~チャンミン~
中庭を見渡せるホールは談話室兼リクリエーション室となっており、今日のメニューは風船バレーボールだった。
歓声が上がる一団から離れたテーブルでは、集団行動を好まない人たちが塗り絵に勤しんでいた。
僕はそれすらも億劫がった入所者の一人...ウメさんの車いすを押していた。
中庭をコの字型に囲むコンクリート製の通路を、さっきから行ったり来たりしていた。
「あっちの東屋まで行ってみます?」
ウメさんは足腰が弱っているだけで、決して歩けないわけじゃない。
頷くウメさんの手を取って、ゆっくりゆっくり亀の歩みで東屋まで中庭を突っ切っていった。
今日は曇天で気温低め、日差しも弱くてウメさんの老体には負担がかかりにくいとみた。
「涼しくなってきましたね」
僕の問いかけに無言のウメさんは、恐らく何も考えていないだろう。
尖った小ぶりの鼻先が、ユノによく似ていると思った。
僕は目をつむって、そよぐ風に額を晒した。
「ユノはいい旦那か?」
「はい?」
「いい旦那やってるか?」
「そりゃあ、もちろん
くっくっくっくっ...」
肩を揺らして笑い出した僕に、ウメさんは「幸せそうでばあちゃんも幸せだよ」と言った。
「で、腹が減ったのだが?」
「もうすぐ昼ごはんですよ~」
ユノのことをムコだとか、僕をヨメだとか、ウメさんを混乱させた犯人は僕だ。
入所者の人たちには、努めてやさし~い声音で接するようにしているし、女言葉は使っていなくても、どこか女性的な雰囲気は漏れてしまっていると思う。
自分で言うのもなんだけど、僕は童顔で可愛い顔立ちをしているし、髪を縛っていることもあって、「男のくせに」と嘆かれることも多い。
昔の人だから仕方がないけれど、嫌悪感むき出しの人もいるにはいる。
ユノの偏見は彼らとは性質が違っていて、彼のものは純粋な好奇心からくる疑問や感想がそのままぽろっと出ただけのものだ。
偏見からくる嫌悪感は無いようで、僕から回答を得られると、すとんとストレートに受け取ってくれる。
気持ち悪いと思えば、オブラートに包まず「気持ち悪い」とはっきり答えるユノに、初対面の頃はムカついた。
入所初日に、ウメさんから「あんた、女か?」とストレートに訊ねられた。
いつもなら、「男です」と答えるのだけど、ウメさん相手には「さあ...どちらでしょう?」と質問をし返したら、
「わしにはあんたが男か女か、別にどっちでも構わないわ」と、さらりとかわされた。
「年をとると、男か女か見分けがつかなくなるから、一緒のことだ。
...で、腹が減ったんだが?」
この時「このばあさん、好きだな」と思った。
「ご飯はさっき食べたばかりですよ~」と言いながら、こういう時のために避けておいた夕食のヨーグルトを与えたのだった。
ユノ家族から提出された問診票には、ウメさんの基本データが事細かに記載されていて、介護の参考になった。
週に1、2度のペースで必ず、孫であるユノが訪れる。
大ボケをかますウメさんに対し、ユノは「はいはい」と上手く受け流していた。
貰ったお金を、さりげなくウメさんの財布に戻している光景を何度か見かけた。
「ユノっていい子なんだな」と、こういう細かいところからも、彼の育ちの良さが垣間見えた。
クリーンさの面で僕とユノとの間で、大差があることに僕は哀しくなった。
ふしだらだった過去を自虐ネタとして持ち出してきたけれど、徐々にそれが辛くなってきた。
ユノの隣に立つに相応しい男になりたいと思った。
その矢先に、昨夜の出来事が起きたのだ。
昨夜の自分を思い返した。
昨夜の僕はよく頑張った。
今日は仕事帰りにユノと会うことになっている。
もうひと踏ん張り頑張らないといけない。
ブブブとポケットのスマホが震えた。
(ユノからかな?)
