【11】慰められない指ー僕を食べてくださいー

 

 

キキはすやすやと眠るチャンミンの寝顔をじっと見つめていた。

 

顔から肩へ、呼吸で上下する胸へ、細く引き締まった腰へと視線を移す。

 

立ち上がると、毛布をチャンミンの背中にかけてやり、脱ぎ捨てた衣服を拾い集めた。

 

腕や胸、脚に乾いた血が付着していて、腕に付いたそれを舐めると顔をしかめた。

 

ケーブルドラムに置いた水筒を伸ばしたが、飲み干してしまっていたことを思い出して冷蔵庫に向かった。

 

冷蔵庫の中を覗いて、「ちっ」と小さく舌打ちをした。

 

(参ったな...)

 

背中を丸めて眠るチャンミンの方をふり返った。

 

(綺麗な男だ。

本当に美味しそうだ。

でも...。

私らしくもない...。

これから、どうしたらいいのだろう)

 

熟睡するチャンミンを、穏やかな表情で見つめる。

 

キキの瞳の色が一瞬、深い墨色に沈み、再び群青色に戻った。

 

X5のキー手に取り、白いスーツケースを軽々と持って、裏口から廃工場の外へ出ていった。

 

足音も物音も、キキはほとんどたてなかったが、チャンミンは多少の物音くらいでは目覚めないほど、深い眠りについていた。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

 

「う...うん」

 

目の詰まった白いシーツが真っ先に目に入る。

 

シーツの上にだらんと伸ばした腕に視線を移して、指を動かした。

 

(ここは...!?)

 

がばっと身体を起こすと、背中にかけられていた毛布が滑り落ちて、裸の身体が露わになった。

 

(ここは...そうだった!)

 

高い天井、金属製の柱と壁、製造過程のまま放置された錆の浮いた鉄骨、土ぼこりだらけのコンクリートの床、割れた窓ガラスから注ぐ日光。

 

(キキとヤりまくって、ここで眠ってしまって...)

 

思い出してカーっと身体が熱くなる。

 

(キキは...?)

 

マットレスの上は僕ひとりで、大声でキキの名前を呼んでみたが、返事はない。

 

喉の渇きを覚えて、工場端に置かれた白い冷蔵庫を開けた。

 

裸足の裏がじゃりじゃりする。

 

がらんとした庫内は、ミネラルウォーターのペットボトルが数本あるだけで、

 

(キキは、食事はどうしているんだろう

毎食、町へ下りていっているのかな)

 

と、不思議に思った。

 

場内はしんと静まり返っていて、屋外の蝉の鳴き声から、午前9時はまわっているのだろう。

 

(寝坊したな。

...早く家に帰らないと、ばあちゃんが心配する)

 

ペットボトルの中身をあっという間に飲み干して口をぬぐうと、まずは服を着なければと、脱ぎ捨てた服の在りかを探す。

 

僕のTシャツとデニムパンツは、マットレスの隅に置かれていた。

 

丁寧にたたまれている様が、キキのイメージに合わなくて、嫌な予感がした。

 

もう二度とキキは戻らないのでは、という気がした、なぜか。

 

「キキ!」

 

僕の声だけが、高い天井に響く。

 

デニムパンツだけを身につけて、もつれる脚で重くてきしむシャッターを押し上げると外に飛び出した。

 

初夏の白い光線をまともに浴びて、目が眩む。

 

廃工場脇にまわってみると、キキのX5がない。

 

もう一度建物の中へ引き返すと、そこにあったはずの白いスーツケースもない。

 

(キキがいない!

出て行ってしまったのか!?

僕を置いて行ってしまったのか!?)

 

もうキキに会えないのではないかという考えに取りつかれてしまった。

 

鼻の奥がつんとしてきた。

 

山の遠くから猟犬の吠え声が響いている。

 

続けて、だーんと銃声が、山にこだました。

 

「!」

 

眩しくて顔を伏せた際、下腹に付いた血の跡が目に入って一瞬ギョッとしたが、思い出した。

 

(僕は腕を怪我していて...)

 

今になって、僕は腕の傷が全く痛まないことに気付いた。

 

(嘘だろ!?)

 

血で汚れた肌を情事の際、昨夜のキキが舌を這わせていた二の腕。

 

血をにじませた裂傷が消えていた。

 

震える手で、傷口があったはずの箇所をなぞる。

 

皮膚は滑らかで、傷跡の凸凹すらなかった。

 

怪我なんてしていなかったのか?

