みるみるうちに白茶けた地面が濃い水玉で埋め尽くされていき、巨木の下に駆け込んだ時には、土砂降りになっていた。
「濡れましたね~」
急な雨に降られて、俺もチャンミンも全身ずぶ濡れだった。
髪をかきあげて雨しずくを払い、水を含んだTシャツの裾を絞った。
頭痛はさっきより酷くなってきていて、ぶるっと震えがきた。
「タオルもないしなぁ、チャンミン?」
ずくずくに濡れてしまったTシャツの始末に困って、隣のチャンミンを見た。
「脱いで絞った方が早そうですよ」
そう言って、さっさと着ていたシャツを脱いでしまったチャンミンに、ぎょっとしてしまった。
脱いだシャツを絞って、水気を切っている。
チャンミンの裸なんてどうってことないはずなのに...同性同士なんだからドギマギすることなんてないのに。
母親にされてきたことや、叔父が繰り広げていた情事を目にしてきたせいで...それとも、生まれつきそうだったのか不明だけど、俺は女の人を見てもドギマギしない。
学校では女の人の裸の写真を見て、喜ぶ男子のフリをしていたけれど。
自分が一般的じゃない認識はあった。
俺よりも筋肉がしっかりついていて...日々の肉体労働のせいかな...半袖の跡がついた日に焼けた肌だとか、 盛り上がった肩だとかが、俺の眼に眩しく映る。
そう言えば、これまでまともに目にする機会は、案外なかった。
俺の手が止まっているのにチャンミンは気づいて、「ん?」とどうってことない風だった。
チャンミンはアンドロイドなのに、しかも彼が『製造された』という建物を見たばかりなのに、目の前にいる彼を一人の人間として意識してしまった。
生っぽく俺の眼に映っていた。
例えば、ドンホを前にした時のように。
いや...それより強い。
ドンホ相手の場合は、憧れに近い淡い恋心のままでいたいと、あれ以上彼に近づくことを止めてしまっていた。
7歳の時から一緒で、俺のカッコ悪いところも弱虫なところも全部丸ごと、肯定してくれたチャンミンだ。
チャンミンと築いてきた関係性が当たり前だと思って育ってきた。
屋敷を出て、学校という狭い世界であっても、俺にとってすべてが新鮮だった。
そして、そこで育まれる級友や教師たちとの交流を通して、チャンミンといる時に感じるほっと寛げる存在は当たり前じゃないことを知った。
級友たちの会話に登場する家族の話題、週末になると、お迎えに来る級友たちの父親や母親。
子供らしく甘えて我が儘を言って、たしなめられる時もあって、慰めてもらって、励ましてもらって...そういうものは大抵、家族から得られるものだということも知った。
俺の家は、どうやら一般的じゃないらしい。
自己判断だけど、俺は複雑にひねくれた風でもないから多分、チャンミンの存在が大きかったんだろうなぁ、って。
チャンミン以上のことをチャンミン以外の人物...例えばドンホに求めてしまいそうで。
それが得られなかった時、ドンホにがっかりしてしまうのが怖かった。
俺にとって、チャンミンが『家族』だったのかなぁ。
それなのに、チャンミンの肉体にドギマギしてしまう。
こんな変な気持ちを、チャンミン相手に持ったらいけないのに。
「ああっ!」
大声をあげてしまったのは、チャンミンが脱いだシャツで俺の顔と頭をごしごしと拭いたからだ。
「びしょ濡れですよ。
僕の服で申し訳ありませんが、我慢してください」
拭うシャツからチャンミンの体臭が香ってきて、ドギマギの上にドキドキが加わった。
アンドロイドのくせに、どうして人間みたいに汗をかいたり、鳥肌がたったりしているんだよ。
赤くなっているだろう顔を隠したくて、足元に視線を落としてチャンミンにされるがままになっていた。
「ユノも脱いで下さい。
身体が冷えます」
と、俺のTシャツはチャンミンに強引に脱がされてしまった。
木陰とはいえここは昼間の屋外で明るいし、水泳のためでもなく半身になったことが恥ずかしくて、自分の身体を抱きしめた。
チャンミンの前で洋服を脱いだ格好を見せるのが恥ずかしかった。
これだけ近くに一緒にいても、案外互いに裸をさらす機会はほとんどなかった。
幼い頃は、俺の身体は女中たちに洗ってもらっていて、チャンミンの出番はなく、そのうちひとりで入浴できるようになった。
チャンミンは金づちだったから、池で水泳遊びをする時は、日傘をさしたチャンミンが桟橋に腰掛けて、俺が溺れやしないか見張っていた。
「ささ、着て下さい」
「さっきよりマシになったでしょう」と、チャンミンは固く絞って水気を切った俺のTシャツを手渡した。
木の幹にもたれて座った。
イチョウの巨木の枝葉に守られて、地面に積もった落ち葉は乾いたままで、雨雫がたまにぽたぽたと落ちてくる程度。
太陽で熱せられた地面が雨粒で冷却され、湯気を立ち昇らせている。
俺はちらちらと、チャンミンを横目で見ていた。
何度目かで、チャンミンと目が合ってしまい、慌てて目を反らした。
「はぁ...」
胸の鼓動は早いし、くらくらする。
立てた膝を抱きしめて、俺は景色をぼーっと眺めた。
下町の建物群もあの白い塔も、激しく降りしきる雨で白くぼやけていた。
「...ユノ?
