「チャンミンは...俺のこと、嫌いか?」
就寝前、パジャマに着替えようと、浴室に向かうチャンミンを呼び止めた。
「何ですか、藪から棒に?」
チャンミンはいつも難しい言葉を使う。
前はいちいち意味を尋ねていたけど、今じゃ面倒くさくなっちゃって、聞き流している。
ベッドの上で胡坐をかき、ひん曲がった口をした俺に、チャンミンは引き返してきた。
心配そうに眉尻を下げ、俺を覗き込むその目は丸く、優しい。
「俺の質問に答えてよ!」
チャンミンのニットを駄々っ子のように引っ張った。
「ユノ...何かあったのですか?」
俺の手の甲をすっぽりと覆うように、チャンミンの大きな手が重なった。
父さんと母さんの部屋の前で、立ち聞きしたことなんて言えるわけない。
俺の耳を飾るピアスを、軟派で軽薄だと母さんを責める父さん。
ユノは“女の子”なんだからピアスで飾らないと駄目なんだ、と答えた母さん。
めそめそとひ弱なのは、寄宿舎にやらず屋敷に閉じ込めておいた教育方針が間違っていたんだ、と母さんを責める父さん。
男系のあなたの家系のせいで、余分なものをくっ付けた子が生まれてしまったのだ、と父さんを責める母さん。
なぜ俺のことで、父さんと母さんがいがみ合っているのかは、子供の頭では理解ができない。
俺のことをよく言っていないことくらい、分かった。
ふんと鼻を鳴らしたチャンミンは、「おいで」と言って、膝を叩いた。
俺はチャンミンの膝にまたがって、チャンミンの胸にほっぺを押しつけた。
「ユノは大きな赤ちゃんですね」
いつもならムカつく言葉だったけど、その日の俺は悲しみに満ちていたから平気だった。
チャンミンに甘えたかった。
俺の背中をやさしく撫ぜてくれるチャンミン。
「僕はユノが大好きですよ」
チャンミンの低い声が彼の固い胸を通して、俺の頭蓋骨を直接震わせる。
「ホントに?」
とっくにそんなこと知っていたけど、わざと驚いてみせる。
「ホントです」
「俺のどこが好き?」
「そうですねぇ...。
ユノは綺麗な眼をしていますね」
「綺麗、って言われても、嬉しくないよ」
胸から俺を引き離し、チャンミンと俺はおでこ同士をくっつけあった。
上目遣いのチャンミンが間近に迫る。
透き通った琥珀色の、信じがたく美しい1対の瞳。
何度見ても、いつ見ても、チャンミンの目は綺麗だなぁと思った。
「あなたの目は漆黒で...艶のある黒、っていう意味ですよ...綺麗です」
「うん。
俺の目は黒い」
「それから...小さなお鼻も上品です。
ハンサムな大人になるでしょうね」
チャンミンの大きな指が、俺の鼻先にちょんと触れた。
「僕に負けないくらい、背が伸びるでしょうね」
「どうして分かるの?」
「ふふふ。
なぜかと言いますとね」
チャンミンの指が俺の腕に触れ、それから膝に触れた。
「この腕も脚も、すばしっこくて健やかです。
しなやかな筋肉も、背が伸びる証です」
「そう?」
チャンミンはいつも難しいことを言っている。
でも、褒められていることは分かったから、俺は満面の笑みだ。
「そうですよ。
あなたの素直な心も僕は大好きですよ」
「俺も、チャンミンが大好き!」
チャンミンの首にかじりついて、力いっぱい抱きしめた。
「ユノ。
あなたは本当に、優しい心の持ち主です。
優しい男は、カッコいいのですよ」
チャンミンのことが大好きだと、ずっとずっと思っていたけれど、はっきりと口に出したことは、この時が初めてだったかもしれない。
「ユノが大きくなったら、僕の出番はなくなりますね」
チャンミンのひと言に、ひやりとした。
「やだよ!
俺が大きくなっても、チャンミンは俺といるんだ!」
「今はお家で勉強していればいいですが、中学生になったら遠くの学校にいくんでしょう?
中学校にまで僕はついていけませんよ」
「チャンミンは留守番?」
チャンミンはおどけたように、肩をすくめた。
「どうでしょう。
ユノがいないのに、このお屋敷で僕だけがいるのも変でしょう?」
「ヤダヤダ!
中学校なんかいかない!」
「そういう訳にはいきませんよ。
お勉強をして賢くならないと」
「ここで勉強する!
チャンミンに勉強を教えてもらう!
チャンミンは賢いもん!」
「駄々っ子ですねぇ」
チャンミンを守れるように、俺は早く大きくなりたかった。
ところが、大きくなったら、俺の子守り役のチャンミンの出番はなくなってしまう。
どうすれば、チャンミンとずっと一緒にいられるようになるんだろう。
駄々をこねるだけでは、チャンミンを傍に置きたいという我が儘は通じないに違いない。
確固たる言い訳なり信念がなければ、あと数年も経たないうちにチャンミンを手放さなければならないことに、気付き始めた。
9歳の誕生日の1週間前のことだった。
父さんの言葉に俺は恐怖した。
「誕生日プレゼント、ユノは何が欲しい?」と訊かれた。
俺の意見をきくふりはするけど、実際には俺の要求なんてひとつも通らない。
一昨年は新型のゲーム機が欲しい、とねだった。
結果、俺に贈られたのは新型お守りロボットの「チャンミン」で、父さんのチョイスに感謝した。
何が欲しいのか俺は思いつかなくて、俯いた俺はふかふかの絨毯の上の靴の先に視線を落とす。
「わたくしは(両親の前ではそう言うよう決められている)...」
と、そこで口ごもってしまう。
「正直に言いなさい」
「あの...」
「自分が欲しいものも分からないのか?
情けないものだな」
俺を蔑む目で見る。
母さんのものとは違う種類の、俺を残念がる目だ。
「...じゃあ、新しいものにするか?」
「?」
父さんの言う「新しいもの」が何を指しているのか分からなくて、頭を傾げていた。
「アンドロイドも古くなって飽きただろう?
新しいものに交換しようか?
次は、同い年くらいのにするか?
それとも、女のアンドロイドにするか?」
「そんなっ...!」
俺はぞぅっとした。
両親が...特に父さんが...「要らない」と判断すれば、いつだってチャンミンはお払い箱になってしまうんだった。
「わたくしはアレが気に入っています。
代わりのものは要りません」
父さんの前ではいつも、口ごもってしまって俯いてばかりの俺だった。
ところがその時は、真っ直ぐ見据えて、はきはきと喋る俺の様子に、父さんはほうっと驚いた顔をしていた。
「わたくしは、アレがいいのです!」
俺は叫ぶように宣言した。
渾身のこの一言が、何年も後に俺を救うことになるとは、当時は露ほども想像できなかった。
(つづく)