(23)19歳-初夜 –

 

「母さんが!?」

 

 

 

『はい』

 

「大丈夫なのか?」

 

『はい、先ほど意識が戻られました』

 

「意識って...そんな...」

 

『主治医の先生に診てもらいまして、今は落ち着いていらっしゃいます』

 

意識を失うとは、重大事だ。

 

「いつ?」

 

 

 

『お夕食の後、すぐです。

お部屋へ戻られる途中で倒れたようです。

付き添っていたユナが、私どもを呼びに来たのです。

その時の奥さまは、意識がありませんでした』

 

チャンミンは、俺の表情や口調から非常事態にあることを察したようだった。

 

俺の様子を食い入るように、固唾を飲んで見守っている。

 

引っ張り寄せたシーツで、裸の胸を隠している。

 

母付き従者のTさんの声は固く、実際は気が動転しているだろうに、感情を抑え要点だけ伝えてくれる。

 

よくも長年にわたってヒステリックな母の側に仕えていられるものだと、俺はTさんを尊敬している。

 

ところで、俺たちの居場所がなぜ分かったのか?

 

手掛かりは俺たちが出掛ける際、玄関ホールのコンソールに残したメモ書きだ。

 

街で一泊してくるとしかメモ書きしていなかったが、宿泊場所などすぐに突き止めることは可能だ。

 

最寄りのこの街ではホテルの数は限られているし、安宿は最初から除外できる。

(家庭への反抗心はあっても、所詮俺はいいとこの坊ちゃんなのだ)

 

Tさんと通話を続けながら、乱れた室内の調度品のひとつひとつを数えるように視界に収めていった。

 

鼓動は早く、冷たい汗をかいていた。

 

夢のようだった時はハサミでぱつんと切られ、何年もの遠い出来事になってしまった。

 

それも、肉親の急病という大ごとで。

 

『良くないこと』をしている意識が片隅にあったことは否定できない。

 

俺とチャンミンの仲は周囲がどう思おうと全く意に介さないほど、俺は振り切れてないからだと思う。

 

特に親のすねをかじっている間は。

 

大手を振るって付き合えるのは屋敷を出た後だ。

 

咎めの意識の元は...。

 

「病院には連れていかなくていいのですか?」

 

『無理に動かさない方がよいとのことです。

病院へは明日、運ぶそうです」

 

俺は受話器の通話口を押さえ、口だけの動きで「着替えるんだ」とチャンミンへ伝えた。

 

全裸だったチャンミンはベッドから跳ね起きると、クローゼットへと走った。

 

「今から帰ります」

 

そう言うと、電話の向こうのTさんは

『それには及びません!

お知らせに上がっただけです』と、俺を止めた。

 

『ユノ様に来ていただかなくても、こちらは落ち着きましたから。

看護婦もついております。

お休みの邪魔をいたしまして、申し訳ございません。

お帰りは予定通りで結構ですので...」

 

俺と母との関係を長年見守ってきたTさんは、この知らせを聞いた俺が即帰宅すると言い出すとは予想つかなかったのだろう

 

「1時間以内には着けると思います」

 

俺はデスクの置き時計に目を凝らし、「ああ、日付が変わってしまったか」と思った。

 

平常時だったら、慌てるあまり下着に足を通せないでいるチャンミンを笑っていただろうけれど、母親の急病を知った俺には可笑しがることができない。

 

電話を切った俺は、つい半日前チャンミンがクローゼットに納めたばかりの衣類をハンガーからむしりとった。

 

 

 

腰に巻いたバスタオルを外し、大急ぎで衣服を身に付けた。

 

訊ねたいことは山ほどあるだろうけれど、チャンミンは無言のまま俺の着替えを手伝った。

 

荷造りの時のようにはしていられないから、荷物はバッグに押し込んだ。

 

ドアを閉める直前、チャンミンは忘れ物がないか指さし確認をした。

 

緊迫の中、いつも通りのチャンミンに俺は苛立たなかった。

 

