義弟(68)

 

 

~チャンミン17歳~

 

 

義兄さんにぎゅっとつかまれた二の腕が痛い。

 

義兄さんに引っ張られる格好でエレベーターに乗り込んだ。

 

吸い寄せられるように会場に自然と足が向かってしまったのは、帰る前に義兄さんの姿をひと目見たいと思ったから。

 

どんな顔を見せたらいいのか分からなくなったのと、忙しい時にふらりと現れて迷惑そうな顔をされて傷つきたくなかったのと、X氏と遭遇したくなかったのと...とにかく沢山の理由が、僕に踵を返させたのだ。

 

それから、昨夜からなんとなく肌身に感じていた嫌な予感...。

 

「チャンミンと会うのはもう止めようと思う。

俺にはBがいる。

お前は17歳だ。

世間的に許されない関係は、もうよそう」

 

...こう言われそうな気がしたからだ。

 

それなのに、思いがけず義兄さんと鉢合わせになってしまい、大好きな人と偶然会えた嬉しさ半分、何の心の準備もしていなくて戸惑ってもいた。

 

「義兄さん?」

 

義兄さんは階数ランプを睨みつけたままで、僕を見てくれない。

 

不安と緊張がむくむくと膨らんで、吐き気がするほど胸を圧迫した。

 

僕は温かなマフラーに鼻をうずめた。

 

僕の腕をつかんだ手が緩み、義兄さんは「ごめん、痛かったよな?」と言った。

 

「大丈夫です。

会えるなんて、思ってもみなかったですから」

 

頭を持ち上げた目前に、義兄さんの充血した目...。

 

目の下には隈ができ、疲労の濃い青ざめた顔をしていた。

 

「ふうぅぅ...」

 

義兄さんの低く深いため息に、僕は絶望した。

 

エレベーターの片面はガラス張りで、上昇していくにつれ、地方都市の街並みと、それを取り囲む山々が眼下に広がった。

 

高層の建物はこのコンベンションセンターが唯一で、雨にけむる眺望は幻想的とも言えた。

 

でも、僕の気分はずんと下がる一方だった。

 

「話をしようか?」

 

「あのっ...僕、列車の時間があるんで」

 

「列車って...。

帰るのか?

明日のはずじゃ...」

 

そこで初めて義兄さんは、僕が到着した日と同様に、荷物で膨らんだバッグを背負っていることに気付いたようだった。

 

僕は無言で首を振った。

 

なぜ予定を1日繰り上げたのか、義兄さんは尋ねなかった。

 

姉さんがやってきた今、僕がいるのは邪魔なんだと悲しくなった。

 

「ここにいても暇だよな。

ごめんな、チャンミン」

 

義兄さんの手が伸びてきて、僕の頭をくしゃりと撫ぜた。

 

その手はいつものように優しかったけど、まるで子供相手にするようで嬉しくない。

 

「止めてください」

 

そして、「帰るな」と引き留められなかったことに、もっと悲しくなった。

 

撫ぜる手を払いのけられた義兄さんは、傷ついた顔をしていた。

 

多目的ルームがある7階に僕たちはいた。

 

「ここなら誰もいない。

俺たち作家の控室になっている。

会場スタッフの休憩室は5階だから、滅多に人はこないよ」

 

「...でも」

 

義兄さんは逡巡のせいで足を止めてしまった僕の背を押し、部屋に入るなりドアを閉め、鍵をかけてしまった。

 

そこはがらんと広々とした部屋で、正面に腰高の窓があり、ブラインドの隙間からグレーの空が見えた。

 

左奥に折りたたみ椅子が積み重なり、その手前に置かれた3人掛けのソファには、仮眠に使っていたのか毛布が丸まっていた。

 

ホワイトボードに進行表が、折りたたみテーブルの上には、ポットや紙コップ、ペットボトルのお茶、ラップをかけたサンドイッチの皿などが置かれていた。

 

僕は室内を観察することで、義兄さんと二人きりになって気まずい気分を隠した。

 

「チャンミン。

ここに座って」

 

義兄さんに促され、僕は素直に折りたたみ椅子のひとつに腰を下ろした。

 

「......」

 

僕はうつむいたまま、太ももに置いたこぶしを見つめていた。

 

義兄さんが何を言い出すのか...とても怖くて、彼の顔を見られない。

 

「チャンミン。

こっちを向いて」

 

その声がとても優しくて、いよいよだ、と僕は覚悟した。

 

僕の気持ちが、どうして「別れ」にまで飛躍してしまったのか...分からない。

 

