間にわたる応急処置教習というのがある。
今回の担当はチャンミンだった。
チャンミンは密かに学校一のイケメンだと、女子教習生たちから囁かれていたのだ。
当然ユノは、面白くない。
(俺のせんせに近づくな)
応急処置教習に使われるこの部屋はカーペット敷のため、全員靴を脱いでいる。
「!!」
チャンミンの靴下のくるぶしに、ワンポイントにバンビが刺繍されている。
(せんせっ...か、可愛い~。
自分で買ったのかなぁ(注:正解))
ユノは口を覆った上で、顔面崩壊しかけた顔を背けた。
和室には、10体の心肺蘇生用の練習マネキンがずらり並べられていた。
「2人1組になってください。
僕が見本をやってみせますから、一緒にやってみましょう」
チャンミンの指示に、ペア探しに教習生たちはざわめいた。
ユノは素早く教習生の人数をカウントした。
(よっしゃ...!
奇数数だ!)
ユノはすっと手を挙げた。
「せんせー!
俺、1人です!」
「ユノ!?」
ユノの宣言に、彼とペアになるものと決めつけていたQは目を剥いた。
「私がいるじゃない」
「いやいや、Qは先生と組むのなんて嫌だろ?」
ユノはそう言いきって、Qの背をぐいぐい押した。
「えっ!?
やだ、ユノ、何々!?」
そして、Qの抗議を無視して、ペアが組めずに困っているフリーター風の若者に、彼女を押し付けたのだった。
(この若者は、可愛い部類にはいるQとペアを組めて、顔を輝かせた)
「せんせは俺とペアですね」
「ユノさん...」
教習生たちの前で、あからさまに嫌がる表情はよろしくない。
(困る。
意識してしまうから困る。
平静を保てるか自信がない)
教習時間に余裕はない。
チャンミンは「ユノさんは僕とペアで」と素っ気なく言うと、ビニール袋入りのマウスピースを教習生たちに配布した。
「人形にマウスピースを付けて...」と、チャンミンはマネキンの脇に膝をついた。
「まずは安全な場所へけが人を運びます。
ユノさん!
足を持って!」
「はい!」
「合図に合わせて...持ち上げますよ~。
はい、1、2、3!
次にけが人の肩を揺すります。
こんな風に『もしもし、大丈夫ですか?』と、大きな声で呼びかけます。
ユノさん!
やってみせて」
「はい!
『大丈夫ですか?
もしもーし、大丈夫ですか?』」
「声が小さい!」
「!!!!!」
日頃物静かだったチャンミンの大声に、教習生たちはビクッとする。
「はい!
すんません!!」
(ひー!
いつものせんせと違う!)
「次!
周囲に助けを呼んでください!
『誰か!
誰か!
助けて下さい!』
手を大きく振って...。
はい、ユノさん、やってみせて!」
「はい!
『誰か!
誰か!
助けて下さい!』」
「声が小さい!!!」
「すんません!」
(せんせが...せんせが...怖い...。
ギャップ萌えだぁ。
...悪くない...悪くないぞ)
「ムフフ」と、ユノはにやついたのだった。
(つづく)
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