ポケットの隙間から覗きこみ、ディスプレイに表示された名前を確認した。
「ちっ」
束ねていたゴムを解き、長く伸びた前髪をかき上げ、再び縛り直した。
短く切ってしまおう、黒髪に戻してしまおう。
ふり返ってみよう。
目の前に立つ初恋の男への恨み言は沢山あるはずだった。
けれども、その時、何も出てこなかったのだ。
「僕の初恋を返せ!」とか「こんな僕になってしまったのはお前のせいだ!」とか。
彼と別れて以降、僕はトラウマを抱えた男がとりがちな生き方をしてきた。
ユノの前では、易々と消せないトラウマを抱えた元遊び人のように振舞っている。
それから、気安く身体を許すことに全く抵抗がない代わりに、心は決して許さない人間だったのが、ユノならば心を許しかけている。
...と、ユノに思わせている。
(その通りに捉えたユノは、僕に優しくしてくれ、下手なことを口にしないよう気を遣ってくれている)
ところが、そのトラウマの源を前にしても、出てくるべき台詞が無いことに気付いた瞬間、「実はトラウマでも何でもないのでは?」と分かってしまったのだ。
フラれた腹いせに復讐したやろうなんて、これまで思いつきもしなかった。
はっきり言ってしまおう。
僕の初恋は身体だけの恋愛だった。
つまり、彼のことを愛していなかったのだ。
彼を追いかけた挙句、玄関ドアの前で締め出しを食らった時点で僕らの関係はジエンドを迎えた。
失恋初日に別の男に抱かれるという暴挙に出られたのは、心の傷を誤魔化すためではなく、身体が寂しかっただけのことだった。
僕って単純。
僕ってタフ。
だって、誰かと深いかかわり合いを持つのは、この男が初めてだったのだから、この空虚感が失恋だと錯覚してしまってもおかしくない。
初恋とは、10代まで経験するものだという常識にとらわれていたこともある。
彼に仕込まれた技と持ち前のルックスのおかげで、遊び相手には不自由しなかった。
適当な付き合いをしていたワケが、関係を持ち続けた末の修羅場を避けたくて、早々ととんずらしていただけだったことだ。
本気の恋愛が怖かったのではなく、ユノ曰く『運命の男』に出会っていなかっただけだったのだ。
身体は満たされても、心は満たされていないのだから、空虚な思いをずっと抱えてきて当然だ。
ユノから「チャンミンは恋を知らないだろ」と言われたことがあり、ムッとした覚えがあるけれど、その通りだった。
僕の今カレユノは、正真正銘、僕の初恋の君なのだ。
僕はトラウマがあった故の遊び人でなくて、単なるH大好き男に過ぎなかったと知ってしまったことに、落ち込んでしまった。
ユノにはさんざん気を遣わせてしまっているから、誤解を解かなければならない。
僕には深刻な過去などないし、人一倍快楽に弱い男に過ぎない。
ユノがチェリーだったのは、心の繋がりを大事にするあまり、身体同士の繋がりに慎重になっていたからだ。
そして、僕はその逆だ。
似た者同士じゃないか。
僕は、腰を抱く男の手を払い除けた。
「キモイから離して」
「怒っているのか?
あの時は悪かった...」
「『悪かった』って何のこと?」
彼は「あの時はそうするしかなかったんだ」とかなんとか謝りながら、恨み言を吐く僕を後ろから犯すつもりでいたのではないだろうか。
彼のことを引きずってもいないし、抱かれたいとも露ほども思わない。
予想外の僕の反応に、彼はあっけにとられているようだった。
「まだ禿げてなくてよかったじゃん」
男はさっと、額に手をやった。
「あははは。
元気そうでよかったよ。
じゃあね」
僕はひらひらと手を振って男をあしらい、カウンターへ酒を買いに行った。
僕の背中には、彼からの物欲しげな視線をビシバシ注がれていた。
(つづく)
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