視点を合わせないうつろな眼に、車窓を猛スピードで流れ去る景色が映っている。
傍らに置いた紙袋の中には、米やら漬物が入っている。
「まったく、どこをほっつき歩いていたんだい」と、ぷりぷりしながらばあちゃんが持たせてくれたものだ。
耳朶に指先を伸ばして、小さなかさぶたに触れた。
次いで手首をさする。
そして、昨晩から先ほどまでのことを反芻する。
3度目の射精の後、息も絶え絶えな僕に対してキキはケロリとしていて、
「体力のない子ね。
チャンミンは若いんでしょう?」
とくすくす笑いながら、僕の髪をすいていた。
よく冷えたミネラルウォーターを手渡してくれるキキに、彼女の心を感じ取る。
気遣う心がある風を装っているのかもしれない。
僕に対して、愛情に近いものを抱き始めていたのだとしたら、僕は嬉しい。
繋がっていない時のキキは、礼儀正しく愛想笑いを浮かべたりするから、キキの本性を誰も気付かない
僕が「泊まっていく」と何度も言い張ったが、キキは「帰りなさい」と頑として譲らなかった。
俯くと僕の胸に下腹に、無数の色香匂いたつ紅い花が散っている。
外は薄暗く、マットレス脇に置いた懐中電灯だけが唯一の灯りだ。
この灯りも、僕のためだけにキキが点けてくれているものだ。
キキにとっては、眩しくてかなわないだろうに。
長い黒髪をまとめたことでむき出しになったキキの白いうなじを目にすると、その冷たく柔らかい皮膚に唇を這わせたくなる。
先ほどから冷蔵庫の方をちらちらと見るキキに気付いた。
「僕に構わなくていいよ」
僕は冷蔵庫の方をあごでしゃくった。
キキはしばらく僕をじぃっと見つめていたが、やがてにっこりと笑った。
「チャンミンは強いのね」
「どうかな...」
僕の心は元来タフじゃない。
キキを求める強い愛情が、彼女の全てを受け止めるだけの器を作っただけに過ぎない。
だから、タフでいられるのはキキに関することに限られるんだ。
「ごめん...僕がつきまとっていたせいで、キキは自由に動けなかったんだろう?」
「その通り」
冷蔵庫の中からポリタンクを取り出したキキは、きっぱりそう言い切った。
キキは僕が買ってあげた水筒に、ポリタンクの中身をとくとくと注いだ。
「危ない目にあったけど、チャンミンに助けられた」
注がれる液体の正体を思うと、不快感で胃の腑の辺りがむっとする。
「バッテリー容量が約1日と案外少ないの」
薄暗くて分からないけれど、キキの瞳はきっと墨色に沈んでいるだろう。
「正体を知られて楽になった」
「僕も...正体を知って楽になった」
「チャンミンに全部教えてあげるよ。
謎めいた女じゃ、チャンミンに対してフェアじゃないから。
質問には全て答えるよ。
ただし」
言葉を切ると、キキの瞳がぎらりと光った。
一瞬で身がすくむ。
「過去の恋愛については、詳しく話すつもりはない」
「そんな...」
「不安そうな顔をしないで。
今はチャンミンだけよ」
キキの目付きが優しくなって、細い指が僕の喉から顎へとつつっと撫ぜあげた。
たったそれだけで、僕の腰がかすかにうずいた。
「死ぬまで?」
「その通り」
よかったと僕は胸を撫でおろすのだった。
「Sおじさんとは結局、どういう関係なの?」
「彼の伯父を看取った」
「看取る...」
「私は死ぬまで離さないからね」
僕の胸元を汗がつーっと流れ落ちた。
蒸し暑さのせいか、冷や汗なのかは分からないけれど。
「キキが...殺したの?」
「チャンミンは、どう思う?」
キキの握力なら僕の喉くらい片手で潰せるだろうけど、キキはそんなことは絶対にしない。
しないに決まっている。
なぜって、僕を怖がらせるようなことを言うけれど、それは僕の反応を見て楽しむだけで、怯えた僕に憐れむような、慈悲深そうな微笑を見せるのだ。
身がすくんで逃げられないのではない。
自ら望んで、怯えることを「愉しんでいる」のだ。
僕もとうとうここまで歪んでしまったか、と呆れてしまうけど。
「チャンミンは甘いわね。
もし、私が本気で襲ったらどうするの?
怖いでしょ?
