~鏡の中の僕~
「お腹いっぱいですね」
民はテーブルの上に散乱した食器やナプキンを、一か所にかき集め始めた。
「帰りましょうか、リアさんが待ってますよ」
スパイシーなおつまみとアルコール、生温かい空気で、民のおでこが汗で光っている。
「うーん...」
チャンミンの浮かれた気分がしゅんとしぼんだ。
「ピリ辛チキン美味しかったですね。
リアさんにテイクアウトして帰りませんか?」
「いらないって!」
チャンミンの鋭い口調に、民はびくっと肩を震わせると、ゆっくりチャンミンの方を振り向いた。
「ごめんなさい」
民は目元に落ちた前髪をささっと耳にかけると、リュックサックを背負った。
「私ってば、人との距離の取り方が下手なんです。
馴れ馴れしかったですね。
ごめんなさい...」
(しまった!
思わずキツイ言葉を発してしまった)
民の口からリアの名前が出ることに、リアのことを気遣うことに、チャンミンは苛立っていた。
(リアのことに触れて欲しくない。
リアの話題が出ると苦々しい気持ちになる。
今の僕は、リアのことで惚気られない)
チャンミンの後ろをとぼとぼと歩く民をふり返った。
「僕こそごめんな。
リアは脂っこいものは食べないんだ。
気を遣ってくれてありがとうな」
民はうつむいたまま、こくんと小さく頷いた。
気まずい雰囲気のまま二人はエレベーターに乗り込んだ。
「そうですよね。
リアさんは綺麗な人だから...。
スタイルキープが大変なんですね。
私みたいなオトコオンナと同じように考えちゃダメですよね」
小声で話す民は、頭上から吹き付ける空調の風が寒いのか二の腕をさすっている。
鳥肌の立った民の腕は、体毛がなくすべすべしていて、チャンミンは肘までシャツをまくり上げた、自身の腕と見比べてしまうのだ。
「オトコオンナだなんて、そんな言い方しちゃ駄目だよ?
初めて会ったとき...正直に言ってしまうけど。
民ちゃんのことを、男にも、女にも見えなかったんだ。
鏡から出てきた僕かと思ったんだ」
2人はデパートを出て、チャンミンの自宅へと並んで歩きだした。
「民ちゃんもそう思わなかった?」
「はい。
私の場合は、『非常に似ている』って予備知識があったので...チャンミンさんほどではなかったと思います。
でも、ここまで似ているとは予想をしていなくて、目ん玉ぶっ飛ぶくらいびっくりしました」
「ぷっ...目ん玉って...」
チャンミンは吹き出すと、隣を歩く民に目を向けた。
(綺麗な横顔をしている...)
チャンミンはもう、心の中で民を称賛することイコール、自画自賛とは思わなくなってきた。
「民ちゃんを褒める」イコール「僕を褒める」といった単純な図式じゃない。
民ちゃんは僕そのものだ。
まるで僕のものみたいに触れてしまう一方で、
可愛い仕草や表情をする民ちゃんは、僕とおんなじ顔をしてても「イコール僕」にはならない。
民ちゃんと僕は「別物」だ。
「こんな風にジロジロ見てしまって、ごめんな。
視線を感じるだろ?」
「いいえ。
そうだったんですか?」
横を向いた民とチャンミンとの目が、バチっと合った。
一瞬目をそらしたチャンミンに対して、民の眼差しはまっすぐだった。
2人の身長はほぼ同じなため、2人の目線はお互い真正面からぶつかることになる。
「何世代も前へ遡ったら、私とチャンミンさんの先祖は一緒だったかもしれませんね。
遺伝子のいたずらってわけです。
減るものじゃないので、ジロジロ見てても構いませんよ。
その代わり、私も遠慮なくチャンミンさんのことをジロジロ見させていただきます。
ふふふ」
「?」
民の視線がチャンミンを通り越したところに注がれていて、チャンミンは横を向く。
ショーウィンドウにディスプレイされた夏物が気になっているらしい。
「いいなぁ...」
ノースリーブのサマーニットに、ペールイエローのフレアスカート。
「こんなに可愛い洋服...私には似合いません。