 

だって、一晩で、怪我が治るなんてあり得ない話だ。

 

軽い眩暈がして、冷汗が脇を濡らした

 

負った怪我が完治して、キキがいなくなった。

 

僕は廃工場に沿って何周も歩き回り、工場の中も隅々まで見て回った。

 

かつては事務所になっていたのだろう、プレハブのような小部屋に新品の収納ケースが積んであった。

 

引き出しを開けてみるまでもなく、中身は空っぽだった。

 

事務デスクの下に、新品の白いスニーカーがタグが付けられたまま転がっていて、少しだけホッとしたが、単なる置き忘れなのかもしれないと思うと、胸が苦しくなった。

 

裏手の谷川へ下りていった。

 

急な斜面を滑り落ちないよう、生える草を握り締めて、石のひとつひとつに慎重に足を下ろす。

 

キキが「子供みたいに水遊びができるよ」と話していた川だ。

 

谷川はさらさらと涼し気な水音をたて、川沿いの樹木の枝葉が日光を遮っていた。

 

上流にあたるこの谷川を数キロ下流に下ると、両親の事故現場になった橋がかかっている。

 

透明で冷たい水をすくって、血で汚れた腕を洗った。

 

ついでに、汗でべとついた顔も洗った。

 

尿意を覚えたが廃工場にはトイレはないから、仕方なく草むらで用を足した。

 

(そうだ!)

 

下る時よりは容易く谷川からよじ登ると、工場へ取って返し、マットレスの脇に落ちた包帯を拾い上げた。

 

(無傷になった腕をばあちゃんに見せるわけにいかない)

 

片手で巻くのは困難で、少々乱れているけれど仕方がない。

 

キキは、買い物に行っているだけかもしれない。

 

用事を済ませるために、ちょっとの間でかけているだけかもしれない。

 

そう前向きに思うことで、心中の不安をなだめると、僕は小さな車に乗り込んだ。

 

キキの不在が僕を不安に陥れていた。

 

ぎゅっと目をつむって、ハンドルに額をつけて気持ちを落ち着かせた。

 

キキなんて、初めから存在しなかったのかもしれない。

 

武骨で埃っぽい無機質なこの空間に、白いマットレスと冷蔵庫だけがあって。

 

そもそも、僕みたいな冴えない男が、キキみたいな美女とどうこうすること自体が夢みたいなことだったんだ!

 

助手席のシートに置いた小さな懐中電灯が、昨夜のことを思い出させた。

 

思い出すだけで下腹部を熱くさせる営みが、遠い過去のように思えた。

 

 


 

 

車庫に車を駐車させていると、野良着を着たばあちゃんが小走りで近寄ってきた。

 

「いつ帰ってくるかと心配してたんだ」

 

家の脇に小さな畑があって、ばあちゃんは自宅で食べられる分だけの野菜を育てている。

 

「飲みすぎてそのまま泊ってきたんだ。

ばあちゃん、車を使いたかったんだね。

遅くなってごめん」

 

無理やり笑顔を作って、ばあちゃんに鍵を渡した。

 

「頭が痛いから、寝直すよ」

 

「ご飯は炊けているし、鍋に汁もあるから」

 

食欲なんてなかったけど、「ありがとう」とばあちゃんに礼を言って、玄関の戸を開けた。

 

僕は一体、何をしに帰省してきたんだろう。

 

唯一の家族であるばあちゃんの存在が目が入らない。

 

僕の頭の中はキキのことばかりだった。

 

キキがどこへ行ったのか、皆目見当がつかない。

 

肉欲にとりつかれた最中は、キキの思惑と素性を問うタイミングもチャンスも後回しにしてしまっていた。

 

キキと繋がることだけを優先させていた。

 

キキを思い出したら、股間に血流が集中するのが分かり、手を当てると半勃ちしていた。

 

この身体の反応が証明する通り、僕とキキを繋げているのは身体だけ?

 

キキがいなくなって困るのは、キキとヤれなくなるからか?