義兄さんの言動の断片が少しずつ積み重なり、形となったものが、「別れ」の気配を漂わせていたからだ。

 

僕がしでかしたことが大きな引き金で、そこに姉さんまで登場してしまったらもう...耐えられない。

 

義兄さんと別れたくないけれど、義兄さんといると苦しい。

 

相反した感情を抱えていられるほど、僕の心は強くない。

 

「俺を見て」

 

義兄さんは僕の両肩に手を置き、僕を覗き込んだ。

 

疲れた顔...上目遣いの眼は凪いだ湖面のように穏やかで、義兄さんが口にすることとは、いい知らせなのか悪い知らせなのか、どちらともとれた。

 

緊張のあまり、口の中が乾いていた。

 

「今朝は悪かった。

チャンミンは辛かっただろう。

自分と置き換えて想像してみたんだ。

そうしたら...とても辛かった」

 

「...別に。

今に始まったことじゃありません」

 

彼ら夫婦が二人並んで立っている姿は、もう見たくない、と思った。

 

哀しいことに僕らは親族同士で、その光景を二度と目にしないわけにはいかないのだ。

 

「...そうだよな。

辛い思いをさせて、悪かった」

 

「謝らないでください。

僕が好きになってしまったのが悪いんです...奥さんがいる人を」

 

「...チャンミン」

 

義兄さんは僕の足元に膝立ちし、僕を引き寄せ胸深く抱きしめた。

 

「チャンミンがそう言うのなら...奥さんの弟を好きになってしまった俺も悪いね」

 

「...え?」

 

「なあ、チャンミン。

辛いか?

俺といて辛いよな?」

 

以前の僕だったら、

 

「平気です。

義兄さんの側にいられるだけで、僕は十分です」

 

と、答えられただろう。

 

でも、今の僕にはそんな余裕はなかった。

 

強がったり、意地を張るのはよそうと思った。

 

だって、嘘は疲れる。

 

「...苦しいです。

...っ、うっ...。

義兄さんは奥さんがいて...っく...。

僕は他の人とヤッていたし、っ...っく」

 

「そうだよな。

うん、その通りだ」

 

義兄さんは僕の頭を抱き寄せ、背中をさすってくれた。

 

涙のシミを付けたらいけないと、頭を起こそうとしたけど、義兄さんはそれを許さなかった。

 

「僕は姉さんを裏切っているし。

...僕は子供過ぎて...うっ...んっ...。

義兄さんといるには、頑張らなくちゃいけなことばかりです」

 

「そうか...。

そうだよな。

辛いよな」

 

義兄さんの胸から、彼の低い声が響いて聞こえる。

 

義兄さんの匂いがする。

 

「義兄さんのことが好きなのに。

好きで好きでたまらないのに...。

頑張ってます。

僕は、頑張ってばかりです」

 

「そうだね。

チャンミンはこれまで、頑張ってきた。

...俺も。

チャンミンが大事だよ。

とても大事だよ」

 

鼻先にぶらさがるネクタイを見て、今朝の夫婦のやりとりを思い出してしまった。

 

「...大事なんてっ...嬉しくない」

 

僕は「好き」の言葉だけを聞いていたい。

 

僕を想ってくれるこその言葉なのに、「大事だよ」の次に続くであろう言葉はきっと、僕が聞きたくないものだろうから。

 

「チャンミンが好きだよ。

34歳のおじさんが、高校生を好きなんだぞ。

それも奥さんの弟だ。

好きになってはいけない人を、俺は好きになってしまった。

17も年下の子を...それも男の子を本気で好きになるなんて。

未だに驚いている」

 

本気...。

 

「俺たちは『不倫』をしている。

咎めを受けるのは俺だ。

チャンミンは悪くない」

 

「それじゃあ...義兄さんだけが悪い、ってことですか?

悪いことをしてるって、義兄さんは思っているんですか?」

 

「そうだよ」

 

ドキン、とした。

 

義兄さんははっきり認めた。

 

この1年以上の間、義兄さんは罪悪感を抱きながら僕と会っていたんだな。

 

「僕とのこと...っく。

後悔してるんですね?」

 

止まりかけた涙がまた、膨らんできた。

 

「後悔...してるんだっ...!」

 

鼻の奥がつんと痛い。

 

「しー、最後まで話を聞いて。

チャンミンを好きになったことは、後悔していない。

全く後悔していないよ。

チャンミンと出逢えてよかった、と思っている」

 

義兄さんの大きくて温かい手の平は、なだめるように僕の背を撫ぜ続けていた。

 

 

(つづく)

 

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