エレベータに乗り込む時には、枕を脇に抱えているチャンミンを可愛いと思えるほどの余裕を取り戻せた自分に安心した。

 

チェックアウトの手続きのためフロントに寄ったところ、なぜか支払いは不要だった。

 

電話を繋いだのはこのフロントマンだったのだろう。

 

その電話で、俺たちが一般の客とは違う身分...あの屋敷の住人...であったことを知ったのだろう。

 

屋敷に請求がいってしまうのだけは阻止したかったけれど、意固地になってフロントに紙幣を放り投げるという大人げない事はしなかった。

 

エントランスまで回してもらった車に乗り込み、屋敷へと出発した。

 

どこもかしこも真っ暗だった。

 

道中、チャンミンにTさんからの電話の内容を伝えた。

 

「そうですか...」

 

チャンミンはそれだけ言うと、シフトレバーから手を離し、俺の手を握った。

 

その後の道中、俺たちは無言だった。

 

 

母に持病はあったのだろうか?

 

知らなかった。

 

母は神経過敏な人で、常に不調を抱えており、睡眠薬だ鎮痛薬だと薬屋のようだった。

 

母が俺に無関心なように、それに対抗するかのように俺も母については意識外の存在だった。

 

女の子を望んだ母は、男で生まれた俺を歓迎せず、幼かった俺のペニスをハサミで切ろうとしたほどの女だ。

 

俺を疎んじた母を憎んでいたはずなのに、彼女の急病を知らされて、即駆けつけようとした自分に驚いた。

 

あのような親であっても、肉親のひとりなのだ。

 

 

俺とチャンミンの記念日が、このような形で中止になってしまった。

 

もし知らされていなければ、今頃俺たちは抱き合っていただろう。

 

けれども、今夜中に知らせの電話をかけて寄こしたTさんの判断は間違っていない。

 

早く知ってよかった。

 

翌日知らせを受けたとしたら、非常事態の間はしゃいでいた自分を責めていた。

 

甘やかな思い出が罪悪感満ちた色褪せたものになってしまっただろう。

 

 

庭園は闇に沈んでいた。

 

玄関前で俺は車から降りた。

 

「チャンミンは先に休んでていいから」

 

「いえ。

そういう訳には...」

 

俺はこの後、母の部屋へ直行するつもりだ。

 

一人息子が気に入りのアンドロイドを連れて街へ遊びに出掛けた。

 

タイミングが悪いことに、母が急病で倒れてしまった。

 

「僕も...っ」

 

「駄目だ」

 

ひとり残されることが不安なのではなく、駆けつけた場で「一体どこをほっつき歩いていたのやら」と俺に注ぐ、冷たい視線を恐れているのだ。

 

「ユノ...僕も一緒に...」

 

「駄目だよ。

俺ひとりで大丈夫だ」

 

「そういう訳には...」

 

坊ちゃんと一緒に『ほっつき歩いていた』相手が、自分であるから責任を感じているのだ。

 

「チャンミンは全然悪くない」と、後で沢山否定してあげよう。

 

あの場にチャンミンを行かせたくなかった。

 

俺は家族だから室内に通されるだろうが、使用人かつアンドロイドのチャンミンは別だ。

 

何もできず遠巻きに見守るしかできない。

 

邪魔だと追い返されるかもしれない。

 

俺とチャンミンの間の壁を感じさせるような機会を作りたくないのだけど...。

 

チャンミンは訴える目で俺を見ていたが、そのひそめた眉を緩めると「分かりました」

 

「多分、俺も部屋に入れてもらえないと思う。

すぐに戻るから、チャンミンは先に休んでてよ」

 

「分かりました」

 

「俺の部屋で待っててね。

絶対だよ」

 

俺はチャンミンの額に唇を押し当てると、車の屋根を叩いた。

 

玄関の扉の向こうに俺の姿が消えるまで見送るチャンミンに、俺は「大丈夫だ」の意を込めて何度も頷いてみせた。

 

(つづく)

 

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