(5)水彩の月★

 

~彼~

 

 

頬にかかった一筋の髪をそっとよけてやる。

 

彼女の額に自分の額をくっつけて、肩を抱いた。

 

彼女は眠ったまま目を覚まさない。

 

触れたむき出しの肩が冷たくて、床に落ちた毛布をかけてやる。

 

「はあ...」

 

僕らはこうして身体を寄せ合っているのに、彼女が遠い。

 

繋がる回数を重ねても、僕の心は満たされない。

 

何かが僕らを隔てている。

 

彼女の額に僕の額を合わせ、彼女の呼吸に合わせて僕も、息を吸って吐いた。

 

彼女に同調しているうち、眠くなってくる。

 

僕の腕の中で「彼」を想っているのでは...との疑いが心をかすめてヒヤリとした。

 

今この時も、「彼」の夢をみているとしたら、辛い。

 

辛すぎる。

 

僕らは、意識して『今』のことか、『これから』のことを話題にするよう気をつけていた。

 

相手が悲しい過去を思い出さないようにという、思いやりの心を持って。

 

僕らは2人でいることをスタートしたばかりで、2人で経験していくであろう出来事に、ワクワクしなくちゃいけないから。

 

いや、違う。

 

思いやりの心からなんかじゃない。

 

僕の場合、おびえていただけなんだ。

 

 

ねぇ。

 

「彼」はどんな人だった?

 

今も忘れられないの?

 

臆病な僕は、君に尋ねられない。

 

死んでしまった「彼」に、僕は勝てない。

 

今の僕は、君を真っ直ぐに見つめているのに、君の心はやっぱり「過去の彼」に向いているのかな?

 

知りたいけれど、知りたくない。

 

僕の質問に答えようと、君は彼を思い出そうとするだろう。

 

そうしたら、君は「彼」との思い出にもう一度胸を痛めるかもしれない。

 

出逢った頃のように、君の視線の先が僕を通り越したところにあったように、逆戻りしてしまうかもしれない。

 

目の前にいる現実の僕を見て欲しいから。

 

だから僕は、君の過去は知りたくない。

 

 


 

~私~

 

 

眠っているふりをしていた。

 

シムさんの指が私の頬に触れたけど、熟睡しているふりをした。

 

私の現実は、今ここにあるのに。

 

今の私の心は、頬に触れているシムさんに向けられているのに。

 

亡くなった恋人、サチさんに注いでいたシムさんの愛情と、今の私がシムさんへ抱いている愛情を天秤にかけてみたらきっと、かつてのシムさんのものの方が深くて熱いに決まっている。

 

それくらい、サチさんの存在は大きくて強力なのだ。

 

私は負けそう。

 

私は寝返りをうつふりをして、シムさんの胸に腕を巻き付けて、彼の脇腹に鼻先を埋めた。

 

こんなに近くにいるのに、遠かった。

 

私の寝顔を見下ろしながら、サチさんの寝顔を思い出しているかもしれない。

 

私の心は、過去に引き戻されそうだった。

 

シムさんは私の肩を抱いて引き寄せたけど、私は眠ったふりをしていた。

 

 

 

 

ねえ、チャンミン。

 

新たに誰かを好きになるなんて、私には無理だったのかな。

 

よりによって、10年越しの恋人を亡くした人だなんて。

 

私じゃ太刀打ちできないよ。

 

どれくらい想いが深いものなのか、私は知ってるから。

 

私もそうだったから。

 

チャンミンと最後に別れた、真冬の図書館の情景が浮かぶ。

 

久しぶりに思い出した。

 

紺のダッフルコートを着たチャンミンが、脚を組んでベンチに腰かけていた。

 

どれくらい待っていたのか、チャンミンの鼻が冷気で赤くなっていた。

 

10年も付き合っていたのに、それでもまだ大好きだったあの頃。

 

「マイさん」

 

懐かしい、懐かしい笑顔。

 

「泣きそうじゃないですか。

マイさんは泣き虫ですねぇ」

 

ベンチから立ち上がったチャンミンは、俯いて立ち尽くす私の元へ駆け寄ってきた。

 

チャンミンがいつも履いていたスニーカーが、霜柱を踏んでシャリシャリと音をたてた。

 

「マイさん...。

綺麗になりましたね」

 

チャンミンの冷たい指が、私の涙をぬぐう。

 

