<prologue>
エントランスのガラス窓越しに、彼は空を見上げる。
雨の勢いは、弱まる気配はなかった。
11月の日没は早く、彼はコートの襟元をかき合わせた。
吐く息が白い。
「参ったな...」
天気予報をチェックするのを忘れた結果がこれだ。
彼の名前はチャンミン。
29歳の青年で、ここで働き始めて1年になる。
植物の世話をする、という静かで寡黙な仕事内容だ。
おとなしい性格の彼にとって、今の仕事は性に合っていた。
5時には仕事をさっさと切り上げ、夕飯を買い、真っすぐ独り暮らしをしているマンションの部屋に帰る。
夕飯を済ませ、シャワーを浴び、Webニュースをざっと閲覧して、後はベッドに入る。
そんなシンプルなルーティンを繰り返す毎日だった。
しかし、単調な生活も、チャンミンは気に入っていた。
昨日から、風邪をひいたのか、熱っぽく、寒気がした。
今日は一日中、ぼんやりとしがちで、同僚に何度も注意され、午後からは頭痛が始まった。
あまりにぼんやりとしていて、スマホもタブレットも自宅に忘れてきてしまい、タクシーも呼べない状況だった。
こんな冷たい雨に濡れたら、もっと具合が悪くなりそうだ。
回れ右してオフィスで、雨が止むまで待とうか。
熱い珈琲でも飲みながら、オフィスのソファで横になろうか。
中には同僚が未だ残っているはずだ。
おしゃべりな同僚の話し相手をするには、身体がしんどすぎる。
それとも、雨の中飛び出して、徒歩10分のマンションまで走る。
ずぶぬれになるだろうけど、熱いシャワーを浴びて、解熱剤をのんで、毛布にくるまって寝る。
この選択が一番、現実的だ。
ズキズキと頭が痛む。
頭痛持ちのチャンミンにとって、頭痛はいつものことだが、熱のせいかふらふらするのが、不快だった。
(どうしようかなぁ...)
迷った末、チャンミンは、こめかみをもみながら、薄暗い廊下の先に煌々と明るい事務所に向かって歩き出した。
暖房が十分すぎるほどきいた事務所に入ると、ふっと身体の緊張がほどけるのが分かる。
部屋の端に、ひじ掛けが擦り切れた古びてるけど、大きなソファが置かれている。
目隠し用に3鉢並べたゴムの木の陰から、にゅうっと黒いブーツを履いたままの足が覗いている。
同僚のユノだ。
気配で気づいたのか、細身のパンツを履いたユノは飛び置き、
「あれ~?チャンミンじゃん」
と、驚いた様子。
「もう帰ったんじゃなかったっけ?
忘れ物かい?」
チャンミンは左右に首を振る。
ユノは手にしていたタブレットをサイドテーブルに置くと、チャンミンの目の前に立つ。
ユノは目を細めながら、チャンミンの顔をまじまじと見つめる。
「お前、ほっぺが真っ赤だよ。
大丈夫なのか?」
「いや・・・」
「風邪?」
「多分...」
「いつもの頭痛?」
「それもある」
「そっかぁ、辛そうだね」
そうだ!
風邪薬があったはずだよ」
この間、チャンミンは、無言でぼ~っと立っていただけで、ユノだけがバタバタしていた。
「ほら、ソファに寝ろ」
ユノはチャンミンの手を取りソファに無理やり座らせ、さらに肩に手をかけて横にならせる。
チャンミンの手は熱く、熱がかなり高いのが分かる。
「俺のひざ掛け貸してあげるから」
「コーヒーを淹れようか?
温まるよ」
無理をしても帰宅してしまえばよかったかな、と若干後悔していたが、甲斐甲斐しく世話をするユノに身を任せているチャンミンだった。
「......」
ふらふらするし、もっと熱が上がっているらしい。
「どれどれ」
目をつむっていたチャンミンのひたいに、ひやりと冷たい感触が。
(ああ、気持ちいいなぁ・・・)
素直にチャンミンは、そう思う。
「お前さ、めっちゃ熱いよ。
こりゃあ、39度くらいあるんでないか?」
「......」
「体温計なんてないしなぁ...」
デスクの引き出しをかき回す音がして、ユノはチャンミンの元へ駆け寄った。
「ほら、これ飲んで。
風邪薬」
チャンミンはぐらぐらする頭をこらえて口元に差し出された錠剤を、水なしでゴクリと飲み込む。
目を閉じてひざ掛けにくるまるチャンミンを、ユノはじっと眺める。
チャンミンは肩と背中を丸めて、眉間にしわを寄せている。
「苦しそうだね」
ひざ掛けが小さいせいか、彼が大きすぎるせいか、チャンミンの腰から下がむき出しで寒々しい。
(これじゃあ、寒いよな...)
(映画なんかじゃ、彼女だか彼だかが毛布にもぐりこんで裸になったりして、体温で温めるってのがパターンだけど。
こいつは男、俺も男。
できるはずがない)
「さて、どうしたものか・・・」
つぶやいて、事務所内をぐるりと見まわす。
「そうだ!」
ユノはラックにかかっていた、作業用のジャンパーを数着外して、チャンミンの上にかけていく。
「課長のやつは、ちょっとおやじ臭いけど、我慢しろよ」
「......」
自分のアイデアに満足したユノ。
給湯室の水切りラックから、チャンミンのマグカップを取り出し、インスタントコーヒーを適当に入れた。
白いマグカップの底に、油性ペンで『チャンミン』とある。
持ち主が分かるよう、本人に無断で書いたからだ。
(これに気づいたチャンミンは、むぅっとした顔をしてたな、そういえば...)
思い出し笑いをしつつ、ユノは電気ポットからお湯を注いで湯気のたつカップをチャンミンの元へ運んだ。
(...寝ちゃってる)
コーヒーのやり場に困って、そのままユノが飲むことにした。
サイドテーブルに置いたままだったタブレットを取り上げ、チャンミンの側に引き寄せたスツールに腰かける。
(チャンミンとまともに話すのって初めてかも...。
ってか、俺一人でしゃべってるんだけど)
ユノがチャンミンと同じ職場で働くようになって約1年だった。
ユノは同僚として毎日チャンミンを見てきたが、半年前ほどから頭痛に悩まされている彼が心配だった。
頭痛に風邪が加わってWパンチだもの。
可哀そうに。
(報告書でも作成するかな)
ユノはアプリを立ち上げ、熱いコーヒーをすすりながら、入力操作を始める。
薬が効いてきたのか、チャンミンは眠り込んでいた。
・
ひととおり作業を終えて、ユノはリストバンドで時間を確認する。
(はっ!もう9時か!帰らねば!)
すーすーと寝息が聞こえる。
ぐっと集中しててすっかり忘れていた。
ソファにチャンミンを寝かしておいたんだった。
チャンミンの様子を見に行く。
「おーい、チャンミン、寝ちゃった?」
ユノはチャンミンの肩を、軽く揺する。
「...よね?」
(叩き起こすのも可哀そうだし、
こんなでかいやつ抱えて帰れんしなぁ)
「困ったなぁ、こいつどうしよ」
ユノは腕組みをして本気で困ってしまったのだった。
(つづく)
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