(1)別れられるかよ

 

 

「いらっしゃいませぇ」

 

新規客が通された席まで、おしぼりとお通しを運んだ店員はユノといった。

 

ここは人気居酒屋店。

 

開店間もない店内は既に7,8割方埋まっていた。

 

頭にバンダナを巻き、Tシャツの袖は肩までまくしあげられ、逞しい二の腕が露わになっている。

 

ユノが通り過ぎると、女性客たちが色めき立った視線を彼に注ぐ。

 

ここ数日、ユノの気持ちは塞いでいた。

 

気持ちが下向きになると視線も下向きになり、ユノの目には客の顔など映っていない。

 

でも、長らくこの仕事を勤めてきただけあり、威勢のよい声かけでそれを補っていた。

 

ユノは新規客におしぼりを渡すと、「本日のおすすめは...」と、メニュー表を広げてみせた。

 

その手がびくっと止まった。

 

「...チャンミン...何しに来た?」

 

チャンミンと呼ばれた客は、ゆっくりと顔を上げ、

 

「ユノ...捕まえた」

 

と、言った。

 

 

「店には絶対に来るな、と何度も言っているだろう?」

 

「怒りたいのは僕の方だよ。

5日もどこをほっつき歩いていたんだ?

ずっと待っていたんだ」

 

チャンミンはユノをキッと睨みつけた。

 

「仕事中だ。

マジで困るんだよ」

 

「待ってたんだよ?

ユノに迷惑をかけるから、職場に来るのだけは控えようと思ったんだ。

だけどもう...耐えられなかった」

 

ユノもチャンミンを睨み返したが、すぐに視線を反らした。

 

「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのスイッチでお知らせください」と、店員の顔に戻った。

 

「待って」

 

回れ右したユノの肘を、チャンミンは素早くとらえた。

 

「何だよ!?」

 

店内は歓声と笑い声、油の匂いと人いきれでむっとしており、ユノの額のバンダナは汗でにじんでいた。

 

「ユノが終わるまで待ってる」

 

時刻はまだ18時で、閉店まで7時間もある。

 

「家で待っていても、ユノは帰って来ない。

今日はユノを逃がすつもりはないから。

ユノに逃げられないように、『ここ』で待ってる」

 

ユノはチャンミンの性格...「待つな」と言っても、言うことをきかない頑固さと根性のある性格...を知り尽くしている。

 

二人の付き合いは長いのだ。

 

「好きにしろ」

 

ユノはチャンミンの手を振りほどくと、厨房カウンターへと戻っていった。

 

注文ボタンを押す前に、チャンミンのテーブルにビールジョッキが届いた。

 

ユノ自身ではなく、他のスタッフにそれを運ばせた意固地なところに、チャンミンは呆れた。

 

チャンミンは立ち働くユノを常に目で追っていた。

 

 

 

 

片手にジョッキ4本、もう片手に料理のトレーを運ぶユノの二の腕は、太く盛り上っている。

 

ユノの耳の下から鎖骨へ流れる汗を見つけ、その首筋に舌を這わせた先々週を思い出していた。

 

ユノの視界の隅には、常にチャンミンの姿があった。

 

わいわいと賑やかなテーブル席がほとんどの中で、背中を丸めてひとり飲みする客は目立った。

 

チャンミンのオーダーを取ってくるのは、ユノではなく他のスタッフだ。

 

ユノは率先してドリンク担当となって、レシピよりうんとアルコール度数低めのドリンクを作って、スタッフに運ばせた。

 

グラスだけ重ねるチャンミンのオーダーを、ユノは心配していたのだ。

 

店内はどんどん混雑してゆき、23時半を境に客数が引いていった。

 

チャンミンはこれで何杯目になるだろう、氷で薄まったカクテルを持て余していた。

 

「食えよ」

 

「!」

 

目の前にさっと出された料理に、チャンミンは顔を上げた。

 

その表情は明らかにホッとしたものだった。

 

「サービスだ」

 

「あ...ありがと」

 

「あと1時間で終わる。

メシ食って待ってろ」

 

チャンミンはこくり、と頷いて、湯気がたつ焼うどんに箸をつけた。

 

「...おいしい」

 

 

 

 

たまに台所に立つユノが作ってくれるものと味が似ている。

 

チャンミンに食べさせたくて、店で習った味を自宅で再現したのだろう。

 

チャンミンのまぶたの奥がじわっと熱くなった。

 

勢い込んで閉店まで粘ると言い放ったが、話し相手のいない数時間は辛かった。

 

冷たい飲み物で冷えた身体に、熱々の料理はありがたかった。

 

 

チャンミンがユノの仕事場まで乗り込んできた目的は、ユノを捕獲するため。

 

 

 

 

10日前に喧嘩を、5日前により激しい喧嘩をした。

 

激怒したユノは、チャンミンと同棲している部屋を飛び出していってしまった。

 

同様にチャンミンも怒りの興奮状態で、ユノを追いかけるどころか、手にしていたしゃもじを投げつけた。

 

「ふん、勝手にしろ」

 

怒りに支配されているのに後悔で寒々とした気持ちで、チャンミンは床に転がり落ちたしゃもじを拾い上げた。

 

翌日になっても帰宅しないユノに電話をかけることは出来たのに、先に歩み寄った者が負けになるからと、チャンミンはだんまりを決め込んだ。

 

その夜ネットカフェに泊まったユノは、電話1本かけてよこさないチャンミンに腹を立て、3日続けて延泊した。

 

4日も音信不通となると、にわかに不安になり出した。

 

