人魚になった俺は、チャンミンに手を引かれて夜の川を下っていた。
人魚の泳ぎとは、尾びれだけを動かせばいいわけでないらしい。
チャンミンの動きを見倣い、みぞおちの下をくねらしてみるのだが、二股だった脚が一つの尾びれとなった違和感に慣れない。
身にまとわりついて邪魔なだけの衣服は脱ぎ捨てた(水中生活を送る彼らが裸身でいるワケがよく分かった)
暗闇に染まった水中は恐ろしく、水面へ浮上しかけるたびチャンミンに引き留められた。
「肺一杯に水を充たせば、空気は必要ないよ。
怖いだろうけど大丈夫。
ユノの身体は人魚になっている」
溺れるのではと、恐怖でパニックになる俺を抱きしめて、「大丈夫、ユノは人魚だよ」と繰り返した。
「水を飲んで。
そうすれば、水の中でも話が出来る」
固く引き結んでいた口を開き、流れ込んでくる水をごくりごくりと飲みこんだ。
その水が胃袋ではなく肺を充たしてゆくにつれ、全身が軽くなってゆき、自身の身体が人間ではなくなったことを体感したのだ。
ごうごううるさく頭の中で反響していた水流の音が、気付けば気にならなくなっていた。
耳も人魚仕様になったのか、チャンミンの言葉がクリアに聴こえた。
「どう、楽になった?」
チャンミンは俺の頬を両手で包み込むと、額同士を合わせた。
チャンミンが微笑んでいるのがよくわかる。
水を得た人魚は、夜目がきくようだ。
人間ならば死と直結するしかない墨色の世界だったのが、チャンミンと同族になったこれからは違う。
辺りを見回すと、蒼い世界が広がっていた。
視線を真上に転じた。
水面の向こうから黄色く発光しているように見えるのは、河口岸の工場地帯のイルミネーションだ。
闇の水面を貫いてきた光が俺たちの白い肌と鱗を照らし、海底へと吸い込まれて消えていく。
「綺麗だね」と、知らぬ間に言葉が漏れていた。
チャンミンはクスクス笑った。
「そのうち見慣れるよ。
これが当たり前の景色になるんだ。
僕にしてみたら、イルミネーションの方が綺麗に思えるよ」
チャンミンの口は動いているが、泡はこぼれておらず、言葉は耳というより頭の中に響いてくる感覚だった。
人魚はテレパシーで会話をするのだと、初めて知った。
「そうだよ」
チャンミンは頭を指さして、ニコニコ顔で頷いた。
・
海水に身体を慣らすため、河口際で1週間過ごした。
俺の泳ぎの特訓も、この時に集中的に行われた。
満ち潮引き潮、停泊中の船舶の間をじぐざぐに、昼間は水底を、夜間は水面ぎりぎりを。
早く人魚になりたくて、俺はチャンミンの尾びれを必死に追った。
チャンミンの泳ぎは速かった。
船の上やプールサイドから眺めるだけだった頃は、そのスピード感を実感することはできなかった。
太い尾びれは筋肉の塊で、ひと掻きで十何メートルもの距離を前進できる。
そして、チャンミンの泳ぎはダイナミック、かつ洗練されていた。
すぱっと鋭い切れ味で...ゼリーに真横からナイフを入れたかのような...無駄な水流も起きていない。
よそ見をしていると、ずっと前方に姿を消しているのだ。
方向転換をする瞬間、チャンミンの瑠璃色のウロコが、思わず目を細めてしまうほどのまばゆさで煌めいた。
息を飲む美しさとは、このことだろう。
こうも美しい生き物を、俺は狭いプールに閉じ込めていたのだ。
・
棲み家にする海域まで到着するまで、一か月ほどかかった。
俺の泳ぎは無駄が多く、慣れない水圧のせいで直ぐに疲れてしまうためだ。
・
初めて迎える満月の夜、チャンミンに浅瀬へと誘われた。
「チャンミン...どうしたの?」
「あのね、ユノが人魚になってから、その~...僕らさ。
ね?
