~彼~
頬にかかった一筋の髪をそっとよけてやる。
彼女の額に自分の額をくっつけて、肩を抱いた。
彼女は眠ったまま目を覚まさない。
触れたむき出しの肩が冷たくて、床に落ちた毛布をかけてやる。
「はあ...」
僕らはこうして身体を寄せ合っているのに、彼女が遠い。
繋がる回数を重ねても、僕の心は満たされない。
何かが僕らを隔てている。
彼女の額に僕の額を合わせ、彼女の呼吸に合わせて僕も、息を吸って吐いた。
彼女に同調しているうち、眠くなってくる。
僕の腕の中で「彼」を想っているのでは...との疑いが心をかすめてヒヤリとした。
今この時も、「彼」の夢をみているとしたら、辛い。
辛すぎる。
僕らは、意識して『今』のことか、『これから』のことを話題にするよう気をつけていた。
相手が悲しい過去を思い出さないようにという、思いやりの心を持って。
僕らは2人でいることをスタートしたばかりで、2人で経験していくであろう出来事に、ワクワクしなくちゃいけないから。
いや、違う。
思いやりの心からなんかじゃない。
僕の場合、おびえていただけなんだ。
ねぇ。
「彼」はどんな人だった?
今も忘れられないの?
臆病な僕は、君に尋ねられない。
死んでしまった「彼」に、僕は勝てない。
今の僕は、君を真っ直ぐに見つめているのに、君の心はやっぱり「過去の彼」に向いているのかな?
知りたいけれど、知りたくない。
僕の質問に答えようと、君は彼を思い出そうとするだろう。
そうしたら、君は「彼」との思い出にもう一度胸を痛めるかもしれない。
出逢った頃のように、君の視線の先が僕を通り越したところにあったように、逆戻りしてしまうかもしれない。
目の前にいる現実の僕を見て欲しいから。
だから僕は、君の過去は知りたくない。
~私~
眠っているふりをしていた。
シムさんの指が私の頬に触れたけど、熟睡しているふりをした。
私の現実は、今ここにあるのに。
今の私の心は、頬に触れているシムさんに向けられているのに。
亡くなった恋人、サチさんに注いでいたシムさんの愛情と、今の私がシムさんへ抱いている愛情を天秤にかけてみたらきっと、かつてのシムさんのものの方が深くて熱いに決まっている。
それくらい、サチさんの存在は大きくて強力なのだ。
私は負けそう。
私は寝返りをうつふりをして、シムさんの胸に腕を巻き付けて、彼の脇腹に鼻先を埋めた。
こんなに近くにいるのに、遠かった。
私の寝顔を見下ろしながら、サチさんの寝顔を思い出しているかもしれない。
私の心は、過去に引き戻されそうだった。
シムさんは私の肩を抱いて引き寄せたけど、私は眠ったふりをしていた。
・
ねえ、チャンミン。
新たに誰かを好きになるなんて、私には無理だったのかな。
よりによって、10年越しの恋人を亡くした人だなんて。
私じゃ太刀打ちできないよ。
どれくらい想いが深いものなのか、私は知ってるから。
私もそうだったから。
チャンミンと最後に別れた、真冬の図書館の情景が浮かぶ。
久しぶりに思い出した。
紺のダッフルコートを着たチャンミンが、脚を組んでベンチに腰かけていた。
どれくらい待っていたのか、チャンミンの鼻が冷気で赤くなっていた。
10年も付き合っていたのに、それでもまだ大好きだったあの頃。
「マイさん」
懐かしい、懐かしい笑顔。
「泣きそうじゃないですか。
マイさんは泣き虫ですねぇ」
ベンチから立ち上がったチャンミンは、俯いて立ち尽くす私の元へ駆け寄ってきた。
チャンミンがいつも履いていたスニーカーが、霜柱を踏んでシャリシャリと音をたてた。
「マイさん...。
綺麗になりましたね」
チャンミンの冷たい指が、私の涙をぬぐう。
「チャンミン...」
今、チャンミンに抱き着いたら駄目だ。
粉雪が舞うしんと冷えた空気、風はなくて静寂の二人だけの世界。
「マイさんが僕のことが忘れられなくて、未練で苦しんでいるのではないことは、分かっていますよ」
そう。
私が求めているのは、ダッフルコートのチャンミンじゃないのだ。
「僕が大好きになった人なんですよ、あなたは」
