「...う...ん...」
ユノを後ろ抱きしているうちに、いつの間にか眠り込んでしまっていたようだ。
ユノのお腹の前に組んだ手が、ぬるりと濡れている。
「?」
ユノの首筋に埋めた頬が濡れていることに気付き、ちろりと舌で味わってみたところ、それが汗だと知った。
頭を起こした拍子にユノの肩にぽたりと落ちた水滴は、僕の前髪から滴ったものだった。
(...汗?)
額を拭った手の甲の濡れ具合に、驚いた。
僕の全身がぐっしょりと濡れていた。
ユノの身体に手を滑らせてみたところ、彼の肌はからりと乾いている。
全身が水浸しになるほど汗をかいているのは、僕の方だった。
ここ数年来、汗をかくことはほぼなかった。
冷え冷えと乾いていく一方で、日課のトレーニング中もタオルいらずだ。
半身浴をしてみても、かえって冷えを実感するだけで、自家中毒したみたいに気分が悪くなった。
汗をかいてすっきりしたいのに、体内に老廃物が溜まっていく感覚。
僕の身体は、そんな瘧(おこり)ごと氷結したもので出来ている。
そんな僕が、汗をかいている!
全身を点検してみたくて半身を起こしたら、胸の窪みに溜まっていた汗がさーっと動いてシーツを濡らした。
尋常じゃない汗の量に、唖然としていた時。
「...チャンミン」
掠れた呼び声に、横向きに横たわるユノの肩に手をかけ、こちらに向けた。
「起きた?」
「...ああ」
ユノは僕を眩しいものでもあるかのように目を細めて、口角だけを上げた笑顔を見せた。
濡れ髪のままでいたから、くしゃりと乱れて乾いた髪が、完璧に端正だったユノを無防備に見せていた。
ユノのプライベートに居合わせているみたいな気分。
ユノの額と耳下に手を当てて、熱っぽさを確かめた(自分の汗に気をとられていたのだ)
「よかった。
ちょっとはマシになったね」
「...チャンミンは大胆だなぁ。
俺たち、真っ裸じゃないか。
まさか...寝ている間に、俺を襲った?」
「襲う訳ないだろ!」
軽口をたたけるほど回復したんだと嬉しかったけど、堪えていたもので堤防が決壊しそうだった。
「お前、平気なのか?
汗をかいている...」
ユノの男らしい指が、こめかみから顎に向けてたどって、ぞくっとした僕は目をつむってしまった。
病み上がりのユノは気だるげで、とろんとした眼が色っぽかった。
細面の頬が、より削げたように見えた。
でも、目の下の隈がいくぶん薄くなったようだし、さっき触れた額も、数時間前よりは温度を下げていた。
横たわるユノの傍らで、正座した両膝に置いた僕の拳に力がこもる。
「...ユノの馬鹿」
「俺のどこが馬鹿なんだ?」
「心配したんだからね!
ユノが死んじゃうかと思って...。
びっくりしたんだから!
めちゃめちゃ焦ったんだよ?
僕...僕...僕はっ...。
助けなくちゃって...っ...くっ...くっ...」
「おいおい、チャンミン」
「とにかくね!
一生懸命だったんだから!
...うっく...ひっく...っく...っく...」
「分かった、分かったから」
ユノの両腕にかっさわれた僕は、彼の胸に着地した。
「ありがとう。
チャンミンに包まれて...気持ちよかったよ」
ずるずると鼻をすする僕の背を、ユノは擦ってくれる。
熱くて頼もしいユノの手。
「汗をかいてるね?
お前の方がキツイんじゃないのか?」
ぴったりとくっつけた耳に直接伝わる、ユノの力強い鼓動と低い声が心地よかった。
「うん...キツイ、キツイよぉ」
僕は、頼りない照明だけの薄暗い廊下を歩いていた。
今自分がどこにいるのか見失ってしまうような、迷路のようなルートを通って地上を目指す。
息苦しさを覚える低い天井と、不気味な染みが浮かぶコンクリート製の壁に囲まれたそこを、右に左にと何度も曲がり、階段を上って下って上ってエレベータ―に乗って、この間4つの扉を開けた末に外界にたどり着く。
朝日の眩しさに目を細め、繁華街のうら寂しい通りを、散らばるゴミを避けながら僕は歩く。
夜の間に雨が降っていたのか、濡れた路面を僕の革靴が不規則に引きずる音を立てている。
僕はフラフラだった。
昨夜は羽目を外し過ぎた。
今日は一日腕まくりをしないようにしよう、と手首についた赤黒い痣をさすった。
ウエストからはみ出したワイシャツの裾をたくし込む。
駅へ向かう勤め人風の者たちとは、逆方向に僕は歩いていた。
すれ違う彼らが、僕を見て何を思っているかは、手に取るように分かる。
乱れた髪、うつろに呆けた顔...きっと首筋には紅い鬱血痕があるはず...しわくちゃなスーツでやや前かがみで歩く男。
しかもこの辺りは、供するものが酒だけではない店やラブホテルなどが多い一帯だ。
彼らの想像通りなんだけどね。
どう思われても構わない程、僕は馬鹿になっていたし、地上に出ることなくあそこにとどまり続けたいくらいだったのだ。
帰宅したら風呂に入って着替えをして...それから、朝食を摂る間はないから、先にコンビニエンスストアで何かを買っておこうか。
段取りを考えながら、自宅近くの店に足を向ける。
全身の節々が軋むように痛むし、叫び過ぎたせいで喉が痛い。
(昨夜は、無茶し過ぎた...)
