目覚めた時、チャンミンはぐっすりと眠ったままだった。
今日の天候は曇りか雨。
ブラインドを閉め切った室内からでは判断がつかない。
でも耳をすませてみると、さーっという雨音が屋敷全体を包み込んでいた。
ベッドから抜け出した俺はバスルームへ直行し、髭を剃った。
寝室に戻ると、チャンミンは掛け布団に顔を半分埋めて眠ったままだった。
昨日一日、チャンミンは新しことを沢山経験し、幸せな気分から一転したことが起こり、とても疲れたのだろう。
俺も疲れているのだろうけど、興奮が解けていないせいで疲労感はない。
すーすーと寝息。
(そっか...昨夜は俺たち...)
チャンミンとの関係が大きく前進した。
文字通り、身も心もひとつになった。
俺たちのこれまでの時の過ごし方とは、視線と言葉、遠慮がちな触れあいといった穏やかなものだった。
そこに、互いの身体を貪る情熱的な時の過ごし方が加わった。
俺たちは初心者同士で、まだ3度しか交わっていない。
互いの身体を探り合う段階で、楽しむ域にまでは全く達していない。
母のことがあったばかりなのに、今すぐにでもセックスがしたくてたまらない俺は不謹慎だろうか?
寝間着を脱ぎ、アイロンのきいたシャツ、皺ひとつないスラックスへと着替えた。
シャツはウエストの中に入れ、前髪を斜めに梳かしつけた。
俺はベッドに腰掛け、掛布団から飛び出したチャンミンのふわふわと柔らかい髪を撫ぜた。
今のチャンミンは、俺よりも弱い。
肉体も立場も、とても弱い。
チャンミンは弱くなったのではない。
チャンミンは今も昔も変わっていない。
小さくて弱かった俺は、今と変わらず弱いチャンミンにすがりついていた。
弱い者同士が身を寄せ合っていた。
チャンミンは強靭的な肉体に作られていない。
その不完全さ、危うさがチャンミンというアンドロイドの美しさなのかもしれない。
永遠なのに永遠じゃない、この矛盾。
「...可愛いなぁ、チャンミン」
眠るチャンミンをいくらでも眺めていられたが...。
(呑気にしていられないぞ)
これから向かおうとしている所を思うと気が沈んだ。
・
ちょうど母の部屋から、女中が洗面器やタオルを乗せたワゴンを押して出てくるところだった。
俺は入れ違いで、白と花柄と淡い色彩に溢れた母の部屋へ足を踏み入れた。
「ユノ様...!」
ベッド脇に控えていたユナが、俺を認めるなり立ち上がった。
ユナは昨夜と同じワンピースを着ていた(もしかしたら、同デザインのものを複数枚持っているのかもしれない。
ユノに向けていた視線をゆっくりと、近づく俺に向けた。
「......」
目が合っただけなのに、ぐっと緊張感が高まった。
ユナと枕に背をもたせかけた母と見比べると、2人は母娘かと見紛うくらいによく似ていた。
細面に切れ長の黒い目、黒髪に紅い唇。
つまり、俺にも似ている、ということだ。
「母さん...」
母の顔をまともに見たのは、いつぶりだっただろう。
「...ユノ」
「具合は...?」
「よいわけないでしょう?」
「...ごめん」
この時この場を早く立ち去りたい思いの表れなのか、ユナから椅子を勧められたが、俺は枕元に突っ立ったままでいた。
母と目を合わせられず、俺は掛け布団の上に重ねて置かれた母の手を見ていた。
手鏡より重い物を持ったことのない、子供のオムツを交換したことのない手だ。
若くしてこの屋敷に嫁いだ母は、とても10代後半の母親には見えない。
周囲はただごとではない雰囲気だったため、最悪の事態を想像してしまっていた俺だ。
母に弱みを握られたような気持ちにさせられた。
「先生は何時に?」
背後に控えていたユナに訊ねた。
「でも...無事でよかった」
俺はユナに「もう行くね」と目配せすると、母のベッドに背を向けた。
「ユノ...」
「?」
母に呼び止められて振り向くと、彼女は微笑みを浮かべていた。
「心配かけてごめんなさいね」
「いや...別に」
むら気な母らしい。
優しい言葉をかけられたかと油断して、母を許してはいけない。
マニキュアが塗られた母の爪は、長く鋭く尖っている。
俺は部屋を出た。
母の部屋に居た時間は、5分も無かった。
交わした言葉は、ひと言二言。
拍子抜けするどころか、とても濃い5分だったと思う。
・
今日は寄宿舎に戻らなければならない日だったが、1日延ばすことにした。
父に訊ねたいことがあったからだ。
父はチャンミンの生まれ故郷と関係があるらしい。
チャンミンの生まれ故郷とは、山を下りるなり直ぐに目に入る堂々とそびえ立つ塔。
敢えて存在を無視しようと努めてきた塔だ。
チャンミンが『製造』された事実から、目を反らし続けていた。
そして、父が苦手だった俺は、彼が新たに手掛けた事業、親の代から受け継いだ事業、ひっきりなしに訪れる客たちの目的、経営状況...何もかもに興味がなかったし知ろうとしなかった。
幼いころから漠然と、俺はこの屋敷を出てゆき、いずれ関係のない者になるだろうと思っていた。
その無関心が無知となり、無知の恥を父にさらすことになってしまう徒となった。
エレベーターホールの受話器をとり、父の書斎へ内線電話をかけた。
『はい』
秘書ではなく直接父が出たため、用意していた言葉が一瞬、忘れてしまいそうになる。
「ユノです」
『何だ?』
「母さんのことです」
『ああ。
午後に病院へ運ぶことになっている。
検査してみないことには、何とも言えない』
「検査ですか...。
持病か何かあったのでしょうか?」
『何も聞いていない。
家族に隠している病気があったのなら、話は別だが。
母さんのことは、医者かTに直接訊いてみるがいい。
他に何か?』
「今夜、父さんの部屋に伺ってもよろしいですか?」
『夜は都合が悪い』
「何時なら?」
『10時だ』
それだけ言うと、父は通話を切ってしまった。
「はあ...」
しばらくの間、俺の手は受話器に置かれたままだった。
今すぐチャンミンに会って、ハグしたくなった。
・
父はX社の理事を務めていた。
男の俺の育児を放棄した母には、息子の乳母や家庭教師を探す発想もなかったようで、父が代わって探したという。
そこで、アンドロイドのチャンミンを俺に与えた。
『僕は科学技術を集結させた、最新鋭のアンドロイドなのです』と、チャンミンは冗談まじりに自身を自慢していた。
その言葉通り、父はまだテスト段階にある当時最先端のアンドロイドを、息子の俺に与えた。
それが性能チェックも兼ねたものだったら、さすがの俺も傷つく。
(つづく)