分かるでしょ?」
チャンミンは俺の腕にすがりつき、照れ隠しなのか俺の指を玩具のようにもてあそんだ。
モジモジする様子に、アレのことかと合点がいった。
「でもさ...俺。
...人魚になったばかりで、どうやればいいのか...。
脚はないんだし」
「人間だった時と変わらないよ。
身体をぎゅっとくっ付け合って...」
チャンミンは俺の腰に両腕を回した。
「尻尾を巻きつけ合って...。
こんな感じに」
チャンミンの尾びれがひと巻き、俺の下半身に巻き付いた。
地上で生活していた頃も、チャンミンの誘いから始まることが多かった。
「あとは一緒。
今までとほとんど変わらない。
同じ...」
チャンミンは語尾まで言う前に、俺の口を塞いだ。
息継ぎする必要がない俺たちは、繋がっている間ずっと、唇を合わせたままでいられた。
どちらかが必ず、相手のウエストや肩に腕をまわしていた。
潮流に引き離されてしまうからだ。
(絶頂の直前は、チャンミンのそこは俺のものを食らいつき、腕の支えなしでもよくなったのだけれども)
チャンミンの動きはぎこちなく、「もしかして?」と思って尋ねてみたら、人魚同士の行為は初めてなんだそうだ。
「っていうことは...チャンミンの初めては人間だったんだね。
つまり...俺」
「そうなんだよね~。
ねえ、どうだった?」
「人間だった時より、しっくりくる」
「そりゃそうだ」
「まだ下手くそだけど」
回数を重ねるうち慣れてくるだろう。
・
その後、砂浜の波打ち際に誘われた。
「大丈夫なのか?」
打ち上げられるんじゃないかと怖がる俺の手を、チャンミンはぐいぐい引っ張った。
水中生活わずか10日ほどで、水から上がることに俺は恐怖を覚えた。
ここでハッとした。
地上で暮らしていた間の、チャンミンの心境をリアルに想像できた。
チャンミンが感じていた不快感と恐怖とは、計り知れないものだったに違いない。
「ごめんなチャンミン、これまで」
俺は謝った。
「駄目だよユノ。
謝ったら駄目だよ。
僕が居たかったから、ユノの家で暮らしたんだ。
ユノはいっぱい僕の為に尽くしてくれた。
それからね、ユノは凄いことをしたんだよ。
僕のために人間を捨てるなんて...誰も出来ないことだよ。
人魚とは、人間になりたいと願う生き物なんだから。
それなのに...。
言葉では言い尽くせない。
僕は感謝しているんだよ」
「俺もチャンミンに感謝している。
ここまで連れてきてくれてありがとう」
青白く発光する満月は、完璧な丸型をしていて、おとぎ話の世界に居るかのようだった。
浜辺で月を見上げる人魚が二人...絵本の住人そのものだと思った。
読書が出来そうなくらい辺りは明るく、月光のおかげで海面も俺たちも光を集めて鈍く輝いている。
浜に生えている樹木が、白い砂浜に濃い影を作っていた。
俺のウロコは紫水晶色で、自分のものながら綺麗だと思った。
俺たちは手を繋いで 砂浜に仰向けで寝転がった。
星屑の霞の河が、夜空を斜めに横たわっていた。
「飛行機や船を見る度、いいなぁ、って。
乗ってみたいなぁ、って。
ユノのおかげで、船にも車にも乗ることが出来た」
「飛行機には乗せてあげられなかったね」
「全~然。
船だけで十分。
夢が叶った」
「よかったね」
「...ユノと出逢う前の僕は...。
海にちゃぷちゃぷ浮いてね、月や星を眺めたなぁ。
あまりに遠い世界でね。
独りぼっちだったから、寂しくてね。
いつも涙が出てしまうんだ」
流れ星がつーっと、右から左へと横切った。
「そうだったんだ...」
・
チャンミンと出会った日の話だ。
うっかり者のチャンミンは、海面にぷかぷか浮いているうちに寝入ってしまい、波打ち際まで流されてしまったらしい。
干上がりかけて瀕死のところを俺に救われた。
今夜のように満月の日だったから、砂浜に打ち上げられた人魚を見つけることができた。
初めて目にした時、華奢な身体つきから、『彼女』かと思った。
抱き起こした時、固く平らな胸と喉仏に、『彼』だと知った。
上半身に対して下半身...尾びれ...は大きく立派で、俺の背丈ほど長かった。
ああ、これが人魚なのか、と感動した。
そして俺は、チャンミンを自宅まで連れ帰ったのだ。
・
「ねえ。
僕ね、ユノとの赤ちゃんが早く欲しいんだ」
「知ってる」
『人魚は弱く儚い存在だけど、人間に出来ないことがある』
チャンミンからのプロポーズ代わりの言葉だ。
俺はうつ伏せになって、チャンミンを見下ろした。
人魚は雌雄一体だという。
「じゃあ俺もそれが可能だっていうこと?」
複雑な心境で恐る恐る尋ねたら、
「ユノは背びれが付いているから、完全なる雄」
と、俺の背骨から尾てい骨にかけて生えた背びれに触れた。
「背びれは、強靭な肉体を持つ証なんだ」
「チャンミンは?」
「僕も雄だけど完全なる雄ではないから、赤ちゃんを産むことができる」
「選ばれし存在だね」
チャンミンはふっと笑った。
「...ユノには黙ってたけど」
「何?」
チャンミンを当うと、彼は俺の肩越しに月夜に魅入られたままに見えた。
「人魚が孕みたければ、満月の夜に交わるべし...」
「えっ、そうなの?」
チャンミンは仰向けからこちらへと向き直ると、俺の胸の上にのしかかった。
「そうなのだ。
でも、そのつもりで誘ったわけじゃないよ。
ユノと抱き合いたくて...。
...今思い出した。
黙っててごめんね」
チャンミンはぺろっと、いたずらっ子のように舌を出してみせた。
「いや、全然」
俺はチャンミンを砂浜に組み敷くと、その可愛らしい舌を頬張った。
(おしまい)
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