(7)会社員-恋の媚薬-

 

(連れションか?)

 

俺の手を引いたまま、トイレへ入ろうとするチャンミン。

 

「チャンミン!

2人とも席を離れたら、物騒だろう?」

 

席に置きっぱなしのバッグが気になり、俺はドア前に立ちはだかった。

 

「お前が先に行け。

俺は待っているから」

 

席に引き返そうとしたら、二の腕がガシっとつかまれ、勢い余った俺は、後ろに立つチャンミンの固い胸に抱きとめられた。

 

「なんだよ?」

 

振り返ると肩傍に、さっきまでのとろけた表情とはうってかわって、チャンミンの真顔が迫っていた。

 

真顔といっても、オフィスでの生真面目な固いものとは違う。

 

この表情は...。

 

チャンミンの意図をなんとなく察して、「それはマズイ...ここではマズイだろ」

 

心中でたらりと冷や汗をかいていたら、

 

「ユンホさん!

抵抗しないでください」

 

チャンミンは小声でぴしゃりと言う。

 

おいおいおいおい!

 

制止むなしく、あれよあれよとトイレの中に押し込まれてしまった。

 

後ろ手で鍵をかける音に、俺は行き止まりに追い詰められたネズミの気持ちになった。

 

「ユンホさん...」

 

「チャンミン、落ち着け。

な?」

 

まあまあと、なだめる。

 

「僕はこれでも、とても緊張しているんです」

 

「とても緊張している者の行動じゃないぞ?」と、心中でつぶやいた。

 

ここは2人入ればぎゅうぎゅうの、男女兼用の狭い個室。

 

互いの身体は、ほぼ密着している。

 

俺は便器をまたいでいる姿勢で、不安定極まりない。

 

再び身体が熱くなってきているのか、チャンミンの額には汗が浮かんでいる。

 

きりっと直線的な眉の下の、二重瞼の眼がギラギラと光っている。

 

眼がこえぇ。

 

まあまあという風に、上下していた俺の両手が止まってしまう。

 

「わっ!」

 

俺の両肩がガシっと捕らえられた。

 

事務作業に向いている、神経質そうな細い指には似つかわない力で。

 

「ユンホさん!

今からキスをします!」

 

「えっ?えっ?えっ?」

 

俺の返事も待たずに、斜めに傾けたチャンミンの顔がすっと近づいてきた。

 

真一文字に引き結んだ唇だった。

 

よろめいた俺の腰が当って、真後ろのタンクがゴトリと音をたてた。

 

「......」

 

チャンミンの唇は静止したままで、ただ俺の唇にぎゅっと押しつけただけのものだった。

 

「......」

 

ウメコの店にいる時から、太い二の腕や透けた身体のライン、汗と体臭といった、下腹部を刺激するような男くささを発散し続けていたチャンミン。

 

こんなチャンミンの唇に触れたら、下半身の欲望のまま唾液まみれのキスになりそうだと、密かに予想していたのだが...。

 

そんなんじゃない。

 

エロさのない、まるでファーストキスみたいなそれ。

 

俺の両腕は、チャンミンの背を抱くこともせず、宙に浮いたままだった。

 

ピュアだ。

 

このキスは、なんてピュアなんだ。

 

舌の出し入れ無し、重ねなおすことも無し、食むことも無し。

 

ただ押し当てるだけのキス。

 

ビックリ仰天の俺だったから、当然目は見開いていて、視線を落としてチャンミンの様子を窺う。

 

そこには、閉じたまぶたと扇形に広がるまつ毛、首元から漂う甘いのに男らしい体臭。

 

じんと感動していたら、パチッとチャンミンのまぶたが開いて、慌てた俺は目を閉じた。

 

「......」

 

ふっと唇が解放され目を開けると、チャンミンは泣きたいのか笑いたいのか、どちらともつかない顔をしていた。

 

「...えっと...?」

 

どぎまぎと言葉が見つからずにいると...。

 

「ユンホさん!

僕とお付き合いしてください!」

 

「え?」

 

「僕と交際してください!」

 

トイレで口にする台詞じゃないだろう?

 

順番が前後していないか?

 

キスが先で、愛の告白が後か?

 

大人の恋愛においては、俺も経験済だが、肉体同士の接触が先になることの方が多々ある。

 

だけど、目の前の男に限っては、その辺りの順序を守りそうだったから、ついさっきのキスは想定外だった。

 

「お願いします!」

 

深々と頭を下げられた。

 

「そのつもりでいるんだけど...?」

 

「ホントですか!?」

 

頭を下げた状態での上目遣い。

 

やっぱり、可愛い。

 

「さっき自分で、『カップル成立ですね』って言ってただろ?

俺はお前が好き、お前も俺が好きってことは、そういうことだろ?」

 

「...そうです」

 

さっきまでの勢いはどこへやら、今度は眉尻を下げ、半泣きの顔でぽそりとした声。

 

「席に戻りましょう」

 

「え!?」

 

続きの言葉があるものだと思っていただけに、くるりと回れ右をしたチャンミンに拍子抜けしてしまった。

 

「いや...俺は...用を足してから」

 

「そうですか。

...ごゆっくり」

 

チャンミンは去ってゆき、ドアが閉まる。

 

「はあぁぁぁ」

 

俺は便器に腰掛け、がっくりと頭を垂らして、深く唸り混じりのため息をついた。

 

疲れた...マジで疲れた。

 

チャンミンは媚薬で大胆になっているが、性格まで変えてしまうことは出来ないだろう。

 

だから、素のチャンミンはあんな風なんだ、きっと。

 

チャンミンが分からん。

 

次の行動が読めない。

 

どこまでが素の姿で、どこからが媚薬で増幅されたものなのか。

 

さっぱり分からない。

 

俺は、なかなかどうして、ユニーク過ぎる男を好きになってしまったようだ。

 

俺のことが好きだと耳元で吹き込んだチャンミン。

 

いくら媚薬の力が強力だったとしても、全く好意のない者相手にキスまで出来ないだろう。

 

むすりとした態度の下で、ほんの少しは俺に好意を抱いていたんだよな?

