~あの男~
「お昼は食べてきた?」
優しく問われて民は、「はい」と元気よく答えたが、実際は緊張のあまり昼食どころじゃなかったのだった。
(カッコいい!
この世にこんなに、カッコいい人がいるなんて!)
脚をそろえてソファに腰掛けた民は喉がカラカラで、出されたアイスコーヒーを一気飲みしてしまう。
「お代わりはどう?」
「す、すみません。
お願いします...」
真っ赤な顔になった民は、空になったグラスを差し出した。
(恥ずかしい!
喉が渇いてたから、がぶ飲みをしてしまった!)
「あの...ユンさんはご迷惑じゃなかったですか?
ユンさんの言葉を本気にして、私、ここまでやってきたりして...」
民は一人掛けソファに腰掛けたユンを、上目遣いで見ながら申し訳なさそうに言う。
「いいや、俺は本気だったよ、最初から」
長い脚を組んだユンは、民が提出した履歴書を時間をかけて目を通した。
(全ての欄が埋まっている。
志望動機もはっきりとしている。
しっかりした子だ)
(ユンさん!
胸が...お胸が見えてます!
シャツがちょっとばかし...はだけすぎてやしませんか?
...そんなことより、履歴書大丈夫かなぁ)
書き直しで何枚も無駄にした用紙の数を思い出す。
「お兄さんがいるんだね?」
「はい!」
「へぇ...そう」
ユンはあごの髭を撫ぜながら、観察する目で民をとっくりと見る。
ユンの視線に耐えられない民は、俯いてしまった。
(そんなに私のことを見ないで!)
(初々しいな)
ユンの唇の片方がわずかに持ち上がる。
「君を採用する」
「ホントですか!?」
民の目にじわっと涙が浮かんだ。
「君は無鉄砲な子だね。
もし、俺に追い返されたり、ノーと断られたらどうするつもりだったの?
まさか、俺のところだけを当てにして、ここまで来たんじゃないだろうね」
「!!!」
図星だった民は、ぎくりとしたのであった。
(イエスです。
ユンさんの言う通りです)
~民~
私の行動が、突拍子もないことは分かってる。
私はユンさんに会いたくて、ユンさんの側で仕事をしたい一心で、この半年間、アルバイトを掛け持ちして引っ越し費用を準備した。
ユンさんの単なる気紛れな気持ちで、田舎者の私をからかうつもりで誘ったのだとしても、都会まで出てこようと決心するきっかけを作ってくれたユンさんに感謝している。
「その時は、身の丈に合った仕事を探すつもりでした。
田舎から出て新しいことに挑戦したかったですし...」
世間知らずな子だって、呆れられても仕方がないな。
私は恥ずかしくて顔を上げられない。
チャンミンさんに借りた、綺麗な青い靴を履いた足先に視線を落とす。
「契約書にサインしてもらおうか?
こういうことはきちんとしないと、君も不安だろうからね」
「いえいえ!
不安なってことは...!」
「条件等はここにある通り」
ローテーブルに置いた1枚の書類に印刷された要項ひとつひとつに、ユンさんは指し示しながら説明をした。
ユンさんはいい匂いがする。
きっと私の3日分のアルバイト代でやっとのことで買える、高級な香水なんだろうな。
「多くはあげられないけれど、妥当な金額を支払うよ」
用紙にプリントされた金額を見て、「こんなに沢山?」って驚いた。
ユンさんは目を丸くした私を見て、くすりと笑った。
目尻のしわとか、カッコいい髭とか、大人の男って感じ。
でも、視線の高さがユンさんと同じで悲しくなった。
私は大き過ぎる。
男の人を見上げたいのに。
「朝9時から午後6時まで。
半分はオフィスで、もう半分はアトリエで仕事をしてもらうことになる。
ここまでで、何か質問は?」
「今のところ、思いつきません...」
ユンさんの顔が間近にあって、胸が破裂しそう。
「アシスタントがいなくて、不便だったんだ。
何人か面接をしたんだが、これという子が見つからなくてね。
だから、君から連絡をもらって、僕は助かったよ」
「あの...。
失礼を承知で質問してもいいですか?」
「どうぞ」
「私を雇うのは、同情...からじゃありませんよね?」
ユンさんに「街に出てこないか?君に手伝ってもらいたいことがある」って名刺を渡されたのがきっかけだ。
私の背中にあるやる気スイッチが、バチっと入った瞬間だった。
友達にこのことを話したら、「騙されてるんだよ」「売り飛ばされるよ」「民はウブな世間知らずなんだから」って、ボロクソに言われた。
こんなに素敵な人になら、騙されてもいい。
狭い田舎町では、大きくて男みたいな私は目立つから、狭い交友範囲で彼氏候補の人もいなかった。
彼氏候補どころか、女として見られていなかった。
仕方ないよね。
これといった特技も資格もなく、フリーターだった私はアルバイトをもう一つ増やして頑張った。
私はユンさんに見込まれたのかな。
何を?
なんでだろ?
ユンさんはぷっと吹き出した。
「同情で人を雇うほど俺は優しくないよ。
向こうで君を一目見た時に、ピンときたんだ。
君は使える子だって。
それに」
ユンさんはそこで言葉を切ると、私の前髪にそっと触れた。
ゾクゾクっとした。
(ひぃぃ!
ち、ちか、近いです!)
ユンさんの眼光が突き刺さる。
「ルックスも申し分ない。
俺の作品のモデルになってもらいたいくらいだ。
その時は、ギャラは別口で支払うからね」
モデル?
こっちに来てから、モデルめいている。
カット・コンテストのモデルでしょ、リアさんはモデルでしょ。
「そんな!
モデルだなんて...とんでもない!」
私は両手を激しく振った。
ユンさんは数歩下がって、私の顔と身体を観察するみたいに見始めたから困ってしまった。
そんなに見ないで下さい、恥ずかしいです。
~ユン~
顔のパーツがしっかりしている。
額の形がいい。
全身のバランスもとれている。
痩せた身体がいい。
少年らしい儚げなところが特にいい。
顎に手を添えてかすかに頷いていると、民がもじもじと俯いている。
小さな膝小僧が内股気味だ。
ますます、いい。
オフィスで会った、あの担当者。
この子の双子の兄、ということか。
不思議な巡りあわせだ。
履歴書では「女」とあったが、一卵性で男女の双子はあり得ない。
この子がこうありたい願望が、履歴書に表れているって訳ね。
ガチガチに身体を固くした民の周りを一周した。
そんなに緊張して、可愛い子だ。
顔を近づけると身体をこわばらせるから、ますます可愛い。
男慣れしていないな、この様子じゃ。
ローテーブルに置いた携帯電話が、通話着信を鳴らした。
ディスプレイに表示された発信者に、舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。
通話ボタンを2度押しした。
ぐーっと民の胃が音をたてた。
「ひゃっ!」
お腹をおさえた民の姿に、大声で笑ってしまった。
「ランチはまだだったんだろ?
パスタを茹でるから、食べていきなさい」
民は茹だこのように顔を真っ赤にして、「はい」とつぶやいた。
(つづく)
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