「ユノ様」
Tさんが現れた俺に気づいて駆け寄ってきた。
憔悴しきった顔で、普段後れ毛1本も許さないとばかりに結われた髪も、乱れていた。
後で知ったことだが、この日に限って執事は不在で、母が倒れてから今まで彼女を先頭に差配していたという。
「母さんは?」
「お薬で眠っていらっしゃいます。
先生もちょうど、帰られたばかりです」
「よかった...」
Tさんは制服姿のままで、心痛のあまり握りしめていたのだろう、スカートの前は皺だらけになっていた。
「眠っているのなら、今夜は遠慮しておくよ」
居ても立っても居られず駆けつけたというのに、なぜだか俺は彼女の顔を見たくないと思ったのだ。
目を覚ましていたとしたら、もっと顔を合わせたくなかった。
何を話せというのだ。
無事が確認できたから、俺は気が済んだのだ。
「そうですね。
お話も出来ませんから、その方がいいかもしれませんね。
朝まで目を覚まさないだろうと、先生は仰られていました」
「医者は帰ったんだよね」
「はい。
看護婦が中で付き添っていますので、私の出番もございません」
エレベータの前で、白衣を着た主治医とすれ違ったばかりだった。
「父さんは?」
「2時間ほど前にお屋敷に戻られました。
主治医の先生から奥さまの容態の説明を受けられました。
今は書斎にいらっしゃいます。
ユノ様が帰られた少し前のことです」
俺と父はちょうど、入れ違いだったのか。
顔を合わさずに済んでよかった、と思った。
...やはり俺は、街に出かけたことに後ろめたさを感じているのだ。
いつものようにジャッジする目で俺を見るだろうし、息子の不在に気付いて、俺の行方を使用人に訊ねたかもしれない。
無関心なようでいて、実は注意深く観察している。
それは俺についても同様なのだが...。
「こんな遅くまで、父さんはどこに出掛けていたんだろう?」
仕事のほとんどを屋敷で済ませる父にしては、珍しいと思ったのだ。
わざわざ足を運ぶとは、近々相当な額の資本が動くのだろう...知ったことではないが。
「街へ出かけると仰っておられたそうです」
「街に!?」
背筋がぞくっとした。
ついさっきまで俺とチャンミンは街にいて、昼間など彼と手を繋いではしゃいでいたのだ。
どこで父に見られていたか知れない。
Tさんは俺の恐れを読んだらしく、「『街に行く』と仰られていましたが、街は街でも、『裏の街』のことかもしれません」と、言い添えた。
『裏の街』とは、屋敷の裏道を下りた先にある下町のことで、俺とチャンミンの遊び場になっている。
街外れには綺麗な谷川や雨宿りをした木が植わっているが、市街地には砂色の建物が立ち並び、工場地帯であるため空気は埃っぽく、遠くの景色まで見通せない。
灰色に煙る空を貫くのが、チャンミンが生まれた工場棟だ。
ピカピカの革靴を履いた父が、いかにも嫌がりそうな地帯だった。
「父さんがあっちに何の用事があったんだろう...?」と疑問を口にした。
「定期的に工場視察を行っていらっしゃるようですし、秘書を連れていましたから、メーカーの役員会でしょう」
「工場視察...?」
「ええ。
X社です」
「X社...?」
X社とはアンドロイド製造メーカーで、下町にそびえる高い塔がそれだ。
いぶかしげな俺の表情に、Tさんは「ユノ様はご存知なかったのですか?」と驚きの表情をしていた。
「何を?」
「それは...その...」
「父さんとX社が何か関係があるの?」
「それは...」
息子ならば知っていて当然の情報だったらしい。
フォローしようにもできないTさんはおろおろし出した。
「父さんから直接訊いてみるよ。
Tさんの名前は出さないから、安心して」
「申し訳ございません」
俺は頭を下げるTさんの肩を叩いた。
「疲れたから、部屋に戻るよ。
朝になったら、母さんの様子を見にいくよ。
あなたも休んでください。
しばらく気が抜けない日が続くでしょうから」
・
エレベータホールへと足を向けるとそこにチャンミンとユナがいた。
ユナは黒のワンピースを、チャンミンは白シャツに黒のスラックスに着替えていた。
