「チャンミンのことを気に入っているって言ったでしょ?」
額の上に手をかざしてひさしを作ったキキは、僕の隣にしゃがんだ。
「チャンミンの顔も身体も声も匂いも、全部好きよ。
特に、あなたが喘ぐ声が好き。
あなたのペニスが好き。
それじゃ駄目かしら?」
「セフレってことか?」
「どうしてそんな発想になるのかな。
好きじゃなければ、あなたのを舐めたりしないし、挿れさせない。
私の気持ちは伝わっていなかったのかな?」
そういうことか。
キキは僕の顔と身体を気に入って、それを恋だと勘違いをしているのかもしれない。
肉体の愛。
互いの身体に舌を這わせ、指をなぞらせ、性器を接触させる行為そのものを、彼女は愛と思い込んでいる。
僕はとっくの前に、彼女に夢中になっているというのに。
キキの身体を求めてしまうのは、股間を熱くさせてしまうのは、肉体の繋がりこそがキキの信じる愛なんだということを、僕は察していたのだろう。
僕の身体に触れることが、イコール、僕への愛情。
キキに触れられて漏らす恍惚の喘ぎが、イコール、キキへの愛のささやき。
身体の繋がりなしに僕らの関係は成立しないのか。
生まれてはじめての、脳みそまで痺れてしまうほどの愉楽を知った。
僕も僕だけど、キキもキキだ。
今さら、心同士の繋がりを育てていくことは可能なのだろうか?
「僕は好きな人とヤリたいよ」
と、キキの手が伸びて僕が制する隙もなく、デニムパンツのボタンが外された。
「やめろ!」
続けてファスナーが下ろされ、下着から萎えた僕のものが引っ張り出された。
「やめ...ろ!」
キキは僕の股間に顔を伏せ、柔く小さくしぼんだ僕のものを口に頬張った。
「ひぃっ...」
キキの肩を押して抵抗したけど、それは形ばかりのものに過ぎない。
口で愛撫されてしまったら...もう...僕は。
「ああぁ」
敏感に反応してしまう、自身の浅ましさときたら...。
キキの口の中で、あっという間に勃起する。
亀頭を咥えながら、根元からカリの部分まで、ゆるく握った手でしごかれた。
最初は機械的なリズムで、ゆっくりと上下にしごかれる。
カリのくぼみをちろちろと舐めまわされ、唇でひっかけられた。
「あっ...」
裏筋が吸い上げられながら、小刻みに舐められる。
快楽の泥沼の底に沈んでいく。
僕は黄金色の沼に沈んだままだ。
恍惚の沼の底に横たわって、光きらめく水面を見上げていた。
黄金色の蜜がとろとろと揺らめいている。
綺麗だった。
僕はもう浮上できない。
「ひっ...」
たっぷりの唾液でぬるぬるになって、キキの口内で舌が踊って、僕は天を仰いで恍惚の世界を漂う。
「あぁ...っ」
深く咥えこまれ、喉奥で圧迫された。
「ひっ」
かすれた悲鳴が漏れた。
きつく握られていた根元が解放された。
緩く早く、柔くきつく刺激されて、僕は達する。
キキの喉が動いて、放出された僕の濃厚な吐精がごくりと飲み込まれた。
これがキキの好意の証か。
顔を起こしたキキは、唾液でつややかに濡れた唇を手の甲で拭った。
「わかった?」
サングラスをかけていない、明るい日差しの下のキキの顔。
眉毛の上でパツンと切りそろえた前髪が、川風にさらわれおでこが露わになった。
「眩しい。
返して」
かけたままだったサングラスを、僕は外した。
僕の瞳は、色彩と光、現実世界を取り戻した。
「キキ...」
順光にさらされたキキの紺碧色の瞳と、初めて真正面から目が合った。
目を何度こすっても、視界は赤く染まったままだった。
ぬぐった手の甲が真っ赤だった。
これは、血...?