女装しているみたいになります。
第一、 サイズがありません」
「民ちゃん...」
高すぎる身長、平らな胸に小さなお尻、太め眉の男顔。
「さっきの話の続き。
昨日、民ちゃんをジロジロ見ていた時に、思ったことなんだけど」
生温かい風が吹いて民の左目を隠した前髪に、チャンミンは人差し指を伸ばして耳にかけてやった。
驚いた民の瞳がかすかに揺れて、チャンミンは胸が詰まった。
(僕と同じ顔をしているのに、どうして男じゃないんだよ。
どうして民ちゃんは女なんだよ)
「僕の目には、民ちゃんは女の子にちゃんと見えているよ」
「...ホントですか?」
民の表情がみるみるうちに輝いてきた。
「そんな風に言ってもらえたの、今日で2回目です」
「へえ」
チャンミンは、民の知り合いがこの街にいたことを意外に思う。
「美容師さんです、私の髪を染めてくれた人です」
「よかったね」
「実は私、1着だけワンピースを持っているんですよ。
それを着て出かけたことは、未だありません」
「例の好きな人とのデートで着ていったらどう?」
「そんな日が来るといいですね」
気付けばチャンミンは、ふふふと目を細めて笑う民の頭を撫ぜていた。
チャンミンの手の平に感じる民の柔らかい髪。
「本当のお兄ちゃんみたいですね」と照れる民の赤い頬。
(今日の僕は、民ちゃんに触り過ぎているな...)
「実はもう一個、びっくりすることがあったんです」
「へぇ。
どんなこと?」
「今はまだ内緒です」
「気になるなぁ」
「ふふふ」
・
2人はマンションのエントランスでエレベーターを待っていた。
チャンミンは舌打ちをした。
「どうしました?」
「いや、何でもないよ」
チャンミンの携帯電話に、リアからの不在着信が入っていた。
着信時刻を確認すると、民とビールを飲んでいた頃だ。
昼間民との通話後、リアへ電話をかけたがリアは出ず、午後3時にリアから着信があったが、打ち合わせ中で出られなかった。
直後、『どういうこと?』と一行だけのメールが送られてきた。
(民ちゃんのことをリアには伝えていなかったし、民ちゃんのことを僕だと間違えていたのに、『どういうこと?』とはどういう意味だろう?)
駅前で民を待つ間にリアへ折り返した時もリアは出なかった。
そこで民と連れだって帰宅する前に、簡単な説明だけはしておこうとメール文を打ちかけた。
かなりの長文になってしまったことと、『大事な話をメールで済ませるってどういうこと?』とリアを不機嫌にしてしまう予感がしたので、言い回しに気を遣ったメール本文を削除してしまった。
(すれ違いばかりじゃないか)
チャンミンは、ため息をついて携帯電話をポケットにしまった。
「緊張しますね。
ドキドキします」
マンションのエレベーターの中で、民は胸を押えて言った。
「チャンミンさんは、ご兄弟はいらっしゃるんですか?」
「うん、妹がいる」
「リアさんには、私のこと『妹』だって紹介するんですよね」
初対面の時に感じたリアの印象を、民は思い出していた。
(リアさんはちょっと怖い人。
でも、昼間からあんな風に迫るくらいだから、チャンミンさんと仲良しなんだなぁ)
「大丈夫ですか?
妹が一人増えることになりますが、つじつま合わせできますか?
チャンミンさんの結婚式の時にバレちゃいますよね。
あらチャンミン、あの大きな妹さんは?って。
あの子は一体何者だったのー!って挙式直前に喧嘩になってしまったりしたらどうしよう...。
でも、一か月くらいしか私はいないんだから、リアさんも忘れてくれますよね。
うん、それなら大丈夫だ」
「ストップストップ!」
突っ走る民をチャンミンは止めた。
「民ちゃん、落ち着いて」
エレベーターがチャンミンの部屋の階にとまった。
「正直に、友人の妹だって紹介するよ。
民ちゃんは僕の妹じゃないだろ?」
(つづく)
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