~冬~
チャンミンの好きなところ。
風邪気味の時の鼻ちょうちん。
熟睡している時の白目。
威嚇の時の「くるるる」と鳴らす喉の音。
駆けっこが好きで、食い意地がはっている。
我慢強く、強靭な肉体の持ち主だということ。
床まで鼻水を垂らして大泣きするところ。
私のご機嫌とりがうまいところ。
悪戯を見咎められた時、悪戯をしたのはチャンミン自身なのに、きょろきょろと周囲を見回すのだ。
それから、頭も肩も落とし、白いボタン型の眉根を持ち上げる。
一目散にテーブルの下に隠れる時もあれば、近場にいい具合の隠れ場所がない時は、そろりと私に近づいてくる。
「まあまあ、お怒りなのはごもっともですが」と言わんばかりに、私の握りこぶしにとん、と前足を添える。
そのひやりとした肉球にもっと触れていたくて、私はそっぽを向いて機嫌を損ねたふりをし続ける。
反対にチャンミンの機嫌を損ねてしまった日、名前を呼んでも彼は聞こえていないふりをする。
私にお尻を向けてぺたりと床に伏せ、聞こえている証拠に彼の耳はぴくぴくと震えている。
チャンミンは強情っぱり屋なので、仲違いは夜まで引きずる日もある。
ユノさんにやたら甘え、彼の寝室についていってしまうのだ。
その後の予想がついていた私とユノさんは顔を見合わせ、苦笑する。
早くて1時間、ぎりぎり頑張って午前3時が限界だ。
寝室のドアは開けたままにしておいた。
マットレスが軋み、私の腕の下に丸々としたぬくもりがねじ込まれる。
私の意識は半分眠ったままで、チャンミンのお腹があるとおぼしき辺りを掻いてやる。
チャンミンの鼻息が、私の顎を湿らした。
この時の鼻息は憤りのものではなく、チャンミンが満ち足りた時に漏らす、低い響きをもったものだ。
性別は雄。
生後13カ月。
鳴き声は聞いたことがない。
団扇みたいに大きな耳。
子豚みたいに大きな鼻。
ロリスみたいに大きな目。
コビトカバみたいに丸く大きなお尻。
ダックスフンドみたいに短い四肢。
お尻の穴を隠すのがやっとの短い尻尾。
4色のまだら模様の毛皮。
前足は5本指、後ろ足は二股のひづめ。
世界の動物たちの寄せ集めみたいな、奇妙な生き物。
動物図鑑に載っていない、特別な生き物。
小さな喧嘩。
草原とトラック。
両耳をたなびかせ、どこまでもどこまでも追いかけてきた。
あの日の半べそかいた顔。
小さな冒険。
頬かむりをして、リュックサックに大人しくおさまっていた。
彼の命がすっしりと、肩に食い込んだ。
小さな才能。
ユノさんの革靴を綺麗に分解してしまった。
13カ月前。
私の手首をふにふにと、その小さな手で揉んでいた。
チュッチュチュッチュと一心にミルクを飲んでいた。
とても愛しい存在だった。
「チャンミン!」
私は飛び起きた。
胸に手を当てると、心臓がドクドクと打っている。
シーツに手を滑らせ、傍らを探った。
そうしなくても私には分かっていた。
チャンミンはここにはいない。
猛烈な寂しさに襲われるどころか、すとんと腑に落ちた清々しさがあった。
「チャンミン!」
この声は...ユノさんだ。
鋭いノックの後、ユノさんが部屋に入ってきた。
「...チャンミン」
ユノさんは全て、分かっているようだった。
私を力いっぱい抱きしめた。
「そろそろチャンミンって呼んでもいいか?」と尋ねた。
私は何度も頷いて、「はい」と応えた。
私の名前はチャンミン。
無くしかけていた名前を、やっとで取り戻すことができた。
・
「...アルパカの話は?」
朝食のテーブルでユノさんに尋ねた。
「適当にでっちあげた嘘だ」
「...ひどいよ、ユノさん」
「ごめんな」
「...『チャンミン』はいたの?
私だけの空想?」
「まさか!」
ユノさんは席を立つと、何かを手にして戻ってきた。
それは、取り外した洗面所の鏡だった。
「鏡を見てごらん」
2年ぶりに見る自分の顔だった。
自分の琥珀色の瞳を見つめていると、彼の瞳と心が溶け合った感覚を思い出す。
彼は確かに実体をもった生命体だった。
眉の上の傷跡を撫ぜた。
ユノさんが唯一の目撃者で証人だ。
そうでもないか...タミーも、その他の人間にも見られたんだから。
「...彼はどこから来たの?」
「仕事が終わって帰ろうとした時だ。
トラックの助手席にいた。
これは嘘じゃない、本当の話だよ」
「突然現れたの?」
「ああ。
最初は彼の正体は分からなかった。
助手席で震えて、俺を見上げる目でピンときた。
君と一緒にいる彼を見ているうちに、確信した」
「だから『チャンミン』だったんだ。
びっくりしたんだから」
「だって、その通りだろ?」
「...そうだけど...」
「彼は唯一無二の生き物だ。
図鑑に載っていなくて当然なんだよ」
「そっか...。
それにしても、不細工だったね」
「不細工だったかもしれないね。
...でも、愛おしかっただろう?」
「うん...可愛かった」
ユノさんは席を立ち、私の後ろでしゃがみ込むと、私と並んで鏡に顔を映した。
「どうして現れたんだろう...」
「君なら...チャンミンならその理由は分かるはずだよ」
笑顔になったユノさんと、鏡の中で目を合わせた。
鼻の奥がつん、とする。
・
私は胸に手を当てた。
大丈夫。
彼は私の中で息づいている。
彼は私自身で、私は彼自身だった。
彼にとって、私だけがママであり、親友であり...同士であった。
たった13年の人生で、彼と出逢えたことが奇跡だった。
私の心の中に、ここまで愛らしく、やんちゃで優しいものが存在していたなんて...彼と出逢うまで知らなかった。
彼を愛おしむごとに、縮こまった心が緩んでいった。
私自身気付いていなかった傷口を癒してくれた。
私の全てを肯定してくれた。
あの日、両親とともに腐敗したはずの...目にするのも耳にするのもおぞましい...名前と顔が帰ってきた。
「うっ...うーっ...うっ」
かれこれ30分以上も泣き続ける私に、ユノさんは慰めるどころか笑って言うのだ。
「チャンミンは男の子なのに泣き虫だなぁ」
「そうだよ、私は泣き虫なの」
同じような台詞を、彼も口にしていたことを思い出した。
ひっくひっくと嗚咽を漏らす私は気付くのだった。
彼はどこまでも無口な子だったなぁ、と。
・
「今夜は誕生日パーティなんだろ?
楽しみだなぁ」
ユノさんはお弁当の入ったバッグを肩に引っかけ、私の頭を撫ぜた。
「行ってらっしゃい。
今日こそお花を買って来てね」
「チャンミンが買いに行ったらどうかな?」
「......」
「チャンミンなら行けるよ」
「...分かった」
私はしぶしぶ頷いた。
ユノさんのトラックが雪原と空の境界線へと消えていく。
・
長靴を履いた私は、雪道を闊歩する。
街へ出ても古本屋とカフェ以外へ足を踏み入れたことのない私だった。
少しばかり勇気が必要だったけど、今の私なら多分...大丈夫。
私は胸に手を当てた。
大丈夫。
(つづく)