僕は跳ね起きた。
僕は暗闇にすっぽりと包まれていて、天井近くの窓から注ぐ光が、太陽から月に変わっていた。
肌に触れたら、衣服をなにひとつ身に着けていない。
僕は眠っていたらしかった。
「!」
隣で横になっていたはずのキキがいない。
思い出した。
キキとのセックスに夢中になってしまい、2回果てた僕は疲労困憊になって、気を失うかのように眠ってしまったんだ。
キキがどこかへ行ってしまわないようにと、キキを後ろ抱きにしていたんだった。
キキがいない。
すっと血の気が引くのが分かった。
「キキっ!」
マットレスの下に投げ捨てた洋服を手探りで拾い集める。
闇雲に伸ばした手が何かに当たって倒れ、地面に転がり落ちてからんと音を立てた。
昼間、最初に脱いだTシャツは見つからなかった。
山中の気候は、日中は暑くても夜間は気温が下がって涼しい
全身にかいた汗が冷えて、寒気が襲う。
キキがいないことにパニックになった僕は、暑いとか寒いとかどうでもよかった。
「キキ!」
僕の声が、廃工場の高い天井に反響する。
僕はそろそろと足を交互に出し両腕を突き出して、入り口シャッターを目指す。
と、数歩目で何かにつまづいて、つんのめった。
前方に倒れ、とっさにかばった片腕がかっと熱くなる。
つまずいてしまったものの正体を手探りで確認すると、フィルムに包まれたサンドイッチがいくつかと、水滴がついたペットボトルだった。
買ってきたばかりだ、ペットボトルは冷たい。
キキは近くにいる。
はやる気持ちをおさえて、注意深く前進する。
シャッターは僕の腰のあたりまで開いており、月光の淡い光がぼんやりと地面を照らしていた。
シャッターをくぐった僕は、大きく深呼吸をして、虫とカエルの鳴き声に包まれた
「キキ!」
足元は真っ黒な闇に沈んでいるが、月光のおかげで周囲の景色をだいたいは判別できる。
建物に沿って裏手へ回る。
キキのX5が停められていて、僕の心は軽くなった。
ボンネットに手を当てると、温かい。
キキはどこかへ出かけて行って、戻ってきたばかりのようだ。
「キキ!」
メガホンのように両手で囲って、大声でキキの名前を叫んだ。
谷川に面した工場裏に動くものがあり、キキの姿だと分かった。
「キキ!」
「チャンミン...」
「キキ...」
蔓延るつる草に足元をとられるのに構わず、僕はキキの元まで駆け寄った。
キキの白い顔が暗闇の中にぼうっと浮かんでいる。
「心配したんだ」
「サンドイッチを買ってきた。
チャンミン、食べておいで」
「......」
「そっか...。
暗いね。
車のキーを渡すから、エンジンをかけて。
車の中で食べておいで」
「腹は減っていない」
「チャンミン、怖い顔をしないで。
水浴びしてくるから、少しの間待っていてくれる?」
「水浴び?
こんな時間に?」
確かにキキはバスタオルのようなものを抱えていた。
「ええ。
おかしいことかしら?」
「真っ暗だよ?」
「ここにはお風呂がないの。
知ってるでしょ?
