息せき切って目指すは、図書館。
建物前が小さな公園になっていて、大きな街路灯のたもとにベンチが置かれている。
足を組んで私を待つのは、大好きな人。
「マイさん」
足音に気付いて顔を上げた彼は、汗だくの私を認めると、にっこりと笑った。
下がった眉、細めた目、目尻のしわ、大好きな大好きな笑顔。
「ごめんね、帰り際に頼まれごとされちゃって」
「僕も今来たところです」
チャンミンが差し出した左手を握って、共に歩き出す。
人通りがほとんどない、等間隔に街路灯が並ぶ歩道を二人で歩く。
街路灯のオレンジ色の灯りに照らされる、チャンミンの端正な横顔を見上げる。
チャンミンと手を繋いで帰路につく。
「お~て~て~、つ~ないで~♪」
大きく前後に振って、私は歌う。
「の~み~ち~を、ゆ~け~ば~♪」
私の手を包み込む、温かい彼の手の平。
「マイさん、また痩せましたか?」
私の歩幅に合わせて歩くチャンミンが、口を開いた。
「チャンミンの気のせいよ」
前を向いたまま私は答えて、チャンミンの手を握りなおした。
「ちゃんと、ご飯食べてますか?」
「食べてるよ」
チャンミンの方を振り向けない。
時おり走り過ぎる車のテールランプ、自動販売機が放つ白い光、曇り空で星は見えない。
「手首が小枝みたいです」
私の手をすっぽりと覆う、チャンミンの指にギュッと力がこもった。
私は何も答えられない。
「途中で、美味しいものを買っていきましょう」
チャンミンが、腕を前後に振った。
チャンミンの腕は長いから、前に後ろにと私は振り回される。
「腕が千切れちゃうよ」
「千切れないよう、いっぱいご飯を食べようね」
「...うん」
不服そうにつぶやく。
チャンミンの手が私を繋ぎとめる。
強風が吹けば、私はどこかへ行ってしまいそう。
大丈夫。
チャンミンの手は離さないから。
チャンミンも離さないでしょ?
・
「ちゃんと眠れていますか?」
しんと落ち着いた口調で、チャンミンが尋ねた。
チャンミンが口にするのは、いつも私を案ずる言葉だ。
「寝坊するくらい、寝てるよ~」
ほんとうのことを言いたくなかった。
「嘘ですね。
そんな幽霊みたいな顔をして。
眠れてないんですね」
「そんなに心配なら、今夜も泊まっていってね」
「いいんですか?」
チャンミンの声は弾んでいる。
私が誘わなくても、泊まっていくくせに。
一緒に暮らそう計画を立てている途中だった。
私は前を向いたままだったけど、チャンミンの笑顔がどんなに輝いているか、見なくてもわかっている。
チャンミンの笑顔は、私を骨抜きにする。
高校生の時から交際していて、あれから10年も経つのにまだ好きで。
同い年なのになぜか敬語で、そんな彼の話し方が大好きで。
彼と目が合うと、未だに私の胸はときめきでいっぱいになる。
チャンミンがいてくれたら、私は無力じゃない。
「そろそろ帰りますね」
後ろから抱きしめていたチャンミンが、身体を起こした。
私とチャンミンの間で温められた空気が逃げてしまい、背中が急に寒々とした。
「もう?」
チャンミンに見捨てられたかのような、すがるような眼をしてしまったのだと思う。
チャンミンは、ふっと小さなため息をつく。
「そんな顔をしないでください。
仕方ないですね。
マイさんが寝付くまで、帰りませんよ」
再び横になったチャンミンは、私の前髪を指ですく。
「マイさんは、
僕がいないと、そんなに駄目になっちゃうんですか?」
チャンミンの腕の中で、私はこくりと頷いた。
ベッドに横たわったままの私の目に、薄暗い室内の様子が映る。
テーブルの上には、ほとんど手がつけられず冷え切ってしまった料理が並んでいた。
幸せなのに、寂しくて。
そうね、チャンミンの言う通り、痩せたかもしれない。
かなり痩せたかもしれない。
チャンミンの言う通り、幽霊のような顔をしているのかもしれない。
よく眠れないの。
目が冴えて、何度も寝返りをうって、ようやくまどろむのは夜明け頃。
玄関ドアから外へ出ると、パチンとスイッチを入れて、「外の顔」を作って出勤しているの。
食べたい欲が、眠りたい欲が消えてしまったみたいなの。
ご飯が美味しくないの。
眠くならないの。
私ってば、どうしちゃったんだろう。
チャンミン、どうしたらいいんだろう?
