(16)麗しの下宿人

 

ベンチから伸びる影が長くなる。

 

蝉の鳴く声は相変わらずだけど、暑さが和らいだような気がする。

 

首に巻いた保冷剤がぬるくなり、隣に座るユノのことが気になり出した。

 

「ユノちゃん...平気?」

 

「平気さ。

外は風があるし」

 

「よかった」

 

「チャミは気配り上手だね」

 

「そっかなぁ?

ねぇ、病院に行ったら、何がどう変わるの?

検査するの?

注射は嫌だなぁ...」

 

「詳しいことまでは知らないけど、薬を飲む必要があるらしい」

 

「薬!?」

 

「ああ。

薬を飲むことで、例えば...首の後ろから出る香りが止められる」

 

「よかった~」

 

「他にもいろいろ効果がある。

 

オメガはとっても珍しい存在だって言っただろ?

 

普通の人たちと共存するために、薬は必要なんだ」

 

「キョーゾン?」

 

「辞書で調べな」

 

ユノはベンチから立ち上がると、2人分の空き缶を自販機脇の空き容器入れへ捨てた。

 

「帰ろっか?」

 

「うん」

 

「オメガの話は、今日のところはこれで終わりだ」

 

「え~!」

 

「詳しい話は、専門家から聞いた方がいい」

 

「もうちょっと教えて欲しいなぁ」

 

僕らは夕陽を真正面から浴びながら歩いた。

 

夕刻を知らせる音楽放送が流れた。

 

僕はユノの影のてっぺん辺りを踏んだり踏まなかったり、遊びながら歩いていた。

 

ユノは後ろを振り向くと、「そこまで距離を取らなくていいさ」と笑った。

 

でも、「隣を歩けばいい」とは言わない。

 

首の保冷材がすっかり溶けてしまった今、僕の香りはユノを苦しめ始めていただろう。

 

知らず知らずに漏れてしまった「寂しいな...」のつぶやきに、ユノは僕の元へと駆け寄ってきた。

 

「ぼ、僕!

今夜っ!

今日の夜、お母さんに話すよ!」

 

「...チャンミン」

 

ユノはその場にしゃがむと、僕の両肩をつかみ覗き込んだ。

 

「今夜って...急だろ?

大丈夫なのか?

ひと晩考えてもいいんだぞ?」

 

「ううん。

『オメガ』が何なのかよく分かんないし、ユノちゃんの話だと『オメガ』って怖いことみたい。

お母さんに内緒にしておきたいけど、内緒にしていたらいけない気がする。

お母さんにはいっぱい心配かけてきたし!

それなのに、『オメガ』だなんてよくわかんないことを聞かされて、きっとお母さん、泣いちゃうよ...っく」

 

喉の奥から嗚咽が込みあげ、目の奥から熱い涙が溢れてきた。

 

「早く病院に行って薬飲めば、匂いが無くなるんでしょ?

僕はユノちゃんと一緒に遊べる。

よく分かんないままでいるのは嫌なんだ」

 

一気にまくしたてた後、ひっくひっくとしゃくりあげる僕の背を、ユノは「よしよし」と撫ぜてくれた。

 

僕はとん、とユノの肩に額をあずけた。

 

ユノの首筋は紅潮し、太い血管が浮き出ていた。

 

僕の香りをかがないように、口で呼吸をしているようだった。

 

「チャミは凄いなぁ。

怖いことに正面から立ち向かえる奴なんだな?」

 

「凄くないよ。

大人に助けてもらうんだから。

知らないでいる方が怖いんだ」

 

ユノはTシャツの裾で、ぐずぐずすする僕の鼻水を拭ってくれた。

 

まくしあげた裾から、ユノの引き締まった下腹が露わになった。

 

ユノは今、僕の発散する香りでとても苦しいと思う。

 

でも、我慢できない僕は、ユノの首にしがみついていた。

 

「そうだよな。

いきなりだもんな。

気になるよな」

 

「...うん」

 

「チャミは素直だな~。

騙し放題じゃん」

 

「?」

 

「チャミをからかおうと、俺が嘘ついたとは思わなかったのか?

