(1)泡となって薔薇色の雲になる

 

 

こんな物語を聞いたことがある。

 

愛する者のために、人間の足を手に入れた人魚の話を。

 

それと引き換えに声を失ったという。

 

そんな魔法があればよかった。

 

あったらよかったのに。

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

俺はチャンミンを風呂に入れていた。

 

チャンミンは、ぶくぶくの泡でいっぱいの湯船から、大きなヒレを出している。

 

俺は湯船の脇にスツールを置いて、本を読んでいた。

 

「何ていう本を読んでるの?」と尋ねられ、一言で説明できずに「ビジネス系の本」と答えておいた。

 

「ふ~ん」

 

さっきは、お湯が熱すぎたせいで、湯船から跳ね上がって俺の肩にしがみついた。

 

「僕を茹で人魚にする気?」と。

 

「ごめんごめん」

 

チャンミンはタイル張りの床にヒレを投げ出し、腕を組んでプンプンに怒っている。

 

「機嫌を直して」

 

俺はチャンミンを抱いて、水を足して適温になった湯船に下ろす。

 

「ふぅ...。

極楽です」

 

チャンミンは湯船の縁に頭をもたせかけ、まぶたを半分落としてうっとりとした表情だ。

 

そんなチャンミンを見て...俺はこれで何回目になるのか数えきれないほど...安堵するのだった。

 

ルーバー窓から斜めに差し込む、午前10時の陽の光。

 

真っ白な湯気の靄と淡く優しい日光で、バスルームは静寂の極楽だった。

 

チャンミンが尾びれを動かす度に、お湯がちゃぷちゃぷ音を立てる。

 

ページをめくる乾いた音。

 

湯船に目を向けると、チャンミンは眠っていた。

 

海から連れ帰ったのは俺だ。

 

少しでもチャンミンが不自由なく生きてゆけるよう、俺は出来る限りのことをした。

 

そうなのだ、「チャンミンが陸地で暮らしていけるように」なんて生ぬるいことは言えない。

 

俺がいなければ、チャンミンは生きてゆけないのだ。

 

俺の人生をチャンミンに捧げたと言っても過言ではない。

 

いつか「海に戻りたい」と言い出す日を恐れていたから。

 

正直に言う。

 

チャンミンを海に戻したい気持ちなど、さらさらないのだ。

 

思いきり泳ぎたいだろうに、哀しいことに、高い塀に囲まれたプールだけが、チャンミンの命を繋ぐ世界なのだ。

 

チャンミンにとって、俺のそばにいることだけが世界の全て。

 

チャンミンは俺だけの人魚だ。

 

瑠璃色のうろこと、日に透かすと虹色になる尾ひれをもっている。

 

美しい美しい人魚なのだ。

 

 

 

 

「今日は帰りが遅くなるよ」

 

外出の用意をしながら、プールサイドでひなたぼっこをしているチャンミンに声をかけた。

 

外気に身体をさらす時間を少しでも増やそうと、特訓しているのだ。

 

「ひとりぼっちですか...」

 

ぷぅとふくれっ面をするチャンミンを、抱きしめた。

 

「食事はキッチンに用意してあるよ。

先に食べてていいからな」

 

「あの『椅子』を使うんですね。

仕方がないですねぇ」

 

チャンミンの為に、車いすを特注したのだ。

 

長い尾びれがおさまるように座面の面積を広く、座り心地が良いようクッションの材質にもこだわった。

 

車輪も大きく、ひと漕ぎで何メートルも前に進むことができる。

 

これのおかげで、チャンミンは家の中を自由に移動できるようになった。

 

エレベーターを使えば、地下のプールへも移動できる。

 

とは言え、長時間は無理だ。

 

「何かあったら電話をして」

 

すぐに手にすることができるよう、プールサイドに携帯電話を置いた。

 

これまでも、長時間家を空けることのないようにしていたが、今日だけは外せない用事があったのだ。

 

「電話があった時は、すっ飛んで帰ってくるから」

 

「ちえっちえっ!」

 

舌打ちするチャンミンに唇を覆いかぶせる。

 

「いつでもチャンミンのことを考えているからな」

 

少しだけ機嫌を直したチャンミンの額にもキスをして、手を握ってぶんぶんと上下に振った。

 

