【BL短編】MOMO

 

「あなたのことはもう、好きじゃありません」

 

別れましょう、とチャンミンは言った。

 

そして、「ごめん」と謝った。

 

チャンミンは一体、いつから別れの言葉を口にする機会をうかがっていたのだろう。

 

一週間前?

 

一か月前?

 

全然気が付かなかった。

 

チャンミンが別離を考えていた側で、俺は呑気に冷蔵庫の新調を考えていたのだ。

 

料理好きのチャンミンの為に。

 

あっさりうなずけない。

 

4年だぞ?

 

「嫌だ」とはっきり口にした。

 

「俺はチャンミンのことが好きなんだ」

「嫌なところがあれば直すから」

 

「別れるなんて言うなよ、これまでうまくやってきたじゃないか」と懇願した。

 

けれど、無駄だった。

 

熟考型のチャンミンが下した決定は、最終決定事項なのだ。

 

チャンミンは情にほだされて決定をひるがえすような男じゃないことは、側に居続けた俺が知っている。

 

チャンミンと暮らした部屋に、俺は一人残された。

 

チャンミンのいない生活なんて想像できない。

 

息の根が止まるほど俺は苦しんだ。

 

耐えきれなくて、声が聴きたくてチャンミンの携帯電話を鳴らしてしまう。

 

「どうしたの?」って電話に出るから余計に俺は苦しい。

 

言葉が出なくて黙りこくってしまうと、聞きなれた声で「ごめん」と謝るのだ。

 

「ごめん、本当にごめん」って。

 

俺はもう、チャンミンの「恋人」じゃない。

 

チャンミンと過ごした濃厚な4年間、そう簡単に忘れらるものじゃない。

 

その記憶を上書きするための新たな恋...いいと思った男を見つけるのは簡単じゃない。

 

 

 

 

チャンミンとの思い出と気配を残した部屋に、俺は住み続けた。

 

かすかな期待もあった。

 

いつかチャンミンが、ふらっと戻ってきてくれるかもしれない、と。

 

どれだけ待とうと、彼は戻ってこないことはわかっていたのに。

 

チャンミンの性格なんか、よく知っているにも関わらず。

 

意地もあった。

 

敢えて苦しい状況に身を置いて、歯を食いしばって生きるのだ。

 

負けるもんか、と。

 

「時間が解決するさ」「新しい恋を見つけなよ」なんて、当人にしてみたら、なんて救いのないものだろう。

 

友人たちの失恋を慰めてきた自分の無責任さに、かつての自分を蹴り飛ばしたくなった。

 

仕事に没頭していれば、じくじく痛む心から気をそらしていられる。

 

1日1日を刻むように、痛みが和らぐのを待つのだ。

 

今までの失恋もそうしてきた。

 

でも...心の中では、たった1つの願いが灯り続けている。

 

その願いが、自分を苦しめているにも関わらず。

 

どうかお願いだ。

 

チャンミン、戻ってきて欲しい。

 

 


 

 

ソファを新調しようと、急に思い立った。

 

目障りになってきていた。

 

かつてチャンミンと一緒に選んだものだった。

 

この上で何度となく愛し合ってきた。

 

物には罪はないが、当時の情景が浮かぶようなものは一掃したくなったのだ。

 

奮発して既製品ではなくオーダー品を注文した帰り、喉が渇いて目についたカフェに入った。

 

(カフェモカにしよう)

 

カウンター上のメニューを見上げながら、自分の順番を待つ。

 

俺の前の客の会計が、なかなか済まないことに気付いた。

 

店員もその客も困っていた。

 

この洒落たカフェは、現金での支払いは受け付けていないのだ。

 

彼が差し出したカードは、高いエラー音を立てて拒否された。

 

それならばと、財布から紙幣を出しても店員から首を振られて、心底困っていた。

 

(外国人か)

 

俺の後ろで、イライラを隠そうとしない若い女性がいる。

 

見かねた俺は、「一緒に会計してください」と2人分の会計を済ませた。

 

彼は目を丸くして、店員からカードを受け取る俺の顔を凝視している。

 

その若い男の顔を真正面から見て、一瞬チャンミンに似てる、と思った。

 

注文した飲み物を受け取って、俺と彼はなんとなく一緒に店頭に置かれたベンチに並んで腰を下ろした。

 

彼の横顔を、ちらちらと観察していた。

 

浅黒い肌はなめらかだった。

 

長い首、長い前髪が片目を覆っていた。

 

国籍が分かりにくい、全人種のいいところを全部凝縮させたような顔をしていた。

 

洗濯を繰り返して薄くなったTシャツ。

 

開いた穴から、膝がのぞいていた。

 

きっとは着古した結果、擦り切れて開いてしまったのだろう。

 

でも、彼が身に着けるとファッションとして成立してしまう位、身体のバランスがよかった。

 

ぱっとこちらに振り向いた彼と、バチっと目が合った。

 

よく見ると、彼は全然チャンミンに似ていなかった。

 

どこにいても、チャンミンを探す俺だったから、背の高い男を見ると誰でもチャンミンに見えてしまうのだ。

 

それくらい、俺はチャンミンのことを引きずっていた。

 

「ありがとうございます。

出してくれたお金、今払います」

 