死にたくないでしょ?」
「キキは...そんな人じゃないよ」
もしキキが僕の命を狙うようなことがあったとしたら、僕は喜んで餌食になっていそうだ。
それ程までに僕は歪んでいる。
「キキは...いつから生きてるの?」
「時の流れがゆっくりなだけだよ。
チャンミンの10分の1くらいかな。
身体が冷たいのも、体温という無駄なエネルギーを使わないため」
「10年で1年...100年で10年...」
「退屈だよ。
繊細な精神を持っていたら、耐えられないでしょうね。
感覚だけは敏感に研ぎ澄まされていくのに、感情はどんどん摩耗していくの。
だから、身体の感触だけが「この世に存在する理由」を感じられる唯一のものになっていくの」
キキは僕の片手をとると、手の甲をすっと撫ぜた。
「撫ぜると気持ちがいいでしょう?
でもね...チャンミン。
私の指を噛んでみて」
「え?」
「いいから」
突き出されたキキの細い人差し指に、恐る恐る歯を当てる。
「もっと強く」
歯の下に小枝のような骨を感じた。
「もっと強く」
冷凍庫にいれたチョコレートを齧るみたいに前歯に力を込めた。
僕の口から抜かれたキキの指には、歯型がつき皮膚が破れて赤いものが滲んでいた。
「例えば、こんな風に。
力の加減によっては、快感が苦痛になってしまう。
でも、苦痛が快感に変わることもある。
快感と苦痛は紙一重。
あなたの表情を見ながら、その狭間を探っているの。
これが私の愛し方よ」
キキはふふんと笑った。
「長く生き過ぎたせいで心はすり減ってしまったんだもの。
感触と、味と匂いから楽しみを見つけていかなければ、生き長らえるのは辛すぎる」
かつてのキキには、心があったのだ。
「感触と味と匂い...」
なるほど、と思った。
「動物的でしょ?
素敵な痛みを私に与え続けてくれるのなら、チャンミンがおじいさんになっても構わない」
キキはマットレスの上に仰向けに横たわり、組んだ腕に頭を預けた。
僕はそんなキキを見下ろして、何もかもが小さく整った姿を美しいと思っていた。
「でもね、嫌になる。
美しかった人が、老いて醜くなっていくのよ。
私だけが変わらないの。
そして、私の目の前で死んでいってしまうの。
私だけが残されるの。
ほんとうに...うんざりする」
「キキ...」
失う度辛くなるのに、長くこの世に存在していれば、出会いは次々と訪れる。
傍らに男を置くのは退屈まぎれなのだろうか。
その男が死ぬまで愛するのなら、それは退屈まぎれではないと僕は思った。
「この身体を維持するのは大変なんだ。
買えないものは何もないよ、お金さえあれば。
でも、手に入りにくいものは高価だ。
私が大金を持ってるのも、そのためだよ。
お金がかかる『お人形』なの、私は」
自嘲気味につぶやくと、キキはしばらく身じろぎもせず天井を見上げていた。
「人形...」
「処理場...あそこは私が資金を出した」
「えっ...!?」
なるほどと腑に落ちた。
電車の発車時刻ぎりぎりまで、僕らは互いの身体を貪った。
僕が貪られた。
もっと正確に言うと、貪られるのを望んだのは僕の方だ。
互いの性器を丹念に舐め合い、味わった。
前夜見た夢のことを思い出しながら、キキの中を貫く。
モノクロの世界の中、僕が全身を浸していた池だけ血のように真っ赤で、唇についたその水はザクロの果汁だった。
僕とキキとの恋には、先行きの見えない前途多難の予感しかしない。
僕らを取り囲む世界は灰色と黒色。
甘い蜜の池に沈んでいる間は、そのことを忘れられるんだ。
「縛って」
「正気?」
「僕を繋ぎとめて欲しい。
だから...縛って...」
キキは僕を憐れむような眼で見た。
脱ぎ捨てられたデニムパンツからベルトを引き抜き、配管に通すと僕の手首に巻き付けた。
「もっときつく」
「痕が残るわよ?」
「構わない...っ!」
ぎりぎりと手指の感覚がなくなるまでベルトが引き絞られた。
両腕を上げた状態で手を拘束され、自由を奪われた。
腕を下ろすこともできない。
僕の身体はキキに弄ばれるんだ。
僕は狂っている。
「厭らしい子」
そう言って、キキは僕の額に唇を押し当てた。
「可哀想だから脚は縛らないでおくわね。
ただし、動かしちゃ駄目よ。
少しでも動かしたら...」