耳がおかしくなったみたいだ。
無音世界だった。
ダークグレーのマットに四つん這いになっていた。
膝が痛くて体重移動させると、ぐらりと地面がかしいだ。
黒く濡れたマットに、ワインレッドのバッグが転がっていた。
母の誕生日に父が贈った、おろしたてのバッグだ。
助手席のシートの真下のそれを引き寄せた。
シートによじのぼったら、ガクンと傾いた。
ヘッドレストにしがみついて、窓を力いっぱい叩いたのに、誰も来てくれない。
僕は閉じ込められた。
パニックに陥ってもおかしくないのに、僕は叫び声ひとつあげなかった。
鈍い音とともに、ガラスのかけらが僕に降り注ぐ。
シートに散らばる透明で四角い粒が、おはじきみたいで綺麗だった。
二の腕を力強くつかまれたかと思うと、窓枠の外へ引きずり出された。
セミの鳴き声が、わんわんと五月蠅い。
何者かに抱きかかえられた僕は、火傷しそうに熱いアスファルトの上に下ろされた。
その人は膝を折って、僕の目線に合わせた。
お人形さんかと思った。
蝋のように青白いおでこをしていた。
目の縁だけが赤く色づいている。
赤くつややかに濡れた唇を、手の甲で拭った。
そして、人形のような青い目と真正面から目が合った。
「僕は...」
喉にひっかかって、思うように言葉が出てこない。
「...君を知っている」
キキは僕の手の中のサングラスを取り戻すと、すかさずかける。
キキの目元が、再びサングラスに覆われた。
「君に会っている」
僕の口の中が渇いていた。
「事故のとき」
セミの音も清流の音も、遠のいた。
「僕を...助けてくれて」
小学生だった僕が見た彼女と、24歳になった僕の隣に座るキキが、同じだった。
「僕は...子供だった」
しわひとつない顔。
「君は...」
今の僕と同い年にしか見えない。
「いくつなんだ?」
「女性に年齢はきくもんじゃないよ」
僕はキキに助けられた。
耳をつんざく轟音に驚いて振り返ると、僕を閉じ込めていた車が消えていた。
アスファルトにぺたりと座り込んだ僕の、手の平をじんじんと焼くアスファルトの熱さを、今も覚えている。
「若作りをしているだけさ」
僕の髪をくしゃっと撫でたキキは、立ち上がった。
「帰ろうか」
キキは僕を残して、すたすたと歩き去った。
「置いていかれたくないんでしょう?」
梯子の途中で、キキが大声で僕を呼んだ。
キキは僕の恩人だった。
墜落間際のつぶれた車から、僕を助け出してくれた。
母のバッグを抱きしめた僕を、カワヤナギの陰に寝かせた。
近づく悲鳴や怒号、サイレンの音に、キキは立ち去った。
しばらくの間、僕は無言だった。
キキも前方を睨みつけていて、助手席の僕をちらとも視線を向けなかった。
「僕を覚えていた?」
「あの河原で、チャンミンの話をきいて思い出した。
あの時は、旅の途中でたまたま通りかかった」
「そうだったんだ」
「あの時の、可愛い坊やだったんだって。
大きくすくすく育ったんだね」
あの時のキキは、若くて綺麗なお姉さんだった。
今のキキも若い。
エアコンがききすぎていて、鳥肌のたった二の腕をさすっていたら、「寒い?」とキキは風量を弱めた。
気にかかっていた一件を思い出した。
「変なことを聞くけど...僕って、怪我してたっけ?」
顔を前方に向けたまま、サングラス越しのキキの目がこちらを向く。
「怪我って、どこ?」
「腕なんだ。
血が出ていなかった?」
傷一つない、日に灼けた二の腕を撫ぜながらキキに尋ねる。
「いいえ。
怪我だなんて、大丈夫なの?」
初耳のようなキキの様子に、僕の頭に困惑の渦が巻いた。
(嘘だろ?
僕の気のせいだったのか?)
鋭いトタン板が切り裂いた瞬間の激痛を、覚えているのに。
血がにじむ傷口をキキに晒して、下半身が重く痺れた感覚を覚えているのに。
訳がわからない。
吐き気がした。
額に手を当てて考え込む僕の二の腕に、キキの指先が触れた。
「気分が悪いの?
家まで送ろうか?」
僕は首を横に振った。
冷たい肌を持った、年齢不詳のキキの側を離れたくなかった。
僕をばあちゃんちの前に降ろしたら、キキのX5はうんと遠くまで走り去って、二度と戻ってこないのではという恐怖があった。
2日前、キキと初めて食事をしたファミリーレストランの前を通り過ぎた。
「河原で話していたことの続き」
キキが淡々と話し始めた。
「チャンミンの言わんとすることは、なんとなく分かっているよ」
膝にのった僕のこぶしにキキの冷たい手がのった。
「チャンミン、『好き』だなんて言葉を簡単に口にするものじゃないよ。
まだ私の身体のことを、知らないでしょ。
あなたったら、ただ挿れて出すだけじゃないの」
羞恥で僕の身体が熱くなった。
「チャンミンは経験がないから、仕方がないよね。
だから、
私の身体をすみずみまで見て、触って、感じる前に、『好きだ』なんて早すぎるんじゃないかしら?」
キキの言う通りだ。
僕のセックスは、挿れて出すだけだ。
自分が気持ちよくなることしか、考えていなかった。
恥ずかしい。
「好きだ」とささやくだけでは、キキには不十分だった。
キキが信じる愛は、互いの身体を繋げること。
「キキ!
連れて行って!
キキの家へ。
キキを抱きたい」
キキへ「好き」を伝えるために、僕はキキの身体を愛撫する。
「キキを愛したいんだ」
(つづく)
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