(5)会社員-恋の媚薬-

 

地下1階のウメコの店から、地上への階段を1段飛ばしで駆け上がった。

 

チャンミンの後ろ姿。

 

どんな囁きも聞き逃さないといった風に、両耳がぴんと立っている。

 

実は、チャンミンを見ていて、「何かに似ている、はて、何に似ているんだろう」と記憶を探っていた。

 

そうか!

 

草食動物だ。

 

馬とか牛じゃなくて、鹿の、それも赤ん坊の鹿だ、バンビだ!

 

まん丸の後頭部と、ピンと立った耳。

 

か、可愛い...。

 

午後9時の繁華街は未だ人通りが多く、赤い顔して2軒目へはしごする一団や、カップル、大人たちの時間。

 

チャンミンは、上半身をかがめてマッサージ店の看板を、興味深そうにしかめっ面で読み込んでいる。

 

「チャンミン!」

 

俺を振り向いた時の笑顔がすごかった。

 

「ユンホさん!」

 

弾ける笑顔とは、こういう表情を言うのだろう。

 

高い頬骨をしたチャンミンの両頬が持ち上がって、大き目の口から小さ目の前歯が覗いている。

 

心から嬉しそうなチャンミンに、俺は胸が詰まった。

 

ちらりと罪悪感がかすめたから。

 

俺に向かって開かれたチャンミンの心。

 

チャンミンは素直で朴訥な男で、惚れ薬みたいなのを飲まされたせいで、男の俺に恋するはめになってしまった。

 

ウメコ作のものは毎回出鱈目なものなのに、今回に限ってその効果を信じ切ってしまったのには、理由がある。

 

雑な仕事ぶりな俺に呆れ、間違いばかりの俺にムッとし、挨拶の返しはぼそっと不機嫌そうで。

 

チャンミンにとって明るく積極的な俺は、さぞ苦手なタイプだろうから。

 

そんなチャンミンが、ふにゃふにゃな顔で俺を見ているんだ。

 

ウメコよ、怖いくらいに効いてるよ。

 

チャンミン、知ってるか?

 

3回のうち1回は、わざと間違えていたんだ。(そうじゃなければ、いくらなんでも間違いが多すぎだろう?気づけよ)

 

「どこに行きましょうか?

僕はまだまだ、いくらでも飲めますよ」

 

力こぶを作って見せるチャンミン。

 

アルコールのせいか、それとも媚薬のせいか、頬はピンク色でツヤツヤしていている。

 

暗過ぎるウメコの店では、影が作る凹凸でしか確認できなかったのが、飲み屋街の灯りでチャンミンをはっきりと見られるようになった。

 

真ん丸に見開いた目も可愛いが、にこにこと三日月に細めた目も子供みたいだ。

 

気恥ずかしさから早歩きになってしまうが、チャンミンは俺以上に長身で、俺のペースに余裕でついて来られる。

 

「チャンミンに任せるよ。

飲み放題の店でもいいし、落ち着いたバーみたいなところでもいいし...。

そうだ!

女の子がいる店でもいいぞ?」

 

チャンミンをからかいたくなったんだ。

 

「ユンホさんは本気で言ってるんですか?」

 

俺の隣からチャンミンが消えてしまい、振り返るとその場で立ち止まったチャンミンが、三白眼で俺を睨んでいる。

 

「女の子がいるお店がいいんですか?

僕は絶対に行きたくないです!」

 

「ごめん、チャンミン。

怒るなって、ジョークだよ」

 

真面目で頭が固そうなチャンミンにはジョークが通じない、とチャンミン録にメモる。

 

チャンミンの腰に腕を回し、その背を押した。

 

ぴたりと身体を接触させた俺たち二人。

 

この場なら、酔った仲間を介抱している風に見えるだろう。

 

チャンミンは、自身の腰に回された俺の腕を、ちらちらと見下ろしている。

 

「嫌か?」と尋ねたら、「いいえ」との返答。

 

嬉しかった。

 

「ユンホさん。

さっきの話の続きをきかせてください」

 

「さっきの話って?

なんだっけ?」

 

スマートを装っていた俺だが、コート越しの固い身体にどぎまぎしていた。

 

俺と同じ腰の位置、くびれのない身体。

 

ついついとぼけてしまって、ぴたりと足を止めたチャンミンに、「しまった!」と。

 

「真面目な話だったでしょ?

もう忘れちゃったんですか?

ユンホさんにしてみたら、愛の告白くらい大したことないかもしれませんが、僕にとっては重大ごとなんですよ?」

 

「ごめんな、チャンミン。

立ち話もなんだし、次の店に入ろう!

