この二人に肉体関係はなかった。
「セックスはできないけど、いいのですか?」
付き合って欲しいとユノがチャンミンに告白した日の、チャンミンの言葉だった。
「俺が若すぎるから?」
できない事情があるのだろうと思ったが、ユノはチャンミンを試すような質問で返した。
「僕はセックスが嫌いなんだ。
...嫌い、というか、いろいろと支障があってね」
悲し気な表情でチャンミンはそう言った。
「僕に問題がなかったとしても...。
裸になって抱き合って、アソコとアソコを繋げることに何の意味がありますか?」
そういうことにほとほと嫌気がさしていたユノは、「同感だ」と頷いた。
「僕といると溜まりますよ?
ムラムラしませんか?」
「そうだなぁ。
ムラムラっとするけど、その子とどうこうしたいとは思わないね。
自分で処理した方が、うんと気持ちがいい」
「ふぅん。
ユノは変わってる子ですね」
「俺に限らず、そういう人は一定割合でいると思うよ。
セックスが全てじゃあないよ」
「同感です」と言って、チャンミンはユノの方へ片手を差し伸ばした。
「俺は...」
ユノはチャンミンの手をぎゅっと握った。
「これくらいがちょうどいい」
「僕も」と、チャンミンは微笑んだ。
・
チャンミンは一度だけ、ユノをひどく怒らせたことがあった。
交際を始めてまだ日の浅かった頃、チャンミンは知り合いの娘をユノに紹介したのだ。
「ユノにぴったりだと思って。
お似合いです」
気取った感じのレストランで、案内されたテーブルで女の子を紹介され、ユノのワクワクした気持ちが一気にしぼんだ。
3人で食事をした後、女の子の家まで送るようにと2人をタクシーに押し込み、ユノの手に紙幣を握らせた。
タクシーを見送ったチャンミンは、「これでよかったんだ」とつぶやいた。
ユノと交際するようになってから、足が遠のいていた気に入りのバーで、気に入りの席につく。
ユノのような溌剌とした若者は、こんな店は似合わない。
ヤニで黄ばんだ時代遅れのポスター、薄暗く、何度も書き直されたメニュー、べたべたするテーブル、古くて汚い店内だけれど、美味しいおつまみを出してくれる店。
今ここでタバコが吸えたらサマになるのにな。
代わりに野菜スティックを齧る。
「これでよかったんだ」と何度もつぶやいた。
当時のチャンミンが、恐れていたこと。
ユノが...。
いつか自分を捨てて、若い子の元へ行ってしまうのかと、怯える毎日は御免だ。
それならば、自分からお膳立てしてやったほうが、うんとマシだ。
これでよかったんだ。
閉店までグラスを重ねたチャンミンは、ふらつく足どりで帰宅した。
霧のような雨が降っていて、息が白い。
「...ユノ...!」
門扉にもたれて両膝を抱えて座る美しい青年、ユノがいた。
「いつから居たの?」
髪がしっとりと濡れていて、唇が震えていた。
まだ一緒に暮らしていなかった頃だ。
ユノは突き刺すように鋭い眼光で、チャンミンを睨んだ。
「...二度とするな」
押し殺した低い声だった。
「......」
「ああいうことは、大嫌いなんだ」
チャンミンはユノの手を引いて立ち上がらせた。
氷のように冷たい指だった。
チャンミンは照明をつけ、石油ストーブをつけ、お湯を沸かした。
「ユノはどうして僕に構うの?
ユノからしたら、僕はおじさんですよ?」
湯気立つ紅茶のマグカップをユノに手渡した。
「おじさん、なんて言うな。
俺はおっさんと付き合ってるつもりはない。
世間一般的には、おっさんかもしれないけど」
「そうですね」
「チャンミンは、あのまま俺と別れるつもりだったんだろ?
俺とあの女の子をくっ付けて」
「だって...」と言いかけたが、チャンミンは口を閉じた。
若いこの子に、年老いていく恐怖を語っても何一つ理解できないだろう、と思ったからだ。
湖で羽を休める渡り鳥。
いつ、彼方へ飛び立ってしまうのだろうと、湖畔から怯えながら見守る僕。
僕の片手には、鳥籠がぶら下がっている。
ユノだったら...喜んで籠に入るだろう。
...出来ない。
出来なかったから、代わりに空砲を打った。
遠く彼方へ飛んでいきなさい。
ユノは飛び立たなかった。
自ら風切羽根を切ったのだ。
・
代わりに「二度としない」と約束した。
そこでようやくユノは笑顔を見せたのだった。
・
「何の本を読んでいるの?」
チャンミンとユノのいつもの日課、就寝前のお楽しみ。
ベッドに入って、思い思いのことをして過ごす時間。
静かで平和なひととき。
「『ヘンリ・ライクロフトの私記』。
架空の人物のエッセイです」
「面白いの?」
「だらだらと、ヘンリが死ぬまでの日々や思いを書き綴った本です。
身の回りのものひとつひとつを細かく描写していてね。
主人公は身近のものごとを、1つ1つ見逃さないで、1つ1つコメントしながら暮らしているんです」
「じゃあ、その人の毎日はさぞ楽しいだろうね」
チャンミンの性質を知っていたユノはそう言った。
チャンミンといてユノが感心すること。
それは、チャンミンが日々漏らすつぶやきが的確で、辛辣なときもあるが、そこに悪意が込められていないこと。
「そういう生活を送りたいです。
気楽にのんびりと。
大きな事件もなく退屈なんだけど、1日をかみしめるように大事に生きたい」
「俺とそういう風に暮らしたらいいじゃないか?」
「もう暮らしてるでしょう?」
「ははは、そうだね」
雑誌をナイトテーブルに伏せると、ユノは布団にもぐり込んだ。
「チャンミン...。
長生きしてね」
チャンミンのお腹に抱きつくと、頬をこすりつけた。
「口が悪い子ですね。
そこまで年寄じゃないですよ」
「俺も早く、おっさんになりたい」
「僕の方が先に死んでしまいますよ?」
「注意深く生きていれば、長生きできるよ。
でね、俺たちはほぼ同じ時期に、あの世に逝けるよ、きっと」
「そうなったら、素敵ですね」
「チャンミンが死ぬまで、俺は側にいるからね。
だから、チャンミンも俺の側にいて」
「いますよ」
チャンミンはユノの頭を優しく撫ぜた。
ユノのことが愛おしくて仕方なかった。
いつの間にかこの若者に、深い愛情を抱いていたんだ、と思った。
「長生きしますよ」
「もし、チャンミンが先に死んでしまったら。
俺も後を追うよ。
毒を飲んで」
「怖いことを言うんですね。
そういう仮定の話は、やめましょうね」
「うん。
ごめんね」
ユノは頭をチャンミンの胸に預け、彼の力強く打つ鼓動を聞いていた。
「俺はこの人が大好きなんだ。
泣きそうになるくらい、大好きなんだ」と強く思った。
(おしまい)
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