ホールの椅子に腰掛ける2人は、整い過ぎた容姿のせいで精巧な人形に見えた。
つい忘れがちになるが、2人はアンドロイドなのだ。
ユナは母の話し相手として雇われたアンドロイドだ。
話し相手というよりも、母念願の『娘』と言ったほうがいい。
ユナはそわそわと落ち着きがないというよりも、気落ちしているように見えた。
肩を落とし、俯き加減で自身の爪先に視線を落としたままだ。
チャンミンはユナの方へ身を乗り出し、熱心に慰めの言葉をかけているようだった。
もしユナがチャンミンと同タイプのアンドロイドならば、ご主人の緊急事態に動揺し、ご主人の健康を心配する気持ちが生じているだろう。
そうではなく、感情面が無機質なタイプならば、チャンミンの慰めの言葉は心に響いていないだろう。
「...ユノ」
近づく俺に気づいて、チャンミンとユナは同時に立ち上がった。
「ユナ...。
母さんのこと、大変だったな。
大丈夫か?」
すぐ隣でご主人が倒れたのだから、主人のそばを離れられなくて当然の行動だ。
ユナの肌は色素が薄いため、顔色を悪くしているかどうかは分からないが、肌つやはいいようだった。
「心配かけたね。
ずっと起きていたのか?」
俺はユナの背に合わせて、身をかがめた。
「ユノ様。
私がついておりながら、申し訳ございませんでした」
設定年齢が10歳前後にしては、話し方や言葉の選び方が大人びていた。
「ユナは謝ることなんてひとつもないよ」
休むよう勧めたが、ユナは「その必要はありません」と首を振った。
「私は眠らなくても大丈夫です。
奥さまに呼ばれるまで、私はここに居ます」
「分かった」
チャンミンは、俺とユナとのやりとりに口を挟まなかった。
「チャンミン行こうか?」
エレベータに乗り込む間際、ホールを振り返った。
「お休み」と声をかけると、ユナは頭を下げた。
・
俺たちはベッドに横たわっていた。
「ユノ、奥さまのこと...心配ですか?」
チャンミンは、ぎりぎりまで迷っていただろう質問を口にした。
俺に対して、母の話題は腫れ物扱いなのだ。
「どうだろう...多分、心配しているんだろうけど、正直なところ分からないんだ。
俺と母さんの間でいろいろあったことを、チャンミンは覚えてるだろ?」
「はい...」
母にはサロンに集まったご婦人方に、ドレスを着せられ少女に扮した俺を披露する悪趣味があった。
俺の髪にリボンを結んでくれたのはチャンミンだ。
「......」
ベッドの中は温かく、心地よかった。
「やっぱり、自分ちのベッドが一番だね」
「そうですね」
ひとつのベッドで、それも俺のベッドでチャンミンと一緒に眠ることができる身分になれた。
使用人たちが陰で、チャンミンを妬んでいることは知っている。
彼らを睨みつけ黙らせられるまでは俺は成長した。
「チャンミン、覚えてる?
床に寝たことがあっただろ?
ありったけの毛布を広げてさ」
「あの時は背中が痛かったですね」
「でも、楽しかったなぁ」
「ピクニックみたいでしたね」
「チャンミンは朝まで腕枕してくれたよなぁ...」
「Kさんが突然部屋に入って来たときは、びっくりしましたねぇ」
俺の部屋を訪ねてきた女中頭Kに、チャンミンと一緒に床に寝ていたことが知られそうになったことがあったのだ。
アンドロイドがご主人と1つの毛布にくるまれて、しかも床に寝ているとは言語道断。
「バレなくて済んでよかったです」
俺がKを部屋の外へ追い出すまで、チャンミンは毛布にもぐりこんでじっとしていた。
大きな背中を丸めて息をこらしていただろうチャンミンを想像すると、10年近く経った今でも胸が詰まる。
俺は寝返りをうって隣のチャンミンと向かい合う。
当時と変わらない美しい人、チャンミン。
片目を覆う長い前髪に指を伸ばし、耳にかけてやった。
当時と変わらない、胸が痛くなるくらい綺麗な瞳。
「バレていたら、今こうしてユノといられませんでした」
「ああ。
まったくその通りだ」
「さあ、ユノ。
眠りましょう。
明日はきっと、大変ですよ」
俺はチャンミンの腕に抱かれて眠った。
(つづく)