「チャンミン...」

 

今、チャンミンに抱き着いたら駄目だ。

 

粉雪が舞うしんと冷えた空気、風はなくて静寂の二人だけの世界。

 

「マイさんが僕のことが忘れられなくて、未練で苦しんでいるのではないことは、分かっていますよ」

 

そう。

 

私が求めているのは、ダッフルコートのチャンミンじゃないのだ。

 

「僕が大好きになった人なんですよ、あなたは」

 

チャンミンは私の背中をあやすように叩いた。

 

「大丈夫です。

彼も、あなたのことが大好きです」

 

「...そうかな...?」

 

「はい、その通りです。

僕が保証します」

 

チャンミンはとん、と胸を叩いてみせた。

 

「ホントに?」

 

「はい」

 

チャンミンはにっこり笑って、大きく頷いた。

 

「僕の人生は、マイさんと居た10年で終わりなのです。

これ以上はありません。

冷たい言い方かもしれませんが、

これからのマイさんの人生に、僕は寄り添えません。

僕はもう、マイさんと一緒にはいられないのですよ。

僕は...」

 

チャンミンは左の手の平に、右手の手刀をパチンと打った。

 

「ここまでです」

 

涙が引っ込んだ。

 

「しっかりしなさい!」

 

ぴしゃりとしたチャンミンの口調に、私の背が伸びた。

 

ふっとチャンミンの表情が和らぎ、身をかがめると、私を覗き込んだ。

 

「マイさん」

 

優しい性格そのものの、丸いカーブを描いた目で。

 

「彼の名前を教えてくれませんか?」

 

「...ミン...」

 

チャンミンは手を耳にあてて、大袈裟な身振りで問う。

 

「聞こえませんね」

 

「...チャンミン」

 

「声が小さいですよ」

 

「チャンミン!」

 

「よろしい。

よくできました」

 

 


 

~彼~

 

 

「絵が下手だったあなたが...上手に描けたわね」

 

うたた寝をしていた僕は、その声にうっすらとまぶたを開けた。

 

ソファに横になった僕の視界に、花模様のフレアスカートの裾がひらりと。

 

その人は手にしていたスケッチブックを、僕の前に差し出した。

 

「この人ね」

 

僕は頷いた。

 

「あなたのことが大好きなのね」

 

「え...?」

 

「チャンミンも、大好きなのね」

 

僕は頷いた。

 

「サチさ...」

 

「しー」

 

僕の唇に、人差し指が当てられた。

 

視線を上げようとしたら、サチさんの手が僕の目を覆った。

 

「目を閉じて」

 

その通りにした。

 

「目を開けて」

 

その通りにした。

 

 


 

 

「...チャンミン...」

 

瞬時に目覚めた。

 

遅れて彼女のまぶたもぱっちりと開いた。

 

直後、びっくりしたような顔をする。

 

僕の方も一瞬、息が止まった。

 

「マイさん...今?」

 

「...えっと...」

 

自分でも分かる。

 

今の僕の顔が、くしゃくしゃになっていることを。

 

「今...なんて言いました?」

 

「チャンミン...って言った」

 

「僕の名前を、初めて呼んでくれましたね」

 

「...そう...なるわね」

 

頬をぽりぽりかくマイさんが、滅茶苦茶照れていることも分かる。

 

「急に、どうしちゃったんですか...?

とても...嬉しいです」

 

 

僕らは額同士をくっ付け合って、子供みたいにくすくす笑う。

 

僕らの間に流れていた空気が変わっていた。

 

「...夢を、見ていた」

 

マイさんが囁くように言った。

 

「もしかして...『彼』の夢、ですか?」

 

「うん」

 

はっきりと認めた彼女だけれど、僕の心は全くざわつかなかった。

 

「夢の中で...シムさんの...、シム・チャンミンのことが、大好きだ、って。

そういう夢を見ていた」

 

「大好き...ですか...」

 

ぞくぞくするほどの喜びが胸にせりあがってくる。

 

「大好き...ですか」

 

マイさんへの愛情はホンモノだったのに、彼女から注がれる愛情を素直に受け取っていなかったのは、僕の方だった。

 

たったそれだけのことだった。

 

 


 

 

~私~

 

 

「この際、ぶちまけましょう」

 

額を離した私たちは、裸の身体を起こしてベッドの上に座った。

 

