両手を彼女の枕元について、僕は彼女の寝顔を見下ろしていた。
彼女は眠っていた。
夢をみているのかもしれない。
閉じたまぶたが、震えている。
わずかに開いた口元から、アルコールの匂いがする。
口紅がほとんどはげた唇は、まだほんのりと赤みを残している。
あごの下まで口紅のこすれた跡があって、余計になまめかしかった。
彼女の口紅は、ほとんど僕の唇に移っているに違いない。
視線を下に下げていくと、むきだしの肩と簡単に引きちぎれそうに細いキャミソールの肩ひも。
途中まで下げられたスカートのファスナー。
僕は横たわっている彼女の上に四つん這いになって、こうして彼女をじっと見つめていた。
ああ、たまらない。
両脇についた手を、ぎゅっと固く握りしめた。
彼女の首の付け根に付いた赤い痕。
さっき僕が付けてしまった、赤い痕。
僕はもう、制御不能に陥りそうだった。
「チャンミン、あんた、いい加減にしたら?」
フライドポテトを咀嚼しながら、隣のナナが僕の脇をつついた。
次の講義までの2時間を、カフェテリアで僕らは時間を潰していた。
僕は彼女が出来ては別れるを、短いスパンで繰り返している。
フリーの時はセックスにあけくれるような、「軽い男」だ。
それにひきかえナナは、万年片想い。
あっという間に恋に落ち、思いつめ、真正面からぶつかって玉砕するを繰り返すのを、僕は3年間見ていた。
ちらっと、隣でフライドポテトをパクつくナナを見やる。
ナナはよく見ると可愛い顔をしているし、少しぽっちゃりとしているけど、きれいな脚をしていて、服のセンスもまあまあだと思う。
なぜこうも恋が実らないのか、僕でもよく分からない。
相手を射るようなまっすぐ過ぎる眼差しに、相手が怖気つくのでは、と僕は分析しているけど。
彼氏いない歴21年。
「いつかあんたにバージンをくれてあげるよ。
誰ももらってくれなかったらね」
「お断りする。
お前相手だと、勃たないかもしれない」
「チャンミンみたいな見境ない奴に断られるなんて、女として終わった!」
膝に顔を伏せて泣く真似をするナナ。
「冗談だよ。
僕みたいな軽い男じゃなく、好きな奴のためにとっておくんだ」
「大事にしているうちに、骨董品になっちゃうよ」
「しょうがないな。
骨董品になりそうになったら、もらってあげるよ」
ナナの兄貴になったような気分で、彼女の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
「あんたは経験豊富だから、うまいことやってね」
「プレッシャーだな」
ナナといると、男友達といる時と同じくらい楽しい。
ナナといると気が楽だ。
「チャンミンには何でも話せるよ」
ああ、僕も同感だ。
「モテない女とモテる男だなんて、正反対なのにね。
不思議だよ」
同感だ。
僕に彼女がいる時でも、僕はナナと飲みに行ったり、互いの家へ遊びに行く。
彼女たちがどれだけヤキモチを妬いたとしても。
僕とナナは「そういう関係」にはならない。
カフェテリアを出た僕らは、講義棟へ続く道を歩いていた。
「あんたは、おっそろしいほどイケてるよ」
「僕の彼女になりたい子たちは、僕の顔が好きなんだよ」
「それは事実でしょうね」
ナナは僕の顔をまじまじと見つめる。
間近に迫ったナナのつやつやとした瞳にドキリとする。
「顔よし、スタイルよし、頭よし。
三拍子揃ってるからなぁ」
僕を観察し終わったナナは、歩調をゆるめて僕の背後にまわった。
「チャンミン、
『僕のルックスだけじゃなくて、ハートも好きになってー』って
女の子たちに求めるばっかりじゃなくてさ、
あんたの方も、彼女らの見た目に惹かれたんでしょう?
お互い様なんじゃないの?」
「え?」
思わず後ろを歩くナナをふりかえった。
「チャンミンの方からも、彼女たちを好きにならないと駄目だよ」
「......」
図星だった。
彼女たちは甘い砂糖菓子だ。
最初のひと口は夢のようだけれど、ふた口目からは胸やけしてくるからもういらない。
「モテない私が説教しても、説得力ないよね」
アハハハと自嘲気味に、ナナは乾いた笑い声をたてる。
笑いながらも、僕に向けられたナナの瞳は、鋭い光をたたえていた。
油断していると、ナナのそんな眼差しに射られそうになる僕がいた。
ナナは常に、僕以外の誰かを見つめている。
ナナの眼には、男友達としての僕しか映っていない。
ナナにはむやみに手を出せない。
僕がナナと「そういう関係」にならないのは、ナナに魅力がない訳じゃない。
「そういう関係」にならないよう、僕が自制しているからなんだ。
その代わり、最低な僕は、砂糖に群がる蟻のように寄ってくる女の子を次々といただいている。
「あんたいい加減にしなよ」とナナが言うのは、そういう訳だ。
僕とナナは第二外国語にドイツ語を選択していた。
講義開始5分前に席について、バックパックから教科書や筆記用具を取り出す。
追試ほど時間を無駄にするものはないと考えているから、サボる学生が多い中、僕は遅刻も欠席もせず真面目に受けていた。
(しまった!)