今日はもう出社するのは諦めて、布団にもぐりこんで寝ていようか...いや...眠っていられるものか。
玄人向けのアレを使って慰めようか...それとも、店に戻ろうか。
スーツのポケットに入れたリモコンのスイッチを入れた。
「...っん」
痺れがずんっと腰を襲い、その衝撃に膝の力が抜けそうになるのを、堪えた。
熟れきったあそこは、使い過ぎて熱を帯び麻痺していても当然なのに、あいも変わらず敏感だった。
男だからあり得ないことだが、女の人みたいに湧き出すもので潤っている気もした。
そう...僕は、酒池肉林ワールドにハマっていたのだ。
今では想像もつかないが、ストッパーの外れた当時の僕は、性に狂い、ただそれだけの為に存在していた。
当時交際していた彼女との記念日となるはずのその夜に(プロポーズだかクリスマスだか...忘れた)、僕は3人の男に羽交い絞めにされ、文字通りさらわれて運ばれた先が、スワッピングクラブだった。
そのやり方は相当強引だっただけど、素質があると見込まれてスカウトされたようなもの。
僕はたったひと晩で、その才能(?)を発揮して、この手の世界にのめり込んでしまったのだ。
寝ても覚めても僕の頭を占めるのは『そのこと』ばかりだった。
仕事が手につかなかくなった。
無理をし過ぎて身体が辛いから、夜だけじゃ足りず自身の指や道具に頼るしかなくても、行為に浸りきりたいからって、仕事を休む気でいるくらいだ。
狂っていた。
交際していた彼女とどうなったかって?
彼女を抱けなくなって当然でしょう。
僕は挿れる側から挿れられる側に転換しただなんて、言えるわけない。
曖昧ににごさず、「君のことを好きじゃなくなった」と、冷酷に言い放って彼女を切り捨てたのだ。
そういえば昨夜は夕飯を摂っていなかったなぁ、と、腹が膨れれば事足りると、レジかごに品定めもせずに食べ物や飲み物を放り込んでいった。
僕の中で、小さな機械が振動し続けている。
自宅までの道のり、呻き声をこらえ耐えに耐えた末、玄関ドアを閉めた瞬間、最強モードする...それから、それから...。
その時が待ち遠しくて、公共料金の支払いに時間がかかっている前の客に、僕は舌打ちをいた。
イライラを反らせようと入り口ドアに目を向けた時、入店してきた者の姿に僕は、はっと息をのんだ。
その者も僕に気付いて、目を見開き頬をこわばらせた。
彼女だった。
僕が捨てた恋人。
引き返すかと思ったら、野菜ジュースだけを取って、レジ待ちする僕の後ろについた(そういえば彼女は、料理上手で健康管理に気を配る人だった)
知らんぷりを貫きたくても、「久しぶり」と声をかけられたら返答するしかない。
「...久しぶり。
元気?」
元気も何もないだろう、無神経な言葉選びもこれまでの僕にはあり得ないことだった。
「ええ。
あなたは...そうでもなさそうね?」
気まずくて、痛痒さを覚えていた首筋をぽりぽりと掻いた。
僕の手の動きにつられて彼女の視線はそこに固定され、眉をひそめた。
目で確かめたわけじゃないけれど、派手に付いたキスマークに咎める表情になってしまって当然だ。
「...不幸になればいいのに」
ぽそりとつぶやいた彼女の言葉に、僕は「え?」と聞き返した。
「なんて、冷たい人なのかしら。
最低。
それに...堕ちたものね」
「......」
「...不潔。
汚らしい」
彼女の顔が憎々し気に歪んだ。
蔑む視線を浴びても、ぞっと心が冷える思いすらしなかった。
僕の現在を言い当てた彼女に、腹も立たなかった。
僕の思考は阿呆に成り下がっていたのだ。
彼女の側から一刻も早く離れたくて、レジかごをその場に残し僕は店を出た。
この間、僕の中では、小さな卵型のものがじじじと震えたままだった。
そして僕は、会社を辞めた。
(つづく)