・・・
小さなおにぎり1つが、私にとって大盛りカツ丼くらいのボリュームに感じられる。
チャンミンは、ちびちびとかじる私を、じーっと見張っている。
「はい、よく噛んで。
少しずつでいいですから、飲み込んで」
ひと口食べるごとに、お茶を手渡してくれる。
「ほら、もうひと口。
あと少しですよ」
「うっ...」
胃の腑から、せりあがってくる吐き気に耐えられず、トイレへ走る。
トイレにうつむき、大きく息を吐く。
えずいてもえずいても、ほとんど出ない。
当然だ、ほとんど食べていないんだもの。
背後に立ったチャンミンは、口元にかかる髪をおさえてくれる。
「ごめんなさい。
無理に食べさせた僕が悪かったです」
優しく背中をさすってくれる。
「苦しいですね。
僕が悪かったです」
私の背をさすりながら、チャンミンは何度も謝った。
どろどろになった顔をタオルで拭いていると、チャンミンは冷蔵庫からゼリー飲料のパックをとってきて、私に渡す。
「これならお腹に入るでしょう?」
キャップを開けられずにいると、チャンミンは苦笑まじりのため息をついた。
「僕がいない時は、どうするんですか?」
キャップをひねる瞬間に、チャンミンの手の甲に浮かんだ血管を見つめながら、私は思う。
(全く、その通りなの。
どうしたらいいんだろう?)
そこだけ生気をはなつフィロデンドロンの鉢。
チャンミンが、マグカップに水を汲んで、フィロデンドロンの根元に注ぐ。
一度では覚えきれない突飛な名前だったから、言い間違えるたびチャンミンは笑っていた。
人の手のような形をした大きな葉っぱ。
じょうろを買わないといけませんね、と言いながら、買うタイミングを逃していた。
鉢植えの植物はね、鉢底から水が出るまでたっぷりやるのよ。
かつてした私のアドバイス通りに、生真面目な顔をして丁寧に水やりをするチャンミンを、見つめたのだった。
・・・
ねえ、マイさん。
僕はひどい男ですね。
僕がいないと駄目な女にしてしまっていますね。
安心してください。
僕はマイさんから離れませんから。
怖い夢を見たら、僕はたちまち目を覚まして、マイさんを抱きしめてあげますから。
・・・
ふと、習い事がしたくなった。
急にそんな考えが、浮かんだ。
チャンミンとの待ち合わせ時間より早く到着した日のことだ。
ふらりと入った閉館間際の図書館で、目に留まったちらしをパンフレットスタンドから1枚抜きとった。
いつものベンチに座って『市民講座のご案内』のちらしに目を通す。
料理教室、ダメ、英会話、ダメ、アロマテラピー、ダメ、ヨガ、ダメ。
「今日は早いんですね」
集中していたから、チャンミンがやってきたことに気付けなかった。
チャンミンは、隣に座って私の手元を覗き込む。
「習い事ですか、
いいんじゃないですか?」
「チャンミンもそう思う?」
「マイさんだったら...そうですねぇ...。
初めてのデッサン講座ですかね」
チャンミンは私のことなら、何だってお見通しだ。
「うん、そうなの。
これなら出来そうだから」
「いいですね。
いつか僕の顔を描いてくださいねー」
『いつか』
なんて甘やかな、幸福な響きだろう。
「何年かかるかなぁ?」
「かっこよく描いてくださいねー」
・・・
市民会館の一室で、週に一度の市民講座が始まった。
スケッチブックとデッサン用の鉛筆、練り消しゴム。
これらを入れるバッグも、チャンミンと一緒に選んだ。
気合が入っていた。
今ここで何か新しいことを始めないと、自分はダメになると切羽詰まっていた。
講習生は20人ほどで、講師も市内で絵画教室を開いているという、優しそうな女性だった。
教室をざっと見渡すと、20代から60代まで様々で、夜7時のクラスだということもあり、私のようなスーツ姿の者が半分。
長テーブルに2人ずつ席につく。