たどたどしく言うと、引き結んでいた口元を緩めてひっそりと笑った。

 

笑っているのに、哀しげだった。

 

 

 

 

彼の名は「モモ」と言った。

 

本名ではないかもしれない。

 

その可愛らしい名前を初めて聞いたとき、ぷっと吹き出してしまったが、俺が笑う理由が分からないモモは曖昧な笑いを浮かべた。

 

ひっそりと、哀しげに。

 

モモの来歴は分からない。

 

言葉が不自由なこともあるが、率先して自身のことを語りたがらなかった。

 

機械油が指の節を染めており、肉体労働の末硬くなった手の平に反して、短く切られた爪や細くて長い指が不釣り合いだった。

 

そう。

 

モモから受ける印象は、アンバランスさに尽きる。

 

散髪のタイミングを逃した長い前髪の下から、知的で思慮深い目元が見え隠れしている。

 

色褪せたシャツの背中は真っ直ぐで、迷いのない脚運び、破れた穴から覗く膝が上品だった。

 

膝頭に上品も何もないだろうけど、俺はそう思ったのだ。

 

俺の家に来ないか?と冗談めかして誘ったら、しばらく視線を彷徨わせて逡巡した後、こくりと頷いた。

 

捨て猫を拾ったかのようだった。

 

縋るような哀しげな眼で見上げられると、その思いは強まる。

 

そんな関係でも、俺は全然構わなかった。

 

枕が一つしかなかったから、俺とモモは身を寄せ合って眠った。

 

浅黒くなめらかな肌に鼻を押しつけると、モモの香ばしい匂いがする。

 

長いまつ毛を伏せて眠るモモを...眠っている時だけはあどけないのだ...誠心誠意をもって愛そうと思った。

 

 


 

 

なぜ別れを切り出してしまったのか、あの頃の自分の心理が未だに分からない。

 

一緒に住んでいた部屋を出た後、しばらくの間何度かユノから電話があった。

 

「別れたくない。

チャンミンがいないと駄目なんだ」と。

 

僕は首を横に振り続けた。

 

ユノのことは好きだったのに、彼との関係に疲れていた。

 

前向きで努力家で、からりとした明朗快活な性格のユノと、僕とは正反対だった。

 

花で例えると...ああ、駄目だ、全然出てこない...南国の...いや、高貴さも備えているユノだから薔薇かな...。

 

とにかく。

 

ユノの隣にいると、卑屈な思いと息苦しさを抱えるようになったんだ。

 

僕とはあまりにも違い過ぎる。

 

華やかで美味しそうな甘い蜜をたたえたユノに、吸い寄せられる者が多くて当然だ。

 

「俺にはチャンミンだけだよ」

 

嫉妬と不安を敏感に察したユノは、念を押すように何度も囁いてくれた。

 

「チャンミン以外には一切、指は触れていない」

 

でも、カチカチに凝り固まってしまった僕には、「自信をもて」の言葉は素通りしてしまう。

 

僕の心は冷えていった。

 

ユノの魅力が...明るくて温かくてまぶしさやらが、不快なものと成り下がった。

 

生活を共にして4年。

 

限界だった。

 

 

 

 

冬物のコートを新調しようと、街に出ていた。

 

大きな包みを抱えたユノを見かけた。

 

あの日、僕の前で顔をくしゃくしゃに歪めたユノ。

 

黒目がちの眼からあふれた涙が、ユノの白い頬を濡らしていて、後にも先にも、涙を流したユノを初めて見た日だった。

 

ユノは一人ではなく連れがいて、ユノと同じくらいに背の高い男だった。

 

垢抜けない、根暗そうな男だった。

 

男の背に添えられたユノの手に、愛情を感じた。

 

遠くにいるのに、分かった。

 

その男にユノは何かを言っていて、聞き取れなかったその男はユノに顔を寄せていた。

 

2人の距離が近い。

 

その男に包みを...クッションか枕のようなもの...を手渡している。

 

買い物の途中らしい。

 

ユノの笑顔が穏やかだった。

 

僕の大好きだった笑顔だ。

 

嫌だと思ったらどこまでも冷たくなれる僕は、その笑顔を凍り付かせたんだ。

 

酷い言葉を吐いた。

 

「そこまで言われてしまったら...致命的だな」と、ユノはひっそりと笑った。

 

ユノを傷つけてしまったことに、かすかな快感すら感じていたんだ。

 

自分が優位に立てたみたいで。

 

ところが今、僕の胸がズキッと、何かに刺されたかのように痛んだ。

 

包丁を突き立てられた活きのよい魚が、びちびちっと跳ねるみたいに。

 

ユノに別れを告げた時には、こうまで感じなかった程の鋭い痛みだった。

 

ユノは僕に何か酷いことを、したか?

 

いいや、何も。

 

それどころか、最後まで「好きだ」と言ってくれた。

 

ユノは、ここにいる僕に気付かない。

 

僕はその場に立ち尽くして、通り向こうの2人を姿が見えなくなるまで見送った。

 

通行人が邪魔くさそうに僕を避けて通り過ぎていく。

 

手放したのは僕の方だ。

 

胸を痛めなければならないのは、僕の方だ。

 

ユノの笑顔を守るのは、あの男なんだ。

 

 

(おしまい)

 

 

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