 

憧れていた、と言っていたし...。

 

そう思っていいのか?

 

「そっか!」

 

声に出し、頭を上げた。

 

明日の朝になれば、全てが分かるじゃないか!

 

今夜のことで多少なりとも(いや、かなり)、俺たちは接近できた。

 

媚薬の効果が消えても、俺とやりとりの記憶は残っているはずだ。

 

自身が発した言葉も、俺の言葉も覚えているはずだ。

 

それに...。

 

唇に触れる。

 

高校生同士みたいなキス、珈琲の香りがした。

 

「よし!」

 

明日の朝になれば、はっきりする。

 

チャンミンの待つ席へ、俺は戻った。

 

 

「あれ...?」

 

席は空っぽだった。

 

チャンミンの革のバッグも、コートも、マフラーもない。

 

紙ナプキンに、ちんまりと小さい几帳面な文字。

 

『お先に失礼します。

頭を冷やします。

ごめんなさい』

 

 

「なんだこりゃ」

 

ご丁寧に、紙幣が1枚挟んであった。

 

「マジかよ...」

 

チャンミンは、俺を残して店を出ていってしまったのだ。

 

わけがわからない男だ。

 

 


 

 

「チャンミン!」

 

店を飛び出したところで、チャンミンがどこへ行ったのか見当がつかない。

 

好きだ好きだと想いをつのらせていたのに、俺はチャンミンのことをほとんど知らない。

 

独り暮らしなのか、最寄り駅はどこなのか。

 

今さら気付いたことだが、なんてこったい、チャンミンの携帯電話番号も知らないのだ。

 

雑踏の中、ぴょんと突き出てるだろうチャンミンの頭を探した。

 

見つかるはずがない、か...。

 

チャンミンを旧友の店に連れていって、ゲテモノを共に飲んで、色っぽい顔して「好きです」と告白タイム。

 

シャツを脱ぎだすは、トイレに連れ込まれてキスされるは、「交際してください!」発言だは...なんてめまぐるしい一夜だったか...。

 

今夜、最大の収穫はこれだ。

 

チャンミンは絶対に素直な性格だ、と確信したことだ。

 

俺には効き目がイマイチ(というか、全然)だった媚薬が、チャンミンには恐ろしい程効いて、その素直さが可愛かった。

 

チャンミンがホモなのかバイなのか、それともヘテロなのかは分からない。

 

もしヘテロだったら、一晩限りとはいえ惚れ薬で男の俺にメロメロになってしまってお気の毒だ。

 

ところがここで、チャンミンの素直さを考慮にいれてみる。

 

あそこまで媚薬が効いてしまったのは、「意に反したものではない」のでは、と思い至るのだ。

 

つくづく自分にとって都合のよい分析結果だ。

 

程度の差はあれど、「チャンミンはユンホさんに好意を抱いていた」

 

そうに決まってる!

 

「よし!」と俺は小さくガッツポーズする。

 

俺の場合、過去の恋人は全員、女性だった。

 

けれども、深層ではバイの傾向があるんじゃないかと...特にチャンミンと出会ってからそう思うようになった。

 

綺麗なものは綺麗だ。

 

綺麗なだけじゃあ、目で愛でて満足で済むところ、チャンミンの場合はキャラクターがユニーク過ぎる。

 

綺麗な見た目に、一緒にいて飽きないキャラクター。

 

最高じゃないか。

 

さて、これからどうしよう。

 

チャンミンの熱っぽい視線にさらされて、「好きだ」と囁いてしまった。

 

それに加えて、「ずっと前から気になっていたんだよ」と告ってしまった。

 

大赤面ものの告白も、どうせ明日には媚薬は体外に排出されてしまう、と知っていたからできたことだ。

 

明日の朝、出勤してきた俺にチャンミンは(始業1時間前に出勤してきているのだ。新入社員かよ)、不愛想な「おはようございます」を、ぼそりとつぶやくのだろうな。

 

地下鉄駅までの道のりの間、以上のことをつらつらと考えていた。

 

「さむっ!」

 

ぴゅぅっと強いビル風に、コートの衿があおられた。

 

ポケットに手を突っ込むと、ペーパーナプキンに指先が触れた。

 

「『頭を冷やします』...か」

 

頭なんか冷やさなくていいぞ。

 

汗をだらだらかいて、色っぽく目尻を赤く染めて、俺を押し倒さんばかりに情熱的なチャンミンのままでいてくれ(だって、面白いから)。

 

バッグに突っ込んでいたマフラーを首に巻く。

 

「あ...」

 

それは俺のものじゃなく。チャンミンのものだった。

 

色味が紺色でチェック柄までは同じだったが、素材が違った。

 

カシミア製のそれはしっとりと柔らかい。

 

地味ダサ男なのに、持っているものは上質なんだよなぁ。

 

しっかりきっちりしたチャンミンがうっかり間違えていくはずがない。

 

これが小技だとしたら、チャンミンの奴...相当な小悪魔だ。

 

(つづく)

 

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