中で待ってて。
すぐに戻るから」
谷川の方へ歩き出したキキの手首を、僕はとっさに捕らえた。
捕らえた途端にぬるりと滑って、僕の手の中からキキの手首が引き抜かれた。
僕の手を濡らしたものの正体を確かめたくても、暗くて見えない。
「仕方がないわね」
鼻先にかざしていた僕の手が、キキの手と繋がれた。
「チャンミンも一緒にいかが?」
僕の手を引いたキキは、草をかきわけ谷川までの急な坂を迷いなく下りていく。
視力を奪われると、匂いと音に敏感になる。
生臭い匂いが漂うのは、夜の草木が放つ呼吸のせいか、辺り一帯に潜む大量のカエルのせいか。
「ここに足をかけて...そう、ゆっくり」
足元がおぼつかない僕を、キキが誘導してくれる。
「棘があるから」と。僕に当たりそうになった小枝を押さえてくれた。
岩のひとつを飛び降りて、スニーカーの底が砂地に沈んだ時、よろけた僕をキキは力強い腕で僕を支えた。
川の流れが立てるせせらぎの音が、間近から聞こえる。
闇に塗りつぶされた茂みの中で、カエルが鳴いている。
月の光に照らされた川面がキラキラと揺れていた。
「冷たくて、気持ちがいいわよ」
僕の手を離したキキは、手早く服を脱ぐとザブザブと川へ入っていく。
「チャンミンもいらっしゃい」
「う、うん」
スニーカーを脱いで、どうしようか迷ったけれどデニムパンツのまま、川の流れに足先をつけた。
冷たくて足を引っ込めたけれど、川べりでキキを待っていたくなかった。
ごろごろ突き出た川石につまづかないよう、慎重に歩を進めていると、見かねたキキが引き返してきた。
「あと2メートルで一気に深くなるから、気を付けて」
僕の腰に腕を回して誘導してくれる。
真っ暗闇で、どうしてキキは迷いなく動けるんだ?
疑問が浮かんだ。
キキが言ったように、数歩目で僕は胸のあたりまで水に浸かった。
ずきっと右ひじに痛みが走って、転んだ際に擦りむいていたことを思い出した。
穏やかな流れに身を浸して立ち尽くす僕をよそに、キキはすいすいと僕の周りを泳いでいる。
ごつごつとした岩の間をしぶきをあげる急な流れから、取り残されたかのように流れが凪いだ箇所があって、小さなプールのようになっている。
そこに僕らはいた。
映画のシーンで観たことがあったかもしれない。
人里離れた川で、無人島だったっけ?
無人の夜のプールだったっけ?
恋人同士が裸で泳いでいるんだ。
そう、今みたいに。
ちゃぷちゃぷと、水が肌をたたく音がぎょっとするほど近くに聞こえる。
キキを見失って、やみくもに両手を振り回した。
指先がキキの身体の一部に触れて、僕は迷わず両腕で囲い込む。
捕まえた。
「あははは」とキキは笑い声をあげた。
キキの冷えた身体を抱きしめる。
きゅっと引き締まっていて、濡れてつるつるした肌が人形のようだと思った。
しかし、僕の手のひらを押し返す弾力からは、生命を感じる。
キキの腰を高く抱え上げると、両脚を僕の腰に巻き付けさせた。
キキの顔を包んで、唇を割る。
そうなんだよ。
口の中は温かいんだよ。
喉の奥まで届くまで舌を伸ばして、窒息させんばかりにキキの口内を僕の舌で満たす。
「ふ...んん...」
僕らは互いに粘膜を貪り合う。
「はあ...」
闇に包まれて視界を奪われ、感じるのはキキと繋がる唇の感触のみ。
感覚が研ぎ澄まされている。
「あっ...」
股間に手が押し当てられて、驚いた僕は腰を引く。
「駄目だっ...無理だ...」
今日一日で、4度も達していた僕にはもう、勃つ余力がない。
「そうでしょうね。
こういうのはもう、止めにしましょう。
あなたは私に、ついてこられない」
僕の耳元に顔を寄せて、キキはゆっくりと発音した。
「もう終わりにしましょう」
「え...」
キキの言葉が理解できない。
「終わりにしましょう」
「どういう...意味...?」
「思わせぶりなことをしてきて、ごめんなさい。
チャンミンは、私にはついてこられない。
私もあなたについていけない」
「急に...なんだよ」
「こんなタイミングに、ごめんなさいね」
「別れるってことか?」
「別れるも何も...付き合ってもいなかったでしょう?」
付き合って、いない...?
この数日間の僕らは何だったんだ?