僕のペニスが喉奥で締め付けられ、同時に会陰をぐりっと押された。
「ああっ...あっ...」
快感を逃そうと膝を動かしたら、キキは僕のペニスから口を離してしまった。
「舐めてあげないし、しごいてもあげない」
キキは立ち上がるとマットレスを離れ、何かを持って戻ってきた。
僕に唇に口づけると、僕の膝の上にまたがった。
ボトルを傾けて手の平いっぱいに中身を注ぐと、とろとろになった両手で僕のペニスを包み込んだ。
それは水筒を買ったあの日、キキが買い物かごに放り込んだものだ。
「ひっ...」
思わず腰が浮いてしまう。
かかとに力を込めて、快感にのたうち回りそうになるのを堪える。
強めに上下にしごかれて、開きっぱなしの僕の口から唾液が漏れる。
両手を握りしめようとするが、血の通わないせいで力が入らない。
「はっ...あっ...」
睾丸を握られて、僕は短い悲鳴をあげる。
「あぁっ...あぁぁ...」
痛みと快感の狭間をいったりきたりして、僕はどうにかなってしまいそうだった。
イキそうになると、キキは動きを止めてしまう。
キキを押し倒して、両腿を割って突き刺してやりたかったけど、僕の両手は封じられている。
ベルトの固い革が僕の手首の皮膚を、傷つけていく。
さんざん焦らされ、フラストレーションが溜まって爆発しそうだった。
ようやくキキが腰を埋めたときには、僕はイッたのかそうじゃないのか分からなくなっていた。
午前10時の廃工場内に、僕の嬌声が響き渡る。
左右に揺らすだけのキキの動きがもどかしくて腰を突きあげようとした。
「動かないでって言ったでしょう?」
僕の乳首が強くつねられて、僕は歓喜の悲鳴をあげてしまう。
「いっ...!」
「気持ちいいか?」
「うん...いいっ...いい...もっと...」
「もっと?」
僕の口元に耳を寄せて、「ここ?」と乳首をぐりっと押しつぶした。
僕の身体は、激しくのけぞる。
まるで、水槽から引き揚げられた魚が、まな板の上でびちびちと跳ねるように。
「あっ...ん...そう...そこを...もっと」
僕のペニスはこれ以上ない程に硬く膨れ上がって、下腹が痛いくらいだ。
動かしたい。
引っ張るほど手首に革が食い込むばかりで、強烈な性感から逃れられない。
幸福から逃げたくなる、逃げられないから幸福なんだ。
自分がそう仕向けたんだ。
不自由な状況下で一方的に与えられる快感に、目が眩むほど僕はのめり込んでいた。
手首の痛みがもはや、快感になっていた。
咥えられた耳たぶに歯を当てられた。
「っ!」
熱い痛みが走って、「噛まれた」と思った。
「はぁはぁはぁ」
まるでシャワーを浴びたかのように、僕の全身は汗びっしょりだった。
これから帰りの電車に乗らなければならないというのに。
手首の拘束を解かれた。
案の定、内側のやわらかい皮膚が帯状に擦りむけ、血が滲んでいた。
しびれた手指を開いたり閉じたりしていると、血の気が戻ってきた。
「種明かしをしてあげよう」
キキは僕の手首をとると、自分の方に引き寄せた。
そして、キキ自身の親指の付け根辺りに噛みつく。
キキの口が離れると、犬歯がつけた2つの穴からぷくりと血が膨れ上がり、張力を越えたそれはたらりとキキの手首を汚した。
何が始まるんだ?と僕は固唾を飲んで見守る。
その手を突き出された僕の両手首にこすりつけた。
「!」
僕の血とキキの血に覆われていて、その変化を確認することはできなかったが...。
タオルで僕らの血が拭われると、
「はい、出来上がり」
まっさらな僕の手首があらわになった。
消えた二の腕の傷の謎がこれで解けた。
乗り換えの駅を知らせるアナウンスに、僕は席を立った。
つい数時間前まで、緑迫る山中にいたことが嘘のようだった。
何の気なしに空虚な気持ちで帰省した結果、僕が陥ってしまったこと。
僕の魂を持っていかれた。
僕はもう狂っていた。
僕はもう一度、キキに会いたかった。
文字通り骨の髄までしゃぶられたかった。
僕をもっといたぶって欲しかった。
飽くことなく抱き合いたかった。
もっと、もっと。
街にもどった僕は、1週間も待てずに再び故郷へ向かった。
(つづく)
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