私は毛布にくるまったまま、チャンミンはあぐらをかいて向かい合う。

 

「はっきり認めますけど、僕は彼女のこと...『彼女』が忘れられません」

 

「ずいぶんはっきりと言うのね」

 

チャンミンの言葉を聞いても、全然平気だった。

 

これまでの探り合いの妙な駆け引きは、もう無用だった。

 

 

「僕が忘れられないのは、『彼女』と過ごした10年分の時です。

あいにく、省略も消去もできません。

こればっかりはどうしようもないのです」

 

チャンミンは両手を伸ばし、私のそれを包み込んだ。

 

前髪があっちこっちとはねていているのに、顔も台詞も真面目なのだ。

 

「...これを聞いて、マイさん、僕のことがイヤになりましたか?

未練がましい、と」

 

「いいえ」

 

私は首を振る。

 

未練じゃないの。

 

比較するつもりもないの。

 

ただ、忘れられない人がいた、という事実だけ。

 

そんなこと、分かってたはずだったのに。

 

チャンミンは私の手を引き寄せると、手の甲に唇を押し当てた。

 

「『彼女』が好きだったのは過去の自分です」

 

「じゃあ、私からも正直な気持ちを言うわね」

 

私も口を開く。

 

「私も『彼』のことが忘れられないの。

簡単に忘れられない...とても大切な人だったから」

 

「そうでしょうね」

 

笑ったチャンミンの目尻にしわがよって、それはそれは優しい表情だった。

 

デッサン教室で私の心をとらえたのは、この笑顔だったのだ。

 

「でも...そういう過去があった、というだけ。

だからといって、この過去は消せないの。

この過去も含めて私なの」

 

私もチャンミンの手を引き寄せて、手の甲にキスをした。

 

「...つまり、僕らは『大恋愛経験者』ってなわけですね」

 

「そうなのよねぇ...。

これから私たち、どうなっちゃうんでしょう?」

 

「僕という人間は、誰かのことを好きになったとき、とことん好きになるんです。

ずーっと、長く。

だから、マイさんも覚悟してください。

僕はとても、しつこい男ですから。」

 

「それくらいの人じゃなくっちゃ、物足りないから、私にはちょうどよいわね」

 

「似たもの同士ですね」

 

チャンミンの両腕がにゅうっと伸びてきて、私の肩を引き寄せる。

 

そして、ぎゅうっと力いっぱい、痛いくらいに私の頭を胸に押し付ける。

 

気恥ずかしさから、こんなふざけた感じのハグをしているって、分かってる。

 

 

「『彼』がマイさんをここまでいい女に育ててくれたと、感謝することにしました。

『彼』と10年一緒にいたマイさんだから、僕は好きになったんだと思います。

10年ですよ?

そんなマイさんです。

さぞかしマイさんは、僕のことをうんと大事にしてくれるだろうなぁ、って」

 

「そうね」

 

「昔と比べて、僕は大人になりましたから、想いは深いですよ」

 

私を抱えこんだ腕の力がゆるむ。

 

そして、互いの頬をくっ付け合った。

 

チャンミンの肌が熱い。

 

私の肌も熱い。

 

「マイさん。

もう一度、僕の名前を呼んでください」

 

「チャンミン」

 

「『シムさん』より、断然いい感じです」

 

「そう?」

 

「当然ですよ」

 

頬をくっ付け合ったまま、チャンミンの手が私の髪を撫でる。

 

私もチャンミンの背に腕を回して、その肌を撫ぜた。

 

「これはね、愛の告白ですよ」

 

チャンミンの喉がこくりと動いた。

 

私も緊張している。

 

「今の僕は、あなたのことしか考えていませんよ。

もちろん、これからも」

 

 

デッサン教室で、つぶれたピーマンを手に困り顔で笑っていたチャンミンを思い出した。

 

 

思い出し笑いをしていたら、「僕の顔に何かついてますか?」と眉を下げた。

 

 

「僕は...美味しそうにご飯を食べてたマイさんのこと、忘れられません。

思い出すと顔がニヤけます。

これからも、僕と2人で、美味しいものを食べましょうね。

僕は大食いだから、マイさんは太ってしまいますね」

 

 

「はい。

ふつつかな私ですけど、よろしくいお願いします」

 

「ハハッ。

僕の方こそ、よろしく、です」

 

 

(おしまい)

 

 

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