 

(勘弁してくれよ)

 

居ても立っても居られず、まっすぐ自室に向かった。

 

耳をすまして、ばあちゃんの乗る車が走り去る音を確認する。

 

僕は、デニムパンツと下着を脱いで下半身を露わにした。

 

ベッドに上がると、壁にもたれて座る。

 

ティッシュペーパーの箱を引き寄せて、両脚を広げた。

 

勃ち過ぎて下腹が痛いくらいだ。

 

手の平全体でゆるく握ると、前後にピストン運動させた。

 

「はっ...はっ...」

 

すぐさま股間から弾ける快感に、夢中になる。

 

キキとの絡み合いを思い出す。

 

一歩進んで、いやらしい恰好をさせたキキを妄想する。

 

人差し指で親指の輪で、亀頭の縁を摩擦させた。

 

「あっ...」

 

息が熱い。

 

同時に、指の付け根で裏筋を刺激する。

 

妄想の中のキキは手首を縛られていた。

 

「うっ...」

 

ヤバイ...もうイキそうだ。

 

イきそうなのを堪えて、根元から手の平を離して、亀頭だけを指でつまんだ。

 

親指でカリの部分をひっかけるようにこすった。

 

この自慰行為は、キキに見られているのだと想像したら、ピクリと硬くなった。

 

射精に至るまでの時間が短い僕だ。

 

あっという間にイかないよう、コントロールする。

 

弱い刺激で、ゆらめく波のような快感に浸る。

 

物足りなくなった僕は、Tシャツの下から片手を入れる。

 

「あっ...」

 

固く尖った乳首に指先が触れた途端、上半身がゾクッとのけぞった。

 

乳首に意識を集中させる。

 

指先で転がし、ひねる。

 

「は...ん」

 

むず痒い電流が走る。

 

引っぱると、手の平に包み込んだ僕のものがさらに膨張した。

 

「チャンミンは感じやすいのね」

 

耳元で囁くキキの声が聴こえたような気がした。

 

「っく」

 

背を反らし、頭頂部が壁をこするたびに、壁に掛けた賞状の額がカタカタと音をたてた。

 

輪にした二本の指に、透明な粘液が垂れる。

 

再び襲われた波をやり過ごした僕は、ベッドにうつぶせで寝た。

 

布団に僕のものを押し付けて、腰を振った。

 

キキを下にして、キキの中を出し入れさせている錯覚を楽しんだ。

 

キキが好きだ、好きだ。

 

キキの身体を無茶苦茶にしたい。

 

「今なんて言った?」

 

フラッシュが瞬いたかのように、喉を締め付けるキキの冷たい指を思い出した。

 

喉ぼとけが押しつけられて、息が詰まって、殺されるのではと恐怖が沸いた瞬間を思い出した。

 

「好きだと言って、悪いのか!」

 

絶頂の際、口走ってしまった言葉を咎められた。

 

腕をついて身体を起こして、ベッドから足を下ろした。

 

「はぁ...」

 

両膝に両肘をついて、両腕で両目を覆った。

 

「なんだよ...」

 

僕の気持ちのやり場はどこなんだよ。

 

僕の身体を舐めたり触ったりしてくるくせに。

 

僕のものの侵入を許すくせに。

 

キキにとって、どうってことないことなのか?

 

萎えてしまったものを下着におさめ、デニムパンツを履いた。

 

よろめいてドア枠に肩をぶつけてしまい、その痛みによって不発に終わった苛立ちが消えた。

 

二の腕は全然痛くない。

 

ほどけかけた包帯を、むしり取った。

 

恍惚としたキキの視線を浴びた傷口がなくなってしまった。

 

僕は傷の周囲を舌先でたどられた感触に、ゾクゾクと感じたんだった。

 

開いた傷口をキキの指でなぞられて、激痛の中に快感を感じたんだった。

 

快感によがる僕を、キキの身体を求める僕を、面白がってんじゃないよ。

 

下半身に支配された自分を抑えられないんだよ。

 

前夜、3回もヤッたくせにまだまだ足りないんだよ。

 

 

 

コンロに火をつけて温めた汁を、器によそって立ったまま食べた。

 

キキに噛まれた舌が、塩味に沁みた。

 

だしのきいた滋味深い味がうまかった。

 

ひとつに繋がって、何の感情も湧かないのかよ。

 

好きと言ったらいけないのかよ。

 

欲しいものはキキの身体だけじゃないんだよ。

 

気付けば僕は泣いていた。

 

むせながら、ばあちゃんが作った汁をすすっていた。

 

会いたいんだ。

 

僕を置いていかないでよ。

 

次から次へとあふれ出る涙が、僕の頬を濡らしていった。

 

 

(つづく)

 

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