今日一日あった出来事を、事細かにサチさんに報告するのが日課だった。
サチさんは、僕の言うことを頷きながら聞いてくれる。
僕とサチさんは、高校生の頃から交際していて、それから10年以上たった今でも、僕はこんなにもサチさんのことが大好きだった。
部屋の天井灯を消し、ダイニングテーブルの上のライトだけ点けて、僕はウィスキーの水割りを飲みながら、サチさんは梅酒のロックで、向かい合わせに座って、僕らは他愛ない会話を交わす。
「ねぇ、サチさん、今日はこんなことがあったんだ」
「うんうん、それで?」
僕を見つめるサチさんと、サチさんを見つめる僕。
彼女と出会って随分たつのに、サチさんを見るたび僕は、未だに胸が高まる。
ここ一ヶ月、サチさんがうちにやってくる頻度が減ってきた。
僕はそのことが、とても寂しい。
サチさんは、仕事人間だ。
がっかりした気持ちで、僕はいつものようにウィスキーの水割りを作って、ダイニングテーブルにつく。
TVはつけない。
サチさんはTVを滅多に見ないから、自然と僕も静寂な部屋を好むようになった。
ダイニングテーブルをはさんだ向こうは無人だ。
手を付けられていないグラスの氷はすっかり溶けてしまっている。
サチさんが飲まなかった梅酒を僕は一気に飲み干す。
サチさんが来なくても、僕は馬鹿みたいにサチさんのために、飲み物を作ってあげる。
溶けた氷で、薄まってぼやけた味がする。
サチさんは、毎晩グラスに一杯だけ梅酒を飲んでいた。
だから、僕はサチさんが好きだった梅酒のストックはかかさない。
数日前のこと。
いつもは夜にしか訪ねてこないサチさんが、夕方のうちにやってきた。
休日だった僕は、衣替えをしようとクローゼットの中を整頓していた。
「サチさん、このワンピース気に入ってたよね?」
ノースリーブでフレアなデザインのそれは、25歳の誕生日に僕がサチさんに買ってあげたものだ。
水彩絵の具をにじませたような花を描いた、藍色の色合いが美しい生地だ。
「サチさん、着てみせてよ」
「私、いくつだと思ってるの~?もう入らないわよ」
仕方なく僕は、ハンガーにかかったワンピースを、リビングのカーテンレールに引っ掛けておいた。
「このワンピースを着たサチさんと、僕はスーツできめて、高級レストランに行ったね」
「そうね、交際7年記念だったっけ?」
「ワインがあんなに高いなんて、びっくりした」
「チャンミンのお金だけじゃ足らなくて、私もお財布の中身をひっくり返したわね」
「それは言わないで!恥ずかしい思い出なんだから」
思い出し笑いをしながら、僕の目から涙が零れ落ちた。
ねぇ、サチさん。
僕は全然慣れない。
今の状況に、全然慣れない。
君がいない毎日に、全然慣れないんだ。
サチさん、僕は君に会いたくてたまらない。
サチさんは、月に2,3回は出張がある身で、その日の朝も出張にでかけようとしていた。
前夜、サチさんの部屋に泊まった僕は、彼女のスーツケースを持って、マンションの下まで見送りに出ていた。
「生ものには気を付けて下さいよ」
「胃薬をたくさん持ったから大丈夫」
「取引先がいやらしいオヤジかもしれないから、気を付けて下さいよ」
「引っぱたくから大丈夫」
タクシーが到着して、スーツケースをトランクに入れ、サチさんがシートにおさまっても、
僕は名残惜しくて、開けたウィンドーから顔を出したサチさんにキスをして、
タクシーの運転手さんが咳払いするまで、うんと長いキスをして、タクシーが消えるまで、ずっと見送っていた。
「ホテルに着いたら、電話してくださいよ」
「チャンミンも起きて待っててね」
僕とサチさんが最後に交わした会話だ。
よかった、僕もサチさんも笑顔だった。
お互い笑顔だったことが、僕にとって救いだ。
行っちゃ駄目だ!
どうして、僕はあの日、彼女を引き止めなかったのだろう。
仕事なんかさぼってしまえよ!
経費の節約なんか気にせず、新幹線を使えばよかったのに!
バスなんか乗り遅れてしまえばよかったのに!
どんなに怖い思いをしただろうか。
ほんの少しでも、僕のことを思い出しただろうか?