「そんな...。
僕のことを気に入ったって、そう言ってたじゃないか!?」
「チャンミンの顔も身体も、気に入っているのは本当よ。
チャンミンと抱き合えて、とてもよかった。
あなたも楽しんだでしょう?」
「...うん...」
その通りだ。
僕はキキに触れられ、目も眩むほどの快楽を知り、酔いしれていた。
ずぶずぶとキキの中に侵入し、溺れて、そのまま僕は恍惚の沼の底に沈んだままだ。
「確かに、楽しんだよ。
でも、僕はその場限りなんて嫌なんだ。
僕は、これから先もキキに会っていたい」
「『好き』という言葉をもらえて...嬉しかったわ。
...でも、よく考えてみたの。
私はあなたの気持ちに応えてあげられない」
「...そんなっ!
応えてくれなくても...いいから。
キキのセフレでもいいから!
お願いだ、そばにいさせて...」
「チャンミン...。
そういうところに、私はついていけなくなったの」
「嫌だ!」
キキの肩をつかんで、キキを前後に揺さぶった。
「チャンミン、私のことは諦めて」
説き伏せるように低くてしんとした声音で、キキは僕に言った。
キキが僕に別れを告げようとしている。
「嫌だ...
僕は君から離れられない」
「チャンミン...」
キキの顔が全然見えなかったけど、激しく首を横に振る僕を、哀しそうな、憐れむような表情で見ているのだろう。
「僕は納得なんかしないから!
僕を捕まえたのはキキ、君の方じゃないか!?
僕が美味しそうだからって。
僕を無理やり引っ張ってきておいて、今さら忘れろって...
都合がよすぎるよ!」
「チャンミン...」
「どうせなら、僕を全部食べてしまえよ!
僕が美味しそうだったんだろう?
食べてしまいたいって言ってただろう?
僕はキキのことが好きになったんだ」
ここまでの激情を誰かにぶつけたことは初めてだった。
キキを失ったら、死んでしまうとまで思った。
ここまで切迫した気持ちにかられる理由が、僕にも分からない。
パニックだった。
今のキキからは、あの甘い香りはしない。
「それじゃあ」
キキの小さな両手が、僕の頬を包んだ。
「チャンミンの方から、離れていってもらうしかないわね」
「んっ」
キキに唇を塞がれ、僕らは水中に沈んだ。
カエルの鳴き声が消え、ごーっという音に包まれた。
「んっ...!」
僕の口からこぼれる泡がごぼごぼと音を立てる。
僕の両頬は鋼のようなキキの手に挟み込まれている。
息が苦しい。
首を激しく振ってキキの両手から逃れて、水面に顔を出す。
僕の肺は大量の空気を必要としていた。
肩を大きく上下させて、息を吸って吐いた。
呼吸を整えながら、周囲を見回していた。
「キキ...?」
キキがいない。
月明かりに照らされた川面が白く揺らめき、ひたひたと僕の胸を叩く音だけが妙に大きく感じられる。
「キキ?」
川岸に目をこらしても、動くものはいない。
両手を振り回しても、手に触れるものは何もない。
「キキ!」
潜ってみたけれど、もっと暗くて何も見えない。
酸素を求めて川面へ顔を出し、再び潜る。
何度も繰り返した。
ここには、いないのか?
石にすねや爪先を何度もぶつけながら、川岸へ戻ってみたが、いない。
あそこに沈んでいるのか?
パシャパシャと水を蹴散らし、元の場所へ向かった。
水深が一気に深くなって、胸の高さまで沈んだとき、膝にとんと、柔らかいものがぶつかった。
「キキ!」
水中に浮かぶ身体を引きずり上げた。
「キキ!」
氷のように冷たい頬を叩いた。
キキの口元に耳を寄せた。
呼吸の気配が何もしない。
沈んでいたのは、どれくらいの時間だった?
5分か?
10分?
もっとか?
耳の下に指をあてる。
脈動が一切感じられない。
「嘘だろ...!」
早く水から出て、心肺蘇生を施さないと。
キキを肩に担ぎあげようとしたとき、僕の二の腕がギュッとつかまれた。
「!」
月明かりがキキの白い顔を照らして、キキの瞳が赤く光った。
「どう?
恐ろしいでしょ?」
僕は気を失った。
(つづく)
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