初回の課題は、めいめいが持参したものをデッサンする。
勤め帰りだから、通勤バッグに入れられるものは限られている。
つぶれないようタッパーに入れたものを取り出していると、「あっ!」という声が。
隣席の男性が、ひどく困った顔でティッシュに包んだものを凝視している。
その様子を見つめる私に気付くと、彼は肩をすくめて手の中のものを私に見せた。
「つぶれてしまいました」
ティッシュの中には、無残につぶれたピーマンが。
「困りました」
他の生徒たちは、バナナだとか、化粧ポーチだとかのデッサンを始めている。
「私のものでよければどうぞ。
沢山ありますから」
タッパーの中のイチゴをすすめた。
「美味しそうですね」
「今食べちゃったら、デッサンできませんね」
そう言ったら、彼は肩を小さく震わせて笑っていた。
清潔そうで、穏やかそうな人だというのが、第一印象だった。
きれいな歯並びをしていたし、ペンケースや鉛筆を取り扱う所作が丁寧だった。
ティッシュでくるんだだけのピーマンを、バッグに入れたらつぶれちゃうでしょうに。
きちんとしていながらも、ほんの少しの隙がこの人の魅力だと思った。
誰もが無言で、鉛筆が紙をこする音の中、テーブルの間をぬって講師が、一人一人に的確なアドバイスをする。
「しょっぱなから難しいものを選びましたね」
「そうなんです。
じゃがいもみたいになってしまいました」
イチゴを描くのは難しかった。
種を描こうとすればするほど、無数に穴が穿たれた塊になっていく。
隣を見ると彼も苦戦していて、私以上に下手くそで、小さく吹き出してしまった。
「笑いましたね」
彼は素早く両手でスケッチブックを隠したが、彼の両耳が真っ赤になっていて、さらに私は吹き出してしまった。
講師のお姉さんは、私と彼を前にお手本を見せてくれる。
「種を描こうとするのではなく、種の周囲の盛り上がった部分、
光が当たっているでしょう?」
彼が黒く塗りつぶしてしまった箇所を、練り消しゴムで軽くこすり取る。
「わぁ...」
一気に立体的なイチゴになって、私と彼は顔を見合わせる。
「光に注目してくださいね。
光を作れば、おのずと凹んだ部分ができますから。
影になっているからといって、黒く塗りつぶしちゃだめですよ」
すとんと納得できて、何度も頷いた。
講座が終了し教室を出た私は、彼を見てまた吹き出すこととなった。
彼は手の平にイチゴをのせたままだった。
「これ...食べてもいいですか?」って。
自然な流れで、駅までの道のりを彼と並んで歩くことになった。
ぽつりぽつりと、自己紹介に近い会話を交わした。
30代だろうか。
チェックのシャツに細身のデニムパンツとラフな格好だった。
着飾った感じはしないからアパレル系ではなさそう。
チャンミンみたいに背が高い人だった。
(そうなの。
なんでも、チャンミンが基準なの)
「僕はこういうものです」
別れ際、彼から名刺を渡された。
「設計士さん?」
「そうです」
何か言いたげな彼の表情に気付いて、私も名刺入れを取り出した。
「マイさん、ですか」
「はい」
「また来週」
「来週の講座で」
互いに軽く手を振って、駅前で別れた。
今夜は会えないとチャンミンには伝えてあった。
明日、上手く描けたイチゴの絵を、チャンミンに見せてあげよう。
デッサン講座の後に、彼とコーヒーを一杯飲むのが習慣になった。
ゆったりと落ち着いた物腰と、安心させてくれる低い声。
力が入っていた肩のこわばりがとけていった。
襟足の髪が、くるんと内巻きになっているのが可愛らしいと思った。
一週間が待ち遠しかった。
チャンミン...。
ごめんなさい。
気になる人ができました。
ごめんなさい。
(後編へ続く)
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