俺って、チャミをからかってばかりじゃん」

 

僕はぶんぶん首を振った。

 

僕はユノの肩から頭を起こした。

 

「お母さんに話をする時も、病院へ行くときも...もしお母さんが許してくれるなら...一緒に行ってやる」

 

「ユノちゃんはどうして、僕に優しいの?」

僕のこと、弟みたいに思ってる?」

 

僕の問いに、ユノのこみかみがくっと動いた。

 

歩道を通せんぼしている今の僕らは、年の離れた兄弟に見えるのかな?

 

最近の僕はしょっちゅう、「兄弟に見えるのか見えないのか?」にこだわるようになっていた。

 

「そうだなぁ...

チャミは弟っていう感じはしないなぁ。

ほっとけないのは確かだけどさ。

もっと対等な感じかな?

トモダチ、かなぁ」

 

「トモダチだから優しいの?

ユノちゃんはトモダチみんなに優しいの?

僕以外のトモダチにも?」

 

ユノの部屋で裸になっていた男の人を思い浮かべながら、そう尋ねた。

 

「チャミ専用の優しさは他の人にはやらない」

 

「僕専用の優しさ?

ユノちゃんの言うことは、いつも難しい」

 

「分かんないかなぁ。

この微妙なニュアンス?」

 

「分かんない」

 

 

意気込んでいたのに、母は夜勤を頼まれてしまったと言って、この夜は時間がとれなかった。

 

 

 

一度帰宅した母は、慌ただしく夕食と着替えを済ませると、「早く寝なさいね」と言い置いて、すぐに家を出て行った。

 

母が勤めるクリーニング工場は、機械を止めることなく24時間稼働している。

 

今夜の勤務が終わるのは、翌朝5時。

 

「あ~あ。

勇気を出したのに...」

 

僕はダイニングテーブルに頬をくっつけて、ため息をついた。

 

ラップをかけられたお惣菜のコロッケが、台所のテーブルに置かれていた。

 

母が帰宅途中にスーパーへ駆けこんで、僕の夕飯用に買ってきたものだ。

 

「やば!」

 

母への打ち明け話が延期になることを、ユノに伝えるのを忘れてた!

 

僕はカチカチの保冷剤を包んだタオルを首に巻いた。

 

今夜中に話すと意気込んだ僕だけど、それに付き添うユノの予定を確かめずにいた。

 

ユノは毎日ではないけれど、夜になると外出し、朝方に帰宅する生活を送っていた。

 

僕の為に、今夜の予定を空けていたとしたら、迷惑をかけてしまう。

 

木戸をノックすると、中から「どうぞ~」と、いつもの返事。

 

室内の光源はスタンドライトだけで、ユノは漫画本を読んでいたようだった。

 

「そろそろか?」

 

ユノは書き物机に読みかけの漫画本を伏せて置くと、立ち上がった。

 

「ユノちゃん、ごめん」

 

延期になってしまったことを謝った。

 

「お母さん、忙しいんだな。

夜勤か...大変だな」

 

「ユノちゃんこそ、大丈夫だったの?」

 

「今夜はフリーだ。

好きに過ごしてるから」

 

僕の首に気付いたユノから「チャミ、ありがとう」とお礼を言われてしまった。

 

「ううん。

首が涼しいから、クーラーが無くても済むね」

 

室内は蚊取り線香の匂いで満ちていた。

 

それもそのはず、下宿屋の備品である陶器製の蚊遣りをかき集めて、部屋の四隅で焚いていたからだ。

 

網戸の隙間から入り込んだ蚊を退治するため。

 

...と言うより、僕と同じ時、同じ場で過ごせるようにしたユノの工夫なんだと思う。

 

 

(つづく)

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