チャンミンは私の背中をあやすように叩いた。
「大丈夫です。
彼も、あなたのことが大好きです」
「...そうかな...?」
「はい、その通りです。
僕が保証します」
チャンミンはとん、と胸を叩いてみせた。
「ホントに?」
「はい」
チャンミンはにっこり笑って、大きく頷いた。
「僕の人生は、マイさんと居た10年で終わりなのです。
これ以上はありません。
冷たい言い方かもしれませんが、
これからのマイさんの人生に、僕は寄り添えません。
僕はもう、マイさんと一緒にはいられないのですよ。
僕は...」
チャンミンは左の手の平に、右手の手刀をパチンと打った。
「ここまでです」
涙が引っ込んだ。
「しっかりしなさい!」
ぴしゃりとしたチャンミンの口調に、私の背が伸びた。
ふっとチャンミンの表情が和らぎ、身をかがめると、私を覗き込んだ。
「マイさん」
優しい性格そのものの、丸いカーブを描いた目で。
「彼の名前を教えてくれませんか?」
「...ミン...」
チャンミンは手を耳にあてて、大袈裟な身振りで問う。
「聞こえませんね」
「...チャンミン」
「声が小さいですよ」
「チャンミン!」
「よろしい。
よくできました」
~彼~
「絵が下手だったあなたが...上手に描けたわね」
うたた寝をしていた僕は、その声にうっすらとまぶたを開けた。
ソファに横になった僕の視界に、花模様のフレアスカートの裾がひらりと。
その人は手にしていたスケッチブックを、僕の前に差し出した。
「この人ね」
僕は頷いた。
「あなたのことが大好きなのね」
「え...?」
「チャンミンも、大好きなのね」
僕は頷いた。
「サチさ...」
「しー」
僕の唇に、人差し指が当てられた。
視線を上げようとしたら、サチさんの手が僕の目を覆った。
「目を閉じて」
その通りにした。
「目を開けて」
その通りにした。
「...チャンミン...」
瞬時に目覚めた。
遅れて彼女のまぶたもぱっちりと開いた。
直後、びっくりしたような顔をする。
僕の方も一瞬、息が止まった。
「マイさん...今?」
「...えっと...」
自分でも分かる。
今の僕の顔が、くしゃくしゃになっていることを。
「今...なんて言いました?」
「チャンミン...って言った」
「僕の名前を、初めて呼んでくれましたね」
「...そう...なるわね」
頬をぽりぽりかくマイさんが、滅茶苦茶照れていることも分かる。
「急に、どうしちゃったんですか...?
とても...嬉しいです」
僕らは額同士をくっ付け合って、子供みたいにくすくす笑う。
僕らの間に流れていた空気が変わっていた。
「...夢を、見ていた」
マイさんが囁くように言った。
「もしかして...『彼』の夢、ですか?」
「うん」
はっきりと認めた彼女だけれど、僕の心は全くざわつかなかった。
「夢の中で...シムさんの...、シム・チャンミンのことが、大好きだ、って。
そういう夢を見ていた」
「大好き...ですか...」
ぞくぞくするほどの喜びが胸にせりあがってくる。
「大好き...ですか」
マイさんへの愛情はホンモノだったのに、彼女から注がれる愛情を素直に受け取っていなかったのは、僕の方だった。
たったそれだけのことだった。
~私~
「この際、ぶちまけましょう」
額を離した私たちは、裸の身体を起こしてベッドの上に座った。
私は毛布にくるまったまま、チャンミンはあぐらをかいて向かい合う。
「はっきり認めますけど、僕は彼女のこと...『彼女』が忘れられません」
「ずいぶんはっきりと言うのね」
チャンミンの言葉を聞いても、全然平気だった。
これまでの探り合いの妙な駆け引きは、もう無用だった。
「僕が忘れられないのは、『彼女』と過ごした10年分の時です。
あいにく、省略も消去もできません。
こればっかりはどうしようもないのです」
チャンミンは両手を伸ばし、私のそれを包み込んだ。
前髪があっちこっちとはねていているのに、顔も台詞も真面目なのだ。
「...これを聞いて、マイさん、僕のことがイヤになりましたか?