辞書を忘れてきていた。
家を出る30分前まで彼女といちゃついていて、慌てて部屋を飛び出してきたせいだ。
「ここ、いい?」
僕の返事を待たずに、僕の隣に誰かが座る。
あごの下で切りそろえられたボブヘアの女子学生。
この子がナナだ。
机にドサリと置かれたバッグを見つめる僕の視線に気づいたナナは、僕側の机に置いた僕のバッグを見る。
「同じだね。
ここのバッグ、かっこいいよね」
シンプルながらも、部分的に箔を使ったデザインで、あまりポピュラーじゃないブランドのものを、女の子が使っていることが新鮮だった。
1クラス200人はいたことと、入学してまだ2か月だったこともあって、ナナと言葉を交わしたのがこの時が初めてだった。
「宿題...やった?」
講師が壇上に立ち、講義が始まると、ナナがヒソヒソ声で話しかけてきた。
「ああ」
「写させて」
「いいよ」
ノートをナナの方に押しやると、「ありがとう」とナナは大急ぎで写し始めた。
「なぁ」
カリカリとペンを走らせるナナの肩をつついた。
「ん?」
「辞書貸してくれないか?」
「どうぞ」
講義を聴きながら次の章を訳しておこうと、ナナが貸してくれた辞書を開いた瞬間、僕はフリーズした。
「...なぁ」
「何?」
「これ...?」
開いたページを僕が指さすと、ちらっと見たナナは「ああ」と頷いた。
「それはね...」
『そこ!』
ヒソヒソ喋る僕らは講師に注意されてしまった。
・
講義の後、教室を出た僕らは連れ立ってカフェテリアへ足を運んでいた。
「お前の辞書、すごいな」
「試験に落ちたくないからね」
「だからって、ここまでするか?」
「辞書は持ち込みOKでしょ」
「そうだからって...さ」
ドイツ語は、4講義ごとにミニ試験がある、わりと厳しめの課程だった。
ナナのドイツ語の辞書を開いて僕がたまげたのは、ページの余白にびっしりと、ナナの手書きの文字。
彼女は教科書の文章をすべて、余白に写していたんだ。
「試験は教科書の内容がまんま出題されるじゃない。
記憶力もない、テスト勉強はしたくない、カンニングはしたくない、でも絶対に試験を合格したいとなったら、
この方法しかないのよねぇ」
「その労力を他のことに使ったらどうなんだよ?」
「その通りなのよねぇ」
呆れながらも、ナナの少しズレたところに魅力を感じた僕だった。
この一件は「ドイツ語事件」と名付けて、僕がナナをからかうネタになった。
ここまで会話を交わしてから、僕らは名乗り合った。
「これであんたの名前と顔が一致したよ。
いつも女子と一緒にいるもんね。
珍しい、今日は一緒にいないんだ」
ナナはキョロキョロ見回した。
「僕の部屋に多分、今もいるはず」
「うわー、いやらしいね」
「あ...」
急にナナは立ち止まった。
ナナの視線は、研究棟から出てきた白衣の人物にくぎ付けになっている。
建物の前に停めてあった自転車にまたがったその人物は、ナナに気付いて「やあ」と声をかけると、僕らの前を通り過ぎ裏門を出て行ってしまった。
「院生?」
「ううん、5年生」
ナナの片手は、さっきの彼に手を振ったポーズのままだった。
「好きな奴?」
「うん」
あっさり素直に認めるナナの横顔を、再び新鮮な思いで見つめてしまった。
「向こうは?」
「全然。
私が一方的に好きなだけ。
サークルが一緒なの」
白衣の彼の姿が消えるまで見送るナナの表情はうっとりと甘い。
この時、ナナをからかう気持ちは微塵も湧かなかった。
女の子に、ここまで恍惚とした表情をさせる白衣の彼のことが、少しだけ羨ましかった。
全く...。
ナナは全く気付いていない。
いい加減に気付けよ。
ナナのことが好きな僕の気持ちを。
いつの間にか、ナナに惹かれていた僕。
気付かなくて、当然か。
いつも相手の方から求められて、まんざらでもない相手だったら交際してきた僕だったから。
自分の方から求めたことがない僕だったから。
口をつぐんだ僕の気持ちが、ナナに伝わらなくて当然なんだ。