チャンミンは黒髪ロングの男を追っていた。
場所は魚市場で、コンクリート床は水浸しだった。
黒髪の男を捕まえたいのに、もう少しのタイミングでチャンミンは巨大なネズミ捕り餅に捕まってしまうのだ。
魚市場は全長どれだけあるのやら、走っても走っても端までたどり着けない。
気づけば並走している者がいて、その人物がライターのエムだった。
黒髪の男はいつの間にかいなくなっており、それでもチャンミンは走り続けていた。
マグロの競り会場にベッドが置かれており、その上に自分が眠っていた。
チャンミンはここで迷う...自分の名前チャンミンと呼んだらいいのか、それとももっと別な名前か。
ところが、その名前が出てこない。
分かっているのに、喉の奥で詰まっていて出てこない。
苦しい...と喉をかきむしったところ、チャンミンは溺れかけていた。
何かが足首を捕らえていた。
その人物がリアだったことに、チャンミンは「なるほど」と納得していて...。
夢と言うのは辻褄が合わない不可解なシーンの連続だ。
・
(い、息が...できない!)
息苦しさにチャンミンは目を覚ました。
手を振って、呼吸を妨げていたものを払いのけようとした。
パチン、と当たった感触から、それが人の手だと分かった。
「!!」
「おはようございます」
チャンミンの真上から彼を見下ろすのは...この頭の形、両耳がぴょんと飛び出たシルエットは...民だった。
蛍光灯の灯りは、民の頭で遮られている。
「...おはよ」
チャンミンを起こすため、民は彼の鼻と口を塞いでいたのだった。
「起きましょう」
昨夜は民の部屋にお泊りしたチャンミン。
出社の用意をするには一度、家に帰らないといけない。
呑気に寝ていられないのだ。
(ここは...?)
飛び起きたチャンミンは室内を見回した。
腕と胸元をさすってみたり、布団をめくって中をのぞいてみたりした。
「ご安心ください。
昨夜のチャンミンさんはパンツを脱いでいません」
「パンツ!?」
民の台詞の意味を、チャンミンの寝起きの頭では即座に理解できなかった。
「ここはチャンミンさんのお家じゃないですよ。
私の家です」
「あ...!」
昨夜の一連の出来事を思い出した途端、恥ずかしさが襲ってくる。
「おはよ...」
布団から出られずにいるチャンミンに、民は訳知り顔で「ふふん」と鼻で笑った。
「男の人は大変ですね。
今朝に始まった話じゃないでしょう?
チャンミンさんちにお世話になった2日目に、見せてくれたでしょう?」
「...見せてないし」
チャンミンは立てた片膝に額をつけて、深いため息をついた。
あけすけに指摘する時もあれば、言葉をどもらせ真っ赤に頬を染める時もあったりして、そのボーダーがどこなのか、チャンミンには分からないのだった。
冬の夜明けは遅い。
カーテンの向こうはまだ暗く、窓ガラスが白く結露していた。
少なくとも30分以上前には起床していた証拠に、室内はストーブで十分暖かかった。
美味しそうな匂いが、ローテーブルの上から漂ってくる。
「朝ご飯を作りましたので、食べてください。
下手くそで申し訳ありません。
どうやら私は、料理の才能がからっきしのようです」
オムレツの形に整えられたスクランブルエッグに、懐かしさを覚えたチャンミンだった。
(民ちゃんが寝入ってしまってから3時間も経っていない。
僕の為に早起きしたんだ)
民に弱いチャンミンだ、彼女の健気さに感動がこみあげてくる。
チャンミンがようやく布団から出られる状態になった頃、
「インスタントコーヒーですけど...」と、民は申し訳なさそうに湯気のたつマグカップをチャンミンに手渡した。
「謝らないで。
インスタントコーヒー、僕は好きだよ」
「チャンミンさんは優しいですね」
「そ、そうかな?」
「はい。
チャンミンさんは正直者です」
「正直?」
チャンミンは口に運びかけたフォークを止め、「どこが正直者なんだろう?」と考えを巡らした。
「チャンミンさんは喜怒哀楽が分かりやすいです。
あわてんぼうでヤキモチ妬きですよね?
怒りっぽいし...」
「う~ん...そう...だね」
民の指摘通り、彼女を前にしたチャンミンは子供っぽくなってしまうのだ。
「はい。
正直であることは...」
と言いかけたまま、民の視線はチャンミンの向こうに行ってしまっている。
(何を言い出すんだろう?)
チャンミンは民の言葉をワクワクと待った。
(つづく)