「じゃあな」

 

チャンミンはあやふやな笑顔を見せて、手を振った。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

僕の全てはユノ。

 

ユノの全部が大好き。

 

ユノの側にいることが大好き。

 

僕のために何でもしてくれた。

 

ユノの眼差しから、僕への愛がほとばしる。

 

僕を海から遠ざけ、高い塀に囲まれたプールに閉じ込められている。

 

そんなことないんだ。

 

高い塀は、ユノ以外の人間の目から僕を隠すため。

 

週に一度は海に連れて行ってくれたし、この前は水槽付きの車に乗って、ピクニックに連れて行ってくれた。

 

水の匂いがするのは、近くに大きな川が流れているからだ。

 

この川は大海へと繋がっている。

 

僕は生まれて初めて草地に足をつけた。

 

足をつけて...僕に当てはまらない言葉だね...僕には足がない。

 

だって、僕は人魚。

 

哀しいけれど、これが現実だ。

 

ごろんと寝っ転がると、真っ青な空。

 

綿菓子のような空が透けて見える雲が、ゆっくりと流れている。

 

海の波間から頭を出して見上げる空と、どこか違う。

 

陸地の空はもっと、色が薄くて優しい色をしている。

 

塩気のある湿った匂いじゃなく、甘くて透明な香りがする。

 

ユノも僕の隣に同じように横たわった。

 

しばらく無言のまま、空を見上げていた。

 

柔らかな若草が僕のうろこをしっとりと湿らしてくれる。

 

この世界には薔薇色の雲があるという。

 

海の泡が風の精霊となって天高く浮かび上がり、薔薇色の雲になるという。

 

僕にとっての薔薇色は、ユノの唇だけだ。

 

傍らに咲いた花を摘み、ユノの耳を飾った。

 

ユノは僕の方を向いて、僕をとろとろに溶かしてくれる唇をほころばせた。

 

優しい笑顔。

 

完璧な横顔。

 

ユノは僕だけの人。

 

美しい美しい人間の男だ。

 

 

 

 

僕は昨夜のことを思い出して、にんまりしていた。

 

僕とユノは水の中で交わった。

 

ユノの足首をふざけてつかんで、プールの中に引きずり落した。

 

プールの底に沈んだユノを抱えて浮上し、彼に酸素を与える。

 

「俺を殺す気か!?」

 

ユノは怒鳴って、僕をぎりりと睨みつけた。

 

僕はユノの首にしがみつき、「ごめんね」といっぱい謝って、いっぱいキスをした。

 

仕方がないなぁと苦笑したユノは、何度目かのキスにキスで応えてくれる。

 

ユノの洋服を脱がす。

 

全裸になったユノの白い身体が、プール底に仕込まれたライトに照らされる。

 

水中に2人して沈む。

 

息を止めるユノ、口や鼻から泡が次々とこぼれる。

 

ユノの目には僕の姿はぼやけて映っているだろう。

 

僕の目には、ユノのまつ毛1本1本、小さな傷跡まで全部クリアに映っているというのに。

 

ユノの逞しい腕に腰を引き寄せられた。

 

僕はユノの頭の上まで持ち上げられ、胸先を舌で愛撫される。

 

舌で転がされ、きつく柔く吸われ、甘噛みされる。

 

僕のそこは熱く潤っている。

 

ユノを受け入れて、僕の腰がびくびくと震えた。

 

僕の尾びれが水面を叩き、水しぶきが上がる。

 

ゆさゆさと上下に揺さぶられて、不規則な間隔で水紋ができる。

 

快感でのけぞり、水中に沈んでしまった僕を引き上げようと、ユノの腕が伸ばされる。

 

僕は全然平気なのに、毎回ユノは大慌てするのだ。

 

交わる度に、僕らは涙を流す。

 

幸せと切なさの交じり合った涙を。

 

ユノも僕と一緒に、水の中で暮らせるようになればいいのに。

 

ユノの努力は認めるけれど...認めるけれどね。

 

僕ばっかりずるい。

 

僕ばっかり窮屈な思いをしている。

 

そんな僕の心の奥底に潜む醜い感情が、たまに水面から顔を出すのだ。

 

愛情の究極の徴が欲しかった。

 

 

(中編につづく)

 

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