「このまま、ユノが戻ってこなかったらどうしよう」

「チャンミンが迎えに来なかったらどうしよう」

 

こじらせてしまった二人は、仲直りの方法も機会も見失い、にっちもさっちもいかなくなってしまったのだ。

 

 

ラストオーダーを過ぎ、閉店時間が近づくにつれ客たちが1人、また一組と退店していった。

 

会計の後、「一緒に飲みに行きましょうよ~」としなだれかかる女性客の背中に、チャンミンの氷の視線が刺さっている。

 

この手の本気ともつかない誘いはよくあることで、「飲みに行くなら、彼氏と行ってください」とユノは笑顔で流した。

 

ところが、チャンミンの目には、ユノの態度がまんざらでもない風に映っていて、チャンミンの視線の棘はユノに移った。

 

居残るチャンミンに不審がるスタッフに、ユノは「俺の連れだから」と知らせた。

 

「ありがとうございっしたー」

 

入り口ドアは施錠された。

 

ユノの立ち居振る舞いを凝視するチャンミンに、ユノのテーブルを拭く手が緊張した。

 

「見るなよ」と睨みつけると、チャンミンは「いいじゃん、見ていたいんだから」と答える。

 

チャンミンと恋愛関係にあることを、スタッフたちは全く知らない。

 

「余計のことを言うなら、ひとりで帰れ」

 

彼らの耳を気にしたユノは、声を殺した鋭い声でチャンミンの耳元で囁いた。

 

「やだね」

 

チャンミンは席を立つと、スタッフたちを手伝って椅子をテーブルに上げ始めた。

 

5日ぶりにユノの顔を見られて嬉しいのに、どうしてもユノを煽る言動をしてしまうチャンミンだった。

 

 

ユノとチャンミンは揃って店を出た。

 

店じまいした店舗もあれば、早朝まで営業する店の電飾で、夜の街はまだまだ明るい。

 

「何しに来た?」

 

チャンミンは早歩きするユノに追いついた。

 

「何って...ユノを捕まえに来たんだ」

 

「ふ~ん」

 

ユノは立ち止まると、チャンミンを振り返った。

 

勤務中バンダナを巻いていたせいで、ユノの前髪は後ろに撫でつけられている。

 

ユノのすっきりとした顔立ちにチャンミンは見惚れた。

 

チャンミンのヘアスタイリングは完璧で、装いもよそゆき仕様だった。

 

惚れ直させるくらいの勢いでいかないと、ユノを説得し、自宅に連れ帰られないと考えたからだ。

 

「捕まえにくるって言ってるけどさ。

お前さ、俺に何を言ったか覚えてるわけ?」

 

「...覚えてる」

 

「今、ここで言ってみ?」

 

「...っ...それはっ...」

 

ユノに求められたその言葉は不吉なもので、チャンミンはしばらく言い淀んでいた。

 

上目づかいになったチャンミンだった。

 

ユノは内心で、

「可愛い顔をしても無駄だ。

俺は負けない」と、チャンミンへの責め立てを緩めてしまいそうになるのを堪えた。

 

「...『別れて...やる』って言いました」

 

「あれは本気か?

絶対に口にしたらいけない言葉なんだぞ?

決定的で究極で、壊滅的な言葉なんだぞ?」

 

ユノはつんと顎を上げ、目を細めた。

 

「ユノだってっ...言ったじゃん。

『別れてやるよ!』って」

 

「先に口にしたのはチャンミンだ!」

 

「そうだけどっ!

今回は51対49で僕の方が悪かったから...謝りに来たんだ」

 

「...え?」

 

つにない素直な言葉に、ユノはこれ以上険しい表情をしていられなくなった。

 

「1%だけ?」

 

「うるさいなぁ、1%も譲ったんだから許してよ。

店にまで迎えに行くなんて非常識だけど。

そうでもしないとユノのことだから、いつまでも帰って来られないんじゃないと思ってさ。

今回は僕が折れてあげたんだ」

 

「...チャンミン...お前」

 

チャンミンは「ごめん」のひと言が恥ずかしくてたまらず、負けを認めてしまう悔しさもあった。

 

火照った顔面が熱かった。

 

「あっ...」

 

口を尖らせて顔を背けたチャンミンは、ぬっと伸びた両腕にかき抱かれた。

 

ユノに抱きしめられたのだ。

 

「ユノっ...人!

人がいるから!」

 

ふらふら千鳥足の酔っ払いなど外野のうちに入らない。

 

「俺だって1%悪い」

 

チャンミンは力を抜き、油と煙の匂いがしみついたユノの肩に顎を預けた。

 

「それだけ?」

 

「うん」

 

「許す?」

 

「うん、許す」

 

「よかった」

 

「行く?」

 

「?」

 

ユノに尋ねられて、チャンミンは後ろを振り返った。

 

斜め前方に注がれたユノの視線の先を知って、にたり、と笑った。

 

「うん、行く」

 

チャンミンはユノに軽く口づけると、腰に腕をまわした。

 

二人が向かったのはもちろん、あそこだ。

 

仲直りするとといえば...あれしかない。

 

 

エントランスからエレベータ、最上クラスの部屋までの間、二人は無言だった。

 

室内に転がり込んだ二人のキスは貪り合い。

 

衣服を脱ぐのも惜しい。

 

チャンミンの整えられた前髪は、ユノの手にかき乱された。

 

喧嘩の原因になった例の件ともうひとつの件についての振り返りは、コトの後に回すことにした。

 

 

(つづく)

 

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