震えていますよ」
チャンミンに指摘されて、そう言えば歯の根がカチカチと合わない。
チャンミンの大きな手が、俺の額に当てられた。
「...熱い。
どうしてもっと早く、辛いって言ってくれないんですか!?」
「だって...分かんなかったんだもん。
頭は痛いなぁとは思ってたけど...」
考え事に夢中で、体調不良に気付かなかっただけのことだ。
「どうしましょう...」
チャンミンの前髪は不器用な俺に切られたせいで、まだ短いままだった。
チャンミンは大人なのに、俺みたいな子供に素直に髪を切られて、不格好に短くされて、そのままでいるなんて...俺の言いなりになっている彼が不憫に思えてしまったりして...。
頭はぼんやりするし、チャンミンの身体にドギマギするし、彼といると素直になれて、アンドロイドであることに哀しくなるし...ぐちゃぐちゃになった頭がパンクしそうだった。
ザーザーと雨が降る。
カサカサと落ち葉の音をたてて、腰をずらして俺にぴったりと身体を寄せてきたチャンミン。
濡れたシャツ越しに伝わる体温。
チャンミンの腕にも鳥肌がたっていた。
「!」
びくっと背中が震えてしまったのは、チャンミンに肩を抱かれたから。
「熱いです。
ユノ...震えています。
辛いんですね?」
そう言って、俺の肩を擦ってくれる。
「うん」と、素直に認めた。
だるいし寒くて仕方がないけど、そんなにくっつかないで...。
「僕が温めてあげますね」
来年には高等部に進級する俺は、ずいぶん背が伸びたけど、それでもチャンミンには負ける。
すっぽりとチャンミンの胸に包まれて、身体の緊張が解けて温かくて安心した。
でも、それ以上に、奥底から湧いてくる妙な感覚にも襲われて、ますます俺の身体は沸騰しそうになった。
「小降りになったら、お屋敷に帰りましょう」
「...うん」
チャンミンの熱い吐息が、俺の首筋にあたる。
辛い...俺はどうしたらいいんだ?
チャンミンの方を振り向けなくて、両膝の間に頭を垂れて、足元の茶色い落ち葉に視線を落としていた。
「僕がおんぶしていってあげますからね」
「俺はもう子供じゃないんだ。
重いよ?
5キロは離れているんだよ?
無理だよ」
「ユノは大きくなりましたね。
もうすぐ追い越されそうですね」
「ふふっ...そうだよ~。
大人になって、それから...」
ずっとずっと、チャンミンに伝えたかった台詞を口にしてしまったのも、熱で朦朧としていたせいかな。
「今度は俺がチャンミンを守ってあげるからね。
もうちょっと、待っててね」
俺の首筋を吐息で温めるチャンミンを、振り仰いだ。
「...ユノ」
触れそうに間近に、チャンミンの整った顔があった。
チャンミンの手が俺の頬に触れた。
俺の肩を抱く腕に力がこもり、チャンミンの方に引き寄せられた。
外光がチャンミンの頭で遮られた直後。
俺の唇は塞がれた。
俺の思考は停止した。
チャンミンの頭越しに、雨しぶきで白く煙った白い塔が見えた。
(つづく)