おいおい、拗ねた顔するなって。

真面目な話の続きをしよう。

お!

ここにしよう!」

 

俺のチョイスにチャンミンは一瞬、きょとんとしていた。

 

今夜の俺にはもう、アルコールは必要ない。

 

温かい珈琲でも飲みながら、じっくりと、しっとりと言葉を交わそうと思ったんだ。

 

「お酒は?」

 

「それほど酒に強くないんだ」

 

「意外ですね...」

 

「だろうな。

よく言われる。

勝手に決めて悪かった。

酒が飲みたければ、店を変えるけど?」

 

「いいえ。

ユンホさんと一緒にいられるのなら、どこにだってついて行きます」

 

「!」

 

今度は俺の方が立ち止まってしまった。

 

ストレートに発言されると...照れる。

 

チャンミンの方は照れている様子はない。

 

「何か変なこといいましたか?」

 

その言い方がやっぱりいつものチャンミンで、調子が狂う。

 

「変じゃない。

全然、変じゃないよ」

 

めちゃくちゃ嬉しいよ、と心の中で付け加えた。

 

俺はチャンミンの腰にからめた腕に力を込めて、もっと近くに引き寄せた。

 

ふらふらと媚薬に酔ったチャンミンの前なら大胆になれる。

 

「あ...」

 

驚きで漏らしたチャンミンの声が高くかすれていて、喘ぎのように聞こえてしまった俺はどうかしてる。

 

それまで、遠慮がちにまわされていたチャンミンの手が、俺のコートをぎゅっと握りしめた。

 

頬同士がくっつきそうなチャンミンからは、上等そうなコートのウールの匂いしかしない。

 

きっちり巻かれたマフラーに閉じ込められて、ウメコの店で嗅いだ甘い体臭は香ってこない。

 

 


 

 

ウメコの店ほどではないが店の中は薄暗く、タバコの煙が席のあちこちから立ち上っている。

 

店選びに失敗したかな、と、チャンミンを窺ったらにっこりと笑顔で返された。

 

観葉植物で具合よく目隠しされた席に俺たちはつく。

 

注文を取りに来た店員は不機嫌そうだ。

 

それもそうだろう、深酒したサラリーマン2人連れだと思われても仕方ない。

 

互いに体重を預け、通路の途中の段差につまずいてしまったチャンミンを抱きかかえるように現れた俺たち。

 

俺は素面だし、酒に強いらしいチャンミンもケロリとしている。

 

ただ、チャンミンは恋の媚薬に酔っているし、俺は惚れた男とここまで密着できてくらくらしているんだ。

 

チャンミンは俺の隣に、ぴたりと身体を寄せて座っている。

 

なぜ?

 

なぜ、正面の席につかないんだ...。

 

テーブル席で並んで座るサラリーマン2人組は、酔っ払いじゃなくても奇妙に映るだろう。

 

店員が眉をひそめたのも納得だ。

 

チャンミンは甲斐甲斐しく、2人分のコートを丁寧に畳んで足元のバスケットに仕舞い、おしぼりを袋から出して俺に手渡したのち、コホンと咳ばらいをした。

 

「さて。

ユンホさんのお話を聞かせてもらいます。

僕がどう見えるのか、を」

 

「そ、そうだな」

 

俺とチャンミンの顔は、30センチの距離。

 

気持ちを落ち着かせようと、ごくりと唾を飲んだら、同じタイミングでチャンミンの喉仏もこくりと上下した。

 

チャンミンはぽっと赤らめた頬と、キラキラと輝かせた目で、俺のことが好き、と語っている。

 

俺たちは相思相愛になる媚薬を飲んだ。

 

今夜の俺たちは、両想い。

 

チャンミンは、そう本気で信じ込んでいるんだ。

 

だから、俺の口からどんな言葉が飛び出てくるかを、チャンミンには分かっているのだ。

 

分かってて俺に答えさせるとは...。

 

チャンミン...お前という奴は。

 

チャンミンは俺の腕にからめた手を、足りないとばかりに指にもからめる。

 

チャンミンの肌で温められた、なんともいえない体臭が俺の鼻をくすぐる。

 

頭の芯まで痺れてしまう、股間の緊張が高まるのを抑えられない甘い香り。

 

ここまでくると俺たちはもう、酔っ払いなんかじゃなくて男同士の恋人だ。

 

昼間はひた隠しにしていた本性を、夜になると解放し、繁華街の人混みに紛れて肩を寄せ合う秘密の関係。

 