未練がましい、と」
「いいえ」
私は首を振る。
未練じゃないの。
比較するつもりもないの。
ただ、忘れられない人がいた、という事実だけ。
そんなこと、分かってたはずだったのに。
チャンミンは私の手を引き寄せると、手の甲に唇を押し当てた。
「『彼女』が好きだったのは過去の自分です」
「じゃあ、私からも正直な気持ちを言うわね」
私も口を開く。
「私も『彼』のことが忘れられないの。
簡単に忘れられない...とても大切な人だったから」
「そうでしょうね」
笑ったチャンミンの目尻にしわがよって、それはそれは優しい表情だった。
デッサン教室で私の心をとらえたのは、この笑顔だったのだ。
「でも...そういう過去があった、というだけ。
だからといって、この過去は消せないの。
この過去も含めて私なの」
私もチャンミンの手を引き寄せて、手の甲にキスをした。
「...つまり、僕らは『大恋愛経験者』ってなわけですね」
「そうなのよねぇ...。
これから私たち、どうなっちゃうんでしょう?」
「僕という人間は、誰かのことを好きになったとき、とことん好きになるんです。
ずーっと、長く。
だから、マイさんも覚悟してください。
僕はとても、しつこい男ですから。」
「それくらいの人じゃなくっちゃ、物足りないから、私にはちょうどよいわね」
「似たもの同士ですね」
チャンミンの両腕がにゅうっと伸びてきて、私の肩を引き寄せる。
そして、ぎゅうっと力いっぱい、痛いくらいに私の頭を胸に押し付ける。
気恥ずかしさから、こんなふざけた感じのハグをしているって、分かってる。
「『彼』がマイさんをここまでいい女に育ててくれたと、感謝することにしました。
『彼』と10年一緒にいたマイさんだから、僕は好きになったんだと思います。
10年ですよ?
そんなマイさんです。
さぞかしマイさんは、僕のことをうんと大事にしてくれるだろうなぁ、って」
「そうね」
「昔と比べて、僕は大人になりましたから、想いは深いですよ」
私を抱えこんだ腕の力がゆるむ。
そして、互いの頬をくっ付け合った。
チャンミンの肌が熱い。
私の肌も熱い。
「マイさん。
もう一度、僕の名前を呼んでください」
「チャンミン」
「『シムさん』より、断然いい感じです」
「そう?」
「当然ですよ」
頬をくっ付け合ったまま、チャンミンの手が私の髪を撫でる。
私もチャンミンの背に腕を回して、その肌を撫ぜた。
「これはね、愛の告白ですよ」
チャンミンの喉がこくりと動いた。
私も緊張している。
「今の僕は、あなたのことしか考えていませんよ。
もちろん、これからも」
デッサン教室で、つぶれたピーマンを手に困り顔で笑っていたチャンミンを思い出した。
思い出し笑いをしていたら、「僕の顔に何かついてますか?」と眉を下げた。
「僕は...美味しそうにご飯を食べてたマイさんのこと、忘れられません。
思い出すと顔がニヤけます。
これからも、僕と2人で、美味しいものを食べましょうね。
僕は大食いだから、マイさんは太ってしまいますね」
「はい。
ふつつかな私ですけど、よろしくいお願いします」
「ハハッ。
僕の方こそ、よろしく、です」
(おしまい)
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