その晩、どれだけ待っても彼女からの電話はなく、僕からかける電話も通じなかった。
あまりにも打ちのめされて、僕は葬式にも行けなかった。
「チャンミンのおかげで死なずにすんだわ、ありがとう」って、
僕に抱きつくサチさんの夢を何度みたことか。
「電話して」じゃなくて、
「愛してる」って言っていればよかったと、僕は死ぬほど後悔している。
ねぇ、サチさん、
お願いだから、戻ってきて欲しい。
僕は、サチさんを思い出すたび、いくらだって涙を流せる。
サチさんを強く、恋焦がれる思いが僕にサチさんの幻影を見せる。
はたからは、僕はひとりごとを言っているように見えただろう。
けれども、僕は大真面目だった。
僕の目には、テーブルの向こうで、梅酒をちびちびと飲むサチさんが映っているんだ。
もうしばらく、
もう少しの間だけでいいから、
僕の気持ちがしゃんとするまで、サチさんに会っていたい。
会社にいる時、友人といる時は、僕は平気なふりをしている。
あまりに平然としているから、実は恋人を亡くして打ちひしがれているとは、誰も想像も出来ないと思う。
平気なふりをしているうちに、だんだんとそれが普通になってきた。
サチさんの不在が当たり前のようになってきたことが、哀しい。
サチさんがいなくて、僕は息の根が止まるほど苦しいのに、僕は生きているわけで、
これからは、サチさんがいない世界を生きていかなくてはならない。
サチさんが、僕の前に現れる日が、少しずつ減ってきたことも、たまらなく寂しい。
寂しいけれど、日常は容赦なく続くわけで、幻想の世界に浸っているばかりもいられない。
半年ぶりに、職場の同僚たちと飲んで帰宅した深夜。
リビングのソファで酔いつぶれていると、サチさんがすっと現われた。
僕の頭を膝にのせて、手ぐしで髪をすいてくれる。
ああ、そうだった。
僕はこうされるのが大好きだった。
「ねぇ、チャンミン」
僕は、とにかく酔っぱらっていて、半分眠っている状態で、目をつむったままサチさんの声を聞いていた。
「あなたはもっと、人と会うべきよ、いろんな人とね。
いろんなところへ出かけるべきよ。
美味しいものを食べて、飲んで。
お腹を抱えて笑う日が来て欲しいと、願っているの。
あなたはハンサムで、とっても優しい人だから、
あなたのことを好きになる女の子は沢山いるはずよ。
私のことを想ってくれるのは嬉しいわ、でもね、
今のままじゃ駄目よ、チャンミン。
いつまでも、悲しみの海の底にいないで、チャンミン」
サチさんの声が子守唄のようで、僕を眠りに誘う。
僕の頬は、サチさんのワンピースの上。
僕がプレゼントしたワンピース。
藍色がよく似合っていたサチさん。
「私は、ずっとあなたのことを忘れないから。
でもね...、
あなたは、私のことを忘れてね...。
全部忘れられたら寂しいから、そうね...。
1年に1度だけちょこっと思い出してくれるだけでいいわ」
サチさんは、僕の髪をやさしくなでる。
「ねぇ、チャンミン。
あなたをいつまでも引き止めてしまって、ごめんなさいね」
明け方、猛烈な喉の渇きを覚えて目を覚ました僕は、蛇口から流れる水を、手ですくって飲んだ。
何度も手ですくって飲んだ。
濡れた口元を手の甲で拭いながら、リビングを振り返る。
スーツはしわだらけで、部屋の空気はよどんでいる。
カーテンをひき、窓を開けて、新鮮な空気を取り込む。
窓の外の明け方の白んだ空に、淡い三日月が見える。
僕は、異変に気づいてハッとする。
ワンピースが消えていた。
カーテンレールには、ハンガーだけが残されていた。
水彩絵の具で描いたような、にじんだ色合いが美しいワンピースがなくなっていた。
サチさんが、持っていったに違いない。
しんとした心で、僕は確信していた。
もう、サチさんは僕の前に現れることは、ないだろう、と。
僕はもう、サチさんに会えなくなった、と。
「しっかりしろ!」
僕は口に出す。
ぴしゃぴしゃと、頬を叩いた。
「ねえ、チャンミン、あなたは生きているのよ」
夢うつつの中、昨夜、サチさんが最後に言った言葉を思い出す。
「あなたは、私がいなくても大丈夫だから」
僕はぐっと涙をこらえて、もう一度口に出す。
「しっかりしろ、シムチャンミン!」
僕は大きく深呼吸をして、しわくちゃのスーツを脱ぎ、熱いシャワーを浴びるためバスルームへ向かった。
ほとばしるシャワーと真っ白な湯気の中、むせび泣いていた。
泣くんじゃない。
熱いお湯が頬を叩く。
しっかりするんだ。
僕はぐっと唇をかんで、心の中で話しかける。
サチさん、ありがとう。
今までありがとう。
僕は、頑張りますよ。
見ていてくださいね。
僕は、あなたのことが大好きでした。
死ぬほど、あなたを愛していました。
(おしまい)
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