嬉しいシチュエーションだけど、今のチャンミンは嘘の姿であるからして、素直に喜べない。

 

と言いつつも、やっぱり嬉しくて、相反する想いで俺の心は大混乱だ。

 

(ええい、もうどうにでもなれ)

 

「俺...チャンミンのことが...」

 

言いながら、チャンミンのふさふさとしたまつ毛がゆっくりと、まばたきに合わせて伏せたり開いたりする様から目が離せずにいた。

 

「すき...」

「ユンホさん、ストップ」

「!」

 

開きかけた口が、チャンミンの片手にすっぽりと覆われた。

 

運ばれてきた飲み物などが、テーブルの上に出揃うのを見守る。

 

その間、チャンミンの手は俺の口を塞いだままだ。

 

店員のドン引きしているだろう顔を見るのが怖くて 俺は顔を背けたまま。

 

いちゃいちゃの真っ最中の、青年サラリーマン2人組。

 

だってさ、もう片方のチャンミンの手は俺の指にからんだままなんだぞ。

 

チャンミン、すごいよ。

 

俺もわりとスキンシップに抵抗がない質だし、恋人相手と深い関係になるのに躊躇して、引き延ばしたりなんかしない。

 

好き→デート→告白→交際→デート→ベッドイン...の展開は早い方だが...早い方だが...。

 

チャンミンのキャラと今とのギャップが大きくて、彼の言動にいちいち驚嘆していて...はぁ、疲れる。

 

「はい、ユノさん。

邪魔ものは去りました。

どうぞ、続きをお話しください」

 

手の平を見せて俺を促す。

 

「あ、ああ」

 

「俺は...」

 

『惚れている』...いや、『好きだ』の方がいいかな...のひと言にここまで緊張するとはな。

 

顔を斜め左に傾けると、濃い眉毛の下の丸いカーブを描いた眼が食い入るように俺を見ていて。

 

脇の下が汗でびちょびちょだ、匂っていなければいいのだが。

 

こちらが焦げてしまいそうな直球の視線から逃げずに、俺も目力をこめて返球する。

 

 

「お前が、好きだ」

 

チャンミンの唇の端が、ぴくりと痙攣した。

 

言ってしまった...やっとで、はっきり告白してしまった。

 

「......」

 

「好きだ」

 

「......」

 

ん?

 

聞こえなかったのか?

 

チャンミンはガチな表情のままフリーズしている。

 

「チャンミン?

好きだ、って言ってるんだけど?」

 

「......」

 

「チャンミン」

 

「......」

 

不安感が立ち込める。

 

これまでのチャンミンの態度が、もしかしたら全部演技だったどうしようの念が浮かんできた。

 

まさか本当に、愛の告白をしてくるとは予想していなくて、

「やだぁ、ユンホさんったら本気の告白してくるなんて!どうしたらいいのかしら、フォローできないわ!」とかなんとか...。(チャンミンの台詞がカマっぽくなってしまった)

 

違うな。

 

チャンミンの焦点はどこにも結ばれておらず、空のどこかにいってしまっている。

 

「チャンミン?」

 

繋がれた手を揺すってみたら、「ああ!!」と微動だにしなかったのが解けた。

 

「すみません...」

 

前髪を左右に撫でつけるチャンミンの両耳が赤い。

 

「びっくりしてしまって...」

 

「嫌か?」

 

不安な俺は、そうっと上目遣い。(チャンミンの癖がうつってしまったのかな)

 

「いいえ。

感激に浸っていました。

すみません...よその世界にいっちゃってましたね。

ご心配をおかけしました」

 

「そっか...」

 

チャンミンのリアクションについていけない時がある、とチャンミン録にメモをした。

 

「はあ」

 

ため息をついたら、耳ざとくバンビの耳はキャッチして、

 

「なんですか。

ため息ですか」

と、眉根にしわをよせた。

 

「なんだか、疲れちゃってさ」

 

告白への回答を貰えていなかった俺は焦れていて、さりげなくチャンミンを責めてみた。

 

「あとで栄養ドリンクを買って帰りましょう。

今日はクレーム対応が大変でしたからね。

お疲れ様です」

 

「あのなー、そういう意味じゃないんだって」

 

「分かってます」

 

「は?」

 

「ちょっととぼけてみただけです」

 

「たのむよー」

 

テーブルに伏せたいが、チャンミンに片腕をホールドされていてそれも出来ない。

 

ぶわりと熱い息が耳に吹き込まれた。

 

そして、囁かれる。

 

「...好きです」

 

今度は俺の方が